世間さま

智(とも)

第1話

「世間さま」がいつごろからわたしたちの家に住みつくようになったのか、わたしはよく思い出せない。

 もうずいぶん前からのような気もするし、まだほんの最近みたいにも思える。気がついたときには「世間さま」がちゃぶ台についていたし、さんまやら豆腐やらをいっしょに食べていた。カレーライスなんかも。朝は主人と同じようにコーン・フレークに牛乳をかけて食べているらしい。「世間さま」は出されたものを、おとなしく食べる。

「世間さま」の形状はすこし変わっている。

 たけは40センチほどで、横幅はそれよりほんのわずかに短い。厚みは15センチくらい。その平べったい箱のようなからだに顔がついている。からだ全体が顔なのだ。目はゆで卵を横にしたようなかたちで、黒目がすごく大きい。紺色のビー玉がはまっているみたいだ。口の両わきはつねに持ち上がっているので笑っているふうに見えるが、V字形というのでもない。カモメが空をゆったり飛んでいるような格好と言ったらいいか──だから見ようによっては困っているふうにも、悲しんでいるふうにも見える。でもやっぱり、笑っているみたいだけど。

 ふだんは手足もなく、その場にじっとしていることが多い。座椅子に寄りかかっていたり、押し入れの二段目に止まっていたり、物干し場で陽を浴び、目を細めていたりもする。歩いたり、ご飯を食べたりするときにだけ、からだのなかから手足が出てくるのだ。にゅっ、と。とてもむっくりとした手足が。

「世間さま」はおとなしいからいいなぁ、と主人は喉仏のあたりをさすりながら微笑む。夫は騒々しいことが大の苦手なのだ。だから友だちさえつくらない。携帯電話も持っていない。「世間さま」がいることすら、ぼくは時どき忘れてしまうよ──。

「世間さま」はたしかに物静かだった。箪笥たんすと壁の隙間にもぐりこむのが好きらしく、横向きになって何時間も挟まったままでいたりもする。そうなるとこちらからは目も口も隠れてしまうので白い箱となんら変わらない。家の柱やはりに登りたいのかただ眺めているだけなのか、やけに熱心に見上げていたりすることもある。お風呂は嫌いらしく、入れてみようかとこちらがと考えただけで一目散に逃げていく。いちど主人と無理やり湯船につけてみたら、いやにからだがふくれてきたのでびっくりして拾いあげた。しばらくは真っ赤になったまま板の間でのびていた。「世間さま」は、ほんとうに面白い。

 ただ、あたまの左わきについた煙突から、「世間さま」は煙を吐き出す。

 ぽっ、と輪っかになった煙を出し、それが消える前にまたぽっ、と輪を上げる。ぽっ、ぽっ、ぽっ、と。輪っか状の煙を。朝も、昼も、夜も。ぽっ、ぽっ、ぽっ、と。

 その気体はかすかなピンク色をしていて、匂いは綿飴わたあめにすごく似ている。夜店の光景が目に浮かび、人びとのにぎわいが耳に聞こえてきそうになるくらい。わたしは子どものころお祭りが大好きだった。舌の上に感じた甘い味。金魚すくいにヨーヨー釣り。ヒヨコ釣り、なんてものまであったなぁ。あれだけはなんだかかわいそうで見ないようにして通りすぎた。ヒーローたちのお面。わくわくした当てもの屋さん。たいていはソースを塗ったおせんべいしかもらえなかったっけ。大好きだった兄。鼻にしわを寄せて笑う癖。二重瞼ふたえの大きな目。つないだ手と手が夜店の明かりでオレンジ色に染まってた。兄の手のひらの感触に包まれ、安心し、誇らしいような気持ちになった。友だちに見つけてほしくて、まわりをチラチラと見たりもした。そして、やさしかった父と、母──。むかしは家族みんなが、ほんとうに仲が良かったなぁ──。

「世間さま」が家に来て間もないころ、わたしは主人に尋ねてみた。あの煙はなにかしら? さぁね、と夫も首をかしげた。「世間さま」はトイレに行かないみたいだから、その代わりのようなものなんじゃないかなぁ。いやな臭いがするんだったらぼくもつらいけど、さいわいお花畑めいたいい香りだからね。なんにせよ生理的なことだと思うから、こちらからは質問しないほうがいいよ。傷つけてしまったらかわいそうだ。

 そうね、とわたしも微笑む。主人にはお花畑めいたいい香り、に感じるらしい。わたしはやっぱり綿飴の匂いに思えるけど。傷つけてしまったら、というのは考えすぎのような気もしたけど、わたしは夫のそんなやさしすぎるところも好きなのだ。いっしょに暮らし始めてずいぶんと時間が経ったけれど、じぶんにはもったいないほどの人だと──わたしはいまでも思ってる。

 主人は本を書いている。

 すごく哲学的な小説だ。わたしにはむずかしすぎてよくわからない部分も多いのだけれど、素晴らしい本なのだと思う。まっ白な紙にひとたび夫の文章がならぶと、紙面そのものが輝いて見えるのだ。ほんとうにふしぎ。出版はまだされていない。新人賞のたぐいに応募することも、もうやめてしまった。

 人と競争することはもう卒業だよ、と主人は微笑わらう。それになにも急いでプロの作家にならなきゃいけないわけじゃないしね。いまはとにかく、納得のいくものを書きあげたいんだ。

 わたしもうなずく。たっぷりと、いくらだって時間をかければいい。夫の夢がわたしの夢。立派な本が世に出、主人とのことを兄や両親が許してくれる。認めてくれる。そしてその小説は多くの人たちの愛読書となる。その日を迎えることだけが、わたしにとっての生きがいなのだ。

 もちろん、そうは言っても生きていくためにはお金がかかる。夫もアルバイトをしている。毎日の夕刊配達と、日曜日にはショッピング・モールの駐車場で誘導員までしてくれている。ほかの時間はほとんどずっと机に向かっている。わたしは早朝のパン屋さんと、夕方からはスーパーでレジ係。

 裏手にすぐ山が迫り、借り手がつかず放置されていた平屋を見つけることができたので、なんとかやっていける。床が目に見えて傾いているので、すこしでもまっすぐなところにちゃぶ台を置いてご飯を食べる。子どもはいない。ココがどこなのかもわからないのにそんなところへ自分たちの子どもを放り込めるかい? と主人は言う。そんな無責任なことを、と。

 わたしもふたりきりでいられればそれでいい。満足。夫はお酒も飲まず、たばこも吸わず、ギャンブルも女遊びもいっさいしない。家の近くの線路を越えて5分ほど歩いたところに廃墟となっているボウリング場があって、その誰ものぼってこない屋上でお弁当を食べるのがふたりの楽しみだ。さびだらけの金網の前に並んで立ち、夕方のひかりが町並みを照らすのを眺めたりもする。低い山に取りかこまれた平べったい町──。なんだかいつも、終わってしまった時間が色に変わったような感じで、町並み全体が赤く赤く染まってた。

 わたしはほんとうに、しあわせものだと思う。

「世間さま」のからだは上等のまくらのようにふわふわしているのだけど、ずいぶんと熱を持った日もあれば、やけに冷たい日もあった。さわられるのはあまり好きではないらしい。抱っこしようとしてもするりと離れていってしまうのだ。それが、すこしさびしい。

 猫の「パンダちゃん」みたいにくっついていてくれたらいいのに。パンダちゃんはわたしが中学生のときに家に来たメス猫だ。白い背なかにふたつだけ大きながあり、それがパンダの目に見えた。兄が名前をつけたんだ。こいつの名前はパンダにしよう! うん、すごくいいね! パンダちゃん! パンダちゃん! ふたりで手を取り合ってバタバタと跳ねた。パンダちゃんはわたしにいちばんよくなついた。わたしがトイレに行くときもお風呂に入るときもついてきた。そとでじっと待っていてくれた。今の傾いた平屋に越してきたときもいっしょだった。パンダちゃんはいつも確信に満ちた目をしてた。陽だまりみたいな匂いがした。もけもけのお腹の毛がわたしは大好きだった。十九年間もいっしょに生きていてくれた。パンダちゃん、ほんとうにありがとう。パンダちゃんだけは、主人あのひとのことも気に入ってくれてたよね。

 ──このあいだ、──あれはいつのことだったろう? 主人が日曜日のショッピング・モールの仕事を辞めてもいいだろうかと聞いてきた。神経がもたないんだ、と。からだのほうもなんだかずっとだるくてね。やっぱりとしのせいなのかな。もう四十二だものね。

 たしかにその顔は一回り小さくなり、頬骨の下の影ばかりが目立ってきた。

 膝の具合もまだ悪い? わたしは尋ねてみた。いや、だいぶいいよ。歩くとまだ時どき痛むけど──。大型車で来た客のひとりが夫の足を蹴りつけたのだという。誘導の仕方がなってないとか言って。膝の外側が腫れあがってた。ゆるせない。どうして人間のからだを蹴ったりできるのだろう? 大型車に乗っていれば何をしてもいいというのだろうか? 湿布を貼ってあげながら、訳のわからない悔しさに涙がでた。訴える? とわたしは聞いた。夫は笑いながら首を振り、いいよそういうのは。これ以上、かかわり合いたくないな。それにもう、どこのだれだかもわからないよ。

 誘導なんかしなくていい。新聞配達だってやめさせてあげたいくらいだ。わたしは新聞も車も暴力をふるう人も大嫌いだ。わたしがもっと働けばいい。主人には小説を書くという大切な大切な務めがあるのだ。それこそが夫の仕事なのだ。

 夫はいつか裏庭の縁側で、目の前まで迫った山の傾斜を見ながら語ってくれた。言葉をゆっくりと選びながら話す、いつもの口調で──。生まれて来るということは、ある意味、ほんと残酷なことだよね。生きていくってことは、ほんとうにむずかしいよ。いったいどうしてこんな世界が現れているのか。ココはいったいどこなのか。なぜこれほど人格の程度の違う人たちが同じ場所にいるのか。憎しみ合い、生存競争をしなければならないのか。苦しみつづけなければならないのか──。そんなことなんかを、ぼくはどこまでも考察したいんだ。生まれてきてしまった人たちの心が少しでも癒えるような書物を書きのこしたい。身のほど知らずな、不可能にちかい夢だってことはわかってる。だけど、限られた時間のなかで、本気で試みてみる価値のあることなんて、ほかにいったいなにがある? 

 そうだ。主人の言うとおりだ。訳のわからないことが世の中には多すぎるのだ。夫は真に意味あることをしようとしているのだ。正社員になって、まとまったお金さえ稼いでくればそれで立派な社会人なのか? それだけでいいというのだろうか? 

 親類にもぶしつけに聞かれる。いったい旦那の年収はいくらなんだ? なんのための年収だとわたしは思う。なにをするための年収なの? ──まったく、一体全体なんなんだろう? なにがどうしてなんだっていうのだろう? だけど──そう、主人には才能がある。さずかっているのだ。──とてもとても、やさしい人。不憫なくらい、やさしいのだ。──わたしが夫の仕事を支える。わたしが夫を支える。それが、わたしの、役目──。

 ──それにしても、わたしもこのごろなんだかからだの調子がおかしい。つねにだるいのだ。目もかすむし、時たまふらふらする。こめかみを針で刺されるような痛みが走ったり。そうかと思うと頭がぼんやりし、うまく考えがまとまらなかったり。飛び飛びになったり。──どうしてだろう? わたしも来年四十だから、やっぱり歳のせいなのかなぁ。

 夫は、ずっと布団で寝ている。

 ここ数日、ろくに食事もとれてない。今日も夕刊配達を休ませたほうがいいようだ。風邪で高熱があっても出勤する人だから、よほどつらいのだろう。──疲れたのだ。アルバイトの時間以外、ほとんどずっと机に向かいつづけてきたのだから。ずっとずっと、机に向かいつづけてきたのだから。十年も、二十年も──。食べ物が、どうもうまく喉を通らないらしい。眉間にしわをきざんで目をつぶってる。ときおり瞼がゆるんで白目がのぞいたりもする。

 わたしももうすぐレジのパートに出なければいけない時間だから着替えはすませたけれど、どういうわけだか全身が重い。二、三歩あるいただけで腰の力も抜けていく。やっぱり、おかしい。息切れする。冷や汗がでる。膝から下もなんだかくにゃくにゃだ。

 とりあえず、主人のとなりの布団で横にならせてもらおう。15分──いや、10分でもいい。それで、なおる──

 壁のカレンダーが天井へ流れた。がくん、がくん、と二度のショックののち、目の前に青いお花の模様が広がった。じぶんのからだが膝から落ち、掛け布団の上に両手も突き、布団にえがかれた青いお花の模様が目に映っているのだと──すこし経ってから理解できた。

 きみも、疲れてるんだよ。弱々しい、心配気な声が聞こえてきた。無精髭の目立ち始めた顔。横たわった主人が、黒目だけを動かし、こちらを見ている。唇のはしが小刻みにふるえてる。笑みをつくろうとし、うまくいかないらしい。きみも、今日は、休ませてもらいなさい。夫は荒い呼吸のなか、切れ切れにつづけた。代わりのパートさんが、いるんでしょう? 

 そうね、とわたしも答える。じぶんの声もちょうど通った電車の音に半ば掻き消されてしまった。どうしてこんなに近くをいつもいつも電車が走っているんだろう? いったいみんなどこへ向かっているんだろう? 

 ──木村さん、今日、出勤はいれるかなぁ。迷惑、かけてしまうなぁ。そう、まず、電話をしなくちゃ。店長さんに、連絡を──。

 掛け布団の上に突いた右の手のひらに力をこめ、左膝を立て、その膝頭ひざがしらにも手をそえ、どうにか立ちあがった。よろめいた。泣きたくなった。からだが、砂袋かなにかをくくり付けられているみたいに重かった。

「世間さま」は、いまも部屋のすみにいた。

 笑っているような、悲しんでいるような、いつもの顔で──。ぽっ、ぽっ、と輪っかになったピンク色の煙をあげている。ぽっ、と輪っかがひとつ天井へのぼり、そのかたちが乱れていき、薄れ、消える寸前にまたぽっ、ともうひとつを吐きだす。ぽっ、ぽっ、ぽっ、

 不意に、目と目のあいだで灼熱のような感覚がぜた。痛みに変わって後頭部へまで飛び散った。ひかりの白い筋が何本も何本も視界に残ってる。その向こうで、カレンダーや掛け時計が横揺れし、縦揺れし、立っていられなくなる。布団の上にお尻から落ちた。半分やけになってじぶんから仰向けに倒れこんだ。もう──嫌だ。嫌だ、嫌だ、嫌だ、

 ずっと気にかかっていたことを、尋ねてみる気になった。すぐ隣りであお向けになっている夫。ひたいに苦しげな縦じわをきざんでる。口わきの痙攣はまだつづいてる。皮膚のすぐ下で、虫が何匹ものたうっているみたいだった。あなた、ねぇ、あなた──

「世間さま」が来てからからだがすぐれないのだと思いませんか? 

 あぁ、言ってしまった──

 つねに怠いような、重いような──、頭までが時どき変な痛みかたをして──、気持ちまでがふさいできて──、ね、そうでしょう? 

 どうかな──、夫は聞きとれないほどの声を返してきた。声というより、ほとんど息にちかい。顔色も悪い。掛け布団の青いお花の模様と繋がってしまったみたいに境目さかいめがない。真っ青だった。わたしは暗いどこかへ沈みこんでいくような感覚におそわれる。頭がぼんやりしてきて考えがまとまらない。思考の切れ端だけがぴかっぴかっ、と弱々しく光る。もう、口をきくのも苦痛になっていたけれど、しぼみそうになる気力を奮い起こし、──聞いてみた。

 そもそも、なんでアレは、「世間さま」っていうの? 

 きみが、そう、教えてもらったんじゃないのかい? 「世間さま」から── 

 いいえ、あなたが、もともと知っていたんだと──

 だって、とわたしは笑おうとした。片側の頬が変なふうに引きつっただけなのがじぶんでもわかった。

 だって、「世間さま」は、しゃべれないじゃないですか。

 そうだね、と夫もカサカサの唇を斜めに歪めた。黒目は意思とは無関係みたいにゴロリとおかしな方向を向いてしまう。

 ぼくも、「世間さま」の声を、聞いたことがない。どうしてぼくたちは、あの生き物のことを、「世間さま」、だと思ったんだろう?

 それにああいった煙、とわたしは顔をしかめた。天井へ顎をしゃくってみせた。気になってきたんです。だってわたしたち、あの噴煙ふんえんを、毎日吸いつづけているわけでしょう? 否応もなしに──。

 そんなふうには、考えなかったなぁ──。

 主人は重々しい息といっしょにつぶやいた。どうしてだか、一瞬のあいだ、お坊さんの読経どきょうが耳に聞こえた。お線香の匂いも嗅いだ気がする。主人は首をふるわせ、後頭部をゆっくりと持ち上げていく。あるところまでくると、異様とも思える勢いで上半身を起こしきった。バネ仕掛けのおもちゃのような動きで。

 静止する、やせ細った肩の線。寝転がったわたしの位置からは、その表情はもう見えない。──この人は、いつからこんなに細く、小さくなっていたんだろう。以前はもっと肉のついた、広い背なかを持っていたのに──。

 部屋のすみにいる生き物に、夫の声が話しかける。

 きみは、あたまの煙突から、いったいなにを出しているんだい? よかったら、教えてくれるかい? 

 これ、デスか? 

 一瞬、息が止まった。視線を部屋のすみへ振った。四角い生き物が答えていた。その声を、初めて聞いた。男のような、女のような、人の手によって作り出されたようでもある、とらえどころのない声だった。

 べつにたいしたものではゴザイマセン。たしかに微弱の毒素をふくんでおるらしいのデスが、ワタクシが吸ってもなんともアリマセンし、人間のカタが吸いこんでもたいがいはなんともないものデス。たとえ八十年、九十年吸いつづけたとしてもネ。なかには、もっと吸わせてくれと煙突をくわえこんで離さないカタガタも少なからずいて、それはそれで難儀します。ワタクシの顔にまでよだれが垂れてきマスから、あまり気持ちのよいものではないのデス。

 まあ、ごくごくタマに、この気体がめっぽうこたえる、というヒトタチもいることはいるらしいのデス。最初違和感をおぼえたとしても、ふつうは心身が徐々に慣れてくるのデスが、幾日たっても幾年たってもマッタク受けつけない、というカタガタがネ。でもまあ、少数派デスよ。

 受けつけないポーズを装う、というこれまたけったいなカタガタもいらっしゃるようなのデスが、本当に受けつけない「真性さん」はさほど多くはありません。ひじょうにマレだけれどもいることはいるみたいだなぁ、といった程度デス、はい。

 まあ、こんなろくでもない煙を始終吐き出してないといけないワタクシもワタクシデスが、このくらいのもので正真正銘やられてしまうヒトタチもヒトタチというか──まあ、いいんデスけどネ、べつに、はい──。

 ──主人は、すでに仰向けの体勢に戻っていた。わたしたちは視線を交わしあった。夫の目がなにを言っているのか、はっきりと伝わってきた。

 どうやらぼくたちは、ごくごくたまにいる、本当にこたえる、「真性さん」、だったみたいだね。

 わたしも苦笑わらい返した。なんだか腹も立たなかった。もう、なにもかもがぼんやりしていて、夫の顔が水のなかにあるようにはっきり見えないのが悲しかった。わたしは、この人のおだやかな面持ちが、ほんとうに好きだった。熱をこめて話すときの講義めいた口調も。わからないなりに一生懸命に聞いた、ふたりだけの時間も。ぼくはそう、考えるんだよ。ええ、もちろん! あなたの言うとおり! ──赤っぽい電気スタンドをともしたこの狭い部屋だけが、暗い宇宙のなかにぽつんと浮かんでいるような安らぎをおぼえた。明かりの届かない闇の部分のことなんかどうだってよく思えた。どうだってよく思えていたのに──。

 指さきに──触れてくるものがあった。

 ひんやりとしたものに包まれる感触──。主人が、手をにぎりしめてくれたらしい──。

 ごめんね──

 どういう意味だか、夫はそうつぶやいた。ごめんね、と、もう一度。見るとその目から涙がこぼれている。ガラス戸から差しこむ夕方の光を受け、光って見えた。あぁ、夫の涙を見るのは初めてだなぁ、と感激した。この人はけっして泣かない人だった。どんなことがあっても泣かなかった。うん、どんなことがあっても──。きれいな涙だなぁ──。やっぱりこの人は涙までが、きれいだ──。

 夫は顔を天井のほうへ戻していた。目尻から耳ぎわの髪のなかに涙のあとが残っている。つないだその手は、さっきよりも冷たくなってきていた。お腹のあたりに引っかかった掛け布団。青いお花の模様がえがかれた粗末な掛け布団。もう、動いていなかった。

 ────ぼくは、

 まじめすぎるんですよ。

 小料理屋の座敷。実家に縁を切られた、あの最後の話し合いの場面が唐突に思い出されてきた。

 ぼく自身をあざむくことができないというか、ぼくは、まじめすぎるんでしょうね。うん、まじめすぎるんですよ。

 小馬鹿にされたとでも思ったのか、わたしの父親の目が倍ほどに開くのを見た。その上半身が動いたと思うと、主人のからだが食膳をね上げ、畳の上に突っ伏せていた。骨と骨のぶつかる音、砕けるグラスの音が、遅れて耳にとどいた。こぼれたお吸い物の匂い──。拳で横つらを殴られたのだと、やっと理解できた。母親の悲鳴がさらに遅れて聞こえた。

 どこがまじめなんだ! 父親は飛び散った汁でシャツとネクタイを汚し、顔を真っ赤にして立ち上がっていた。いい歳をして定職にもつかず、文学がどうのこうのと寝とぼけたことを──、あげくは、ぼくはまじめすぎる、だと! あんたは世間をなめてるのか! いったい、なにを考えてるんだ! 

 親父おやじ、もういい。そう言ったのは兄だ。わたしはすがるように兄のほうへ視線を振った。目が合った。冷たい、他人を見るような目つきだった。こいつらのことはもういい。兄の低い声。あんなに仲の良かった、兄の声──。こいつらは頭がおかしいんだ。頭がおかしいってことにさえ気づいてない。こういう人種はどうしようもない。いつの時代にだっているんだ。こういう身勝手な、役立たずな、大人になりきれない連中が──。親父、もういい。かかわるだけ時間の無駄だ。もういい。時間の無駄だ

 時間の無駄だ

 時間の無駄

 無駄だ

 無

 無駄 

 無駄無駄無駄無駄無駄無駄──────

 ────わたしは、

 かたわらの布団に手をのばし、猫の毛のようにやわらかな夫の頭髪を、なでた。その横顔は、すこしだけ前歯がのぞき、なんだかやっと安らぐことができたというような、ぽうっとした、おだやかな、幼い子どもの寝顔みたいだった。

 わたしは手のひらで、夫の頭をなでながら、心のなかで語りかけた。

 あなたの妻でいられたことがわたしの誇りでしたよ。ふたりとも不器用だったけど──ひょっとしたら頭がおかしかったのかもしれないけど──しあわせでしたとも。 

 照明のなにもない天井へ、輪っかになったピンク色の煙がまだ昇ってる。輪っかの輪郭が薄れるころに、またひとつ、ぷかり、またひとつ、ぷかり──。

 それにしても、ハタから見てるといろいろなことがよくわかるものデス、はい。

 あぁ、「世間さま」が、またなにかしゃべってる──。

 それはムゴいほど、セツナイほどデス。いろんなことが、それはそれは、よくわかっちゃうんデス。訳のわからないことなんて、じつを言えばひとつもないんデス。

 カリに訳のわからないことがあったとしても、訳のわからないことは訳のわからないままに、いかにその訳のわからないところも面白がり、楽しンじまうか、ってことが、ほんとうに試みてみる価値もあれば意味もあることなのではないかと──ワタクシなんかは思ったり思わなかったりするわけなのデスが──。

 楽しンじまえばいいんデスよ、はい。みんなオカシイんですから。オカシクないヒトなんて、ひとりもいないんデスから。ワタクシ、オカシイのでございます、って開きなおっちまえばいいんデスよ。楽しンじまえばいいんデス、その訳のわからなさも──。

 この煙もそれほど悪いものでもないデスよ。それほど良いものでもないデスよ。──まあ、それこそ訳のわからないことをごちゃごちゃ言ってないで──ワタクシメもそろそろ帰ります。帰るもなにも、ほんとはワタクシなど最初っからなぁんにも無いんデスけどネ。最初っからなぁんにも無いんデスよ。えぇ、ワタクシこそ。なぁんにも。なぁんにも。なぁあぁんにも────。

 ──数年前から、なにをどうしても天井の明かりが点かなくなってしまっていた。それで夫とふたりで、照明器具のたぐいを根こそぎ取り外してしまったのだ。ぽっかりと空いた天井の空洞から、いまは断ち切られた電線が10センチばかり垂れ下がってるだけだ。まるでなにかの冗談ごとみたいに──。

 照明くらい付け替えればよかったなぁ、とわたしは思った。でも、こんな穴ぼこみたいになってしまったら、いったいどうやって直せばいいんだろう? 

 わたしは、ひとりで笑ってみた。

 だれでも知ってることや、だれにだってできることが、わたしたち夫婦は知らなかったり、できなかったりすることがずいぶんあったなぁ。うん、けっこう多かった──。

 ふたりで縁側に腰かけて、よく外を眺めたけど、裏山の傾斜が壁みたいに目の前まで迫ってて、土の匂いばっかりが常に濃くただよってて、取り立ててなんにも見えなかったなぁ。うん、なんにも見えなかった──。

 頭のなかが、また白く光った。痛みが四方へと飛び散った。視界が薄暗くなっていき、そのすみで、

 ああ、「世間さま」が──さらさら、さらさら、砂時計の砂が落ちるみたいに──くずれてく。──四角いからだの下のほうから──さらさら、さらさら、細かい砂となって──カモメがゆったり飛んでいるようなその口も──ゆで卵を横にしたような目も──くずれてく。波打つみたいに──さらさら、さらさら、ピンク色の煙をあげてる煙突も──さらさら、さらさら、粉々に──くだけてく── 

 その手前に、

 不意に、わたしの膝頭が盛りあがってきた。なに? 左の膝と、右の膝。思いとは関係なく、向こうずねもぴんと伸びた。ズボンの裾がまくれ、足首が見える。すねが見える。腰も持ち上がってく──。なんでだろう? 

 下半身が上へ上へと引っぱりあげられていく。

 背なかが布団から引き離され、透き間ができ、空間がどんどん大きくなっていくのがわかる。後頭部が掛け布団の上をずずずっ、と擦った。髪がこすれる音が聞こえ、その音も絶え、頭のてっぺんが──浮き上がった。

 視界を、逆さになった山の傾斜がしめる。

 外はいつのまにか暮れようとしていて、なかば鏡となったガラス戸に、真っ逆さまになったわたしのからだが映ってる。逆さのわたしと逆さの木々が二重写しになってる。髪の毛がぜんぶ垂れ下がってる。あぁ、わたしの髪の毛、けっこう伸びてたんだなぁ、ぼんやりと思った。靴下のなかの親指は天井へとどきそう。ばんざいした両手も宙に浮かんでる。腕をぶらぶら振ってみても指さきにはなんにも触れない。

 ただ、手のさきから、細かなものがぱらぱらと落ちてくのが見えた。なんだろう? 手のひらを顔の前まで持っていく。十本の指の関節部分が、みな赤黒く汚れてる。さび? うん、これは、錆、だ。錆、みたいだ──。

 不意に──

 人が金網をよじ登ってる映像が頭のなかに浮かんできた。誰かがテレビのスイッチを入れたみたいに。画質の悪い、白黒の映像が、見える。──これは、わたしだ。わたしだ! なにをしてるんだろう? どこだろう? ──わかった! ボウリング場の屋上だ。わたしがボウリング場の屋上の金網を登ってるんだ。なにも見えていないような空ろな目。両手の指を網目にかけ、靴下のさきも網目へねじこみ、危なっかしく登ってく。てっぺんまでついた。柵に指をかけ、握り、懸垂するみたいに両方の腕の筋肉をふるわせた。からだを上へ持ち上げた。不器用に足も使って、枠の上にお腹も引っかけた。あっ! くるん、と前回りするみたいにして頭が下になった。柵の外側へ行っちゃった! 

 映像が、プツン、と途切れた。

 真っ暗だ。真っ暗ななか、こんどは人の声が動いてる。こもったような声だ。高まったり、低まったり、近づいてきたり、遠ざかったりしながら、途切れ途切れに、わたしの耳に聞こえてくる──

 だから言わんこっちゃ──はた迷惑もはなはだ──とことん馬鹿な男──首を吊るなん──かわいそう──奥さん──旦那さん梁にロープをかけて──よく尽くされてたのに奥さ──ひとり残されて──小説家──ったんでしょう──旦那さ──ちがいますよ志望ですよ志望──らぁ志望──ほんとに──かわいそうな奥さん──奥さん──ふふふ──奥さんふふふふ奥さ奥さんははははは奥さ奥さはははははは奥さ奥さ奥さああああああああああ────あ 

 声が、やんだ。

 同時に、胃のあたりがくん、と突っ張った。下りのエレベーターに乗ったみたいに。

 からだを反り返らせて下を見た。

 布団が迫ってくる。青いお花の模様。大きく、大きくなって、

 ぶつかっちゃった!

 ちがう!

 顔から布団を突き抜けた! 

 くぐりぬけたんだ!

 視界いっぱい、雲みたいなところになった! 

 うわぁ、ピンク色。落ちてってる。ピンク色の雲のなかを落ちてってる。ここはどこだろう? 縦も横もずうっとずうっと雲ばっかりだぁ。もぐっても、もぐってもピンク色の雲。なんの抵抗も感じない。両腕で、水を掻くような動きをしているのにじぶんで気づいた。それでいて、そのわたしの両手はなんだかよく見えない。

 果てもなく広がってるピンク色の雲だ──

 かすかな暖かみがあるみたい。温もりのなかを落ちてってる。いい匂いもする。ピンク色が口のなかにまで入ってきた。味がする。甘い味だ。なつかしい味。──わかった! 綿飴だ! これは綿飴の雲なんだ! 

 遠くのほうから、なにかが飛んできた。雲のなかをこっちへ来る。小さな、白っぽいもの。だんだんはっきりしてくる。くるん、と角度が変わった。黒いぶち。背なかに黒いぶち。背なかに黒いぶち! パンダちゃん! パンダちゃんだ! 鼻の奥がじゅん、と熱くなった。あぁ、と思った。ああぁ、と思った。涙があふれた。大好きだったパンダちゃん。大好きだったパンダちゃんがすぐそばにいる。なつかしいその顔が見える。きれいな目だ。確信に満ちた目。わたしは手をのばし、そのやわらかなからだを腕とほっぺたではさみこんだ。温かかった。もけもけのお腹の毛。陽だまりみたいな匂いがした。

 ──急に、眠気をもよおした。なんて気持ちがいいんだろう。なんて安心感──。解放感なんだろう。

 さっき、布団をくぐり抜けるまでの一瞬に、宙に浮かんでた主人の姿を見たような気もする。梁の下で、両手と両足をだらんと垂らして。顔が見えなくなるほど、首を前に折って。

 逆さにはなってなかったけど、ちゃんと宙に浮かんでたから、これから布団をくぐってここへ来るのかもしれない。すぐに、あの人に会えるのかもしれない。あの人が机に向かってる後ろ姿を、また見られるのかもしれない。あなた、パンダちゃんもいるよ。もう一度、三人で暮らせるよ! ──ぼくはね、すごくいい小説を書くんだよ。そうですとも! あなたの言うとおり! ──わたしの作ったお弁当を持って、ボウリング場の屋上にのぼって、金網の向こうの町並みをまたふたりだけで眺められるのかもしれない。ねぇ、あなた、なんだかいつも、終わってしまった時間が色に変わったような赤さだったよね、山にかこまれた平べったい町全体が、赤く赤く染まってたよね。うん、そうだね。だけどそれ──終わってしまった時間が色に変わったような赤さ、って、ぼくの使った言い回しだね──。夫が微笑む。夫が微笑む。夫の、子どものような、笑顔────。

 わたしは、安心してくる。もう、すべてのざわめきが遠のいていた。

 すこしさきに、地面が見えた。黒いアスファルト。真っ黒いアスファルト。ゆっくり、ゆっくり、こっちに近づいてきてる。

 わたしも微笑み、目をとじた。

 また、綿飴の匂い。ピンク色の雲。どんどんまばゆくもなってるらしい雲につつまれながらパンダちゃんを抱きしめながら落ちて落ちてあなた落ちて落ちてあなたあなたあなた落ちて落ちて落ちていくわたしはぼくはワタクシは──ほんとうにほんとうに──しあわせものなの、デス────────  








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阿刀田高選「奇妙にこわい話」優秀賞受賞、佳作受賞(共に光文社文庫収録)。銀華文学賞佳作受賞2回。太宰治賞二次選考通過。群像新人文学賞、新潮新人賞、小説宝石新人賞一次選考通過。「文芸思潮」57号に小説…もっと見る

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