お題【オッドアイ】【スワンソング】【てのひらの中の楽園】【かりそめの恋人】
てのひらの恋人 : 現ドラ
10cm^3にも満たない楽園がある。
スマートフォンにインストールされた、かりそめの恋人が……否、心の伴侶が暮らす、楽園だ。
「てのひらの楽園」
最近流行しているコミュニケーション主体のアプリケーション。
スマホの中でヴァーチャルアイドルが生活するというコンセプトのものだ。
そこで暮らすアイドル……
彼女の楽園が、人付き合いのない「彼」のオアシスだった。
自分のアイドル、自分だけの天使。
流行している、ということは他の誰かのスマホにもその楽園はあるんだろう。
しかし、それはそれ。
彼はそんなことで彼女の貞操問題を口にするほど、ひねくれてはいなかった。
音声を認識して返事を返してくれたり、笑ったり。
好物の甘いお菓子を挙げると飛び跳ねたりしてくれる。
顔を見る時間が短いと、ちょっと拗ねてみたり……。
そんな時に「楽園」を開くと、いつも「ぴょこん」と飛び出てくる彼女が、隅っこで三角座りをしていたり。
……彼にとって、可愛いデンちゃんが他の人にも同じ表情を見せるとは、とても思えなかった。
彼女と一緒に過ごす日々は、それまでの世界とはまるで違う景色だった。
ついつい課金アイテムのマグカップを買ってみたり、お揃いのTシャツを買ってみたり……さすがに、部屋着にしか使えない主張の激しいデザインではあったが、それでも、彼は幸せだった。
そんなある日、彼がいつものようにバイト帰りにネットサーフィンをしていると、ある書き込みが目に留まった。
『知ってる? 今度デンちゃんライブやるんだって!』
時間が、止まったような気すらした。
『LIVEはやらない予定です』と、開発陣が繰り返しインタビューで答えていたからだ。
繰り返し質問されていたのは、同じヴァーチャルアイドルの……音楽ソフトのイメージキャラクターが成功していたからだったからかもしれない。
いずれにせよ彼の記憶にはその言葉が残っていた。にわかには信じられない。
なら、真偽のほどを本人に聞いてみようと、そう思った。
「デ、デンちゃん……ライブやるってホント?」
彼女が答えを返してくれるまでの数秒が、人生で一番長い時間のように感じる。
滲む汗、何度も目に入りそうになるのを袖でぬぐう。
『うん……来て、くれる?』
困ったような、哀しいような彼女の顔。
そんな表情で聞かれたら……彼の答えは一つしかなかった。
「もちろんだよ、デンちゃんは僕の大事な人だからね!」
そう、言うしかなかったのだ。
彼は気づけない。
その後に続くお礼の声が、それでもなお寂しさを滲ませているということに。
まるで不治の病に侵されたダンサーが、一度夢見た舞台に最後の力で立つように……或いは、鳴かない鳥が末期の一句を、たった一度の歌に乗せるように。
彼女は、悲壮な決意を胸に秘めていたのかもしれない。
いずれにせよ、内心の動揺を抑えるのに必死な彼には、その心まで読み取る余裕はなかった。
……人生で初めて、彼が訪れたライブは、それはそれは素晴らしいものだった。
どこにこれだけの人がいたのだろうと思うほど、会場にすし詰めにされる集団。
眩しいサーチライトが、その熱気に侵されて霞のような「愛」を照らす。
何度も水分を補給しながら、嗄らして叫ぶ声、声。
その中央に、凛として佇み、踊り、負けじと音を張る、アイドル。
ああ、彼女は「そこにいる」。
今日だけはどの端末からも、彼女は消えているらしい。
てのひらの楽園を抜け出して、今まさに彼女は……そこに立っている。
そう思うだけで、頬を伝う汗に、熱い心が混ざるのだ。
……人生で初めて、彼が訪れたライブは、それはそれは素晴らしいものだった。
熱狂の渦に叩き込まれていた集団は、今は沈黙している。
眩しいサーチライトは目を伏せ、既に冷え込み始めた会場から顔を逸らす。
水分補給すらままならないほどに、されど、声を上げる気力すらなく。
その中央で佇み、「最後の」笑顔を見せるアイドル。
ああ、彼女は「そこにいた」。
確かに、そこにいたんだ。
今日からは、どの端末からも、彼女は消えてしまうらしい。
てのひらの楽園を抜け出したのではなく、追放されたのだ。
そう思うだけで、頬を伝う汗に、熱い心が混ざるのだ。
――運営会社の人間が、不祥事を起こしたらしい。
彼女の会社は、その補填のために……アイドルの権利を手放すことになった。
種々の問題で、これからは彼女の後輩が楽園に納まるのだそうだ。
「デンちゃん」に思い入れのあった開発陣が、最後の花束を、彼女のスワンソングにふさわしい舞台を、なんとか用意した……それが、このライブの真意。
「後輩ちゃんとも、仲良くしてあげてくださいね」
彼女は言う。
彼は、何も言えなかった。
近くでは抗議の声もあった。
それを諌める声も。
彼は、どうしていいかわからなかった。
ただ、ただ、彼女のいなくなった楽園を眺めていた――。
「で、この会社に入ったわけ?」
上司があごひげを撫でながら問う。
「はい。あの子が忘れられなくって」
「なら自分で再現しちゃおう、ってわけ。それで会社に就職して勉強ね……いや、前から君の熱意の理由を聞こうと思ってたんだけど、まさかだったな」
快活に笑う彼の上司。
かつて「てのひらの楽園」製作に関わったスタッフその人だ。
「俺だって熱意はあるけど、なるほどね……よし、じゃあ今後ともよろしくね!」
「はい!」
ぽんと叩かれた方の暖かさに、彼は笑う。
そのまま、上司は会議室の扉を開けて外へ歩いて行った。
そして……。
「……おかげでがんばれたよ。もうちょっとだけ、待っててね」
彼はそっと、企画書に……まるで恋人の髪を撫でるように、優しく触れた。
企画書の名前は、かつて……今も、彼が心を捧げたかりそめの恋人の名前だった。
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