第23話 バオム教⑪
「ママ!」
エリーが悲痛な声で母親を呼ぶ。
ゴーストの影がエレナの体を覆っていく。背中から足まで、まるで繭でも精製するかのような雰囲気だった。その肌が黒い泥に染められていく。
ルージュはそこに視線を固定させたまま、ルナの方に手を出す。
「それちょっと貸しなさい」
「ああ」
ルナが持っていたサイコダガーをルージュに渡してくる。
「相棒、何とかならねえのか?」
「完全に取り込まれていない今なら、まだどうにかできるわ」
不幸中の幸いと言えば、ゴーストが取り込まれる現場に出くわせたことだろう。これなら手遅れになる前に処置できる。
「エレナ! ゴーストを拒否しなさい。強く拒絶すればそいつはまだ剥がせるから!」
ルージュはサイコダガーを逆手に持ち替えながらそう叫んだ。
ゴーストを媒体にシードは人間の脳と心臓を媒体に、感情を同調させようとする。感情が支配されると、体の組織そのものが一気に書き換えられ、別種属のカタストルへと化す。
強靱な精神を持っていれば、それを跳ね返すことも可能だ。
ただ現実にはそんな精神力の持ち主はいない。いくら拒絶しても時間が経てば屈してしまうのが普通だ。それは仕方のないことである。
だが今は普通の拒絶だけでも充分である。それさえしてくれれば、ルージュがサイコダガーで無理矢理引き剥がせられる。助けられるのだ。
にもかかわらず、ルージュの思惑は外れていく。
「あの女ぁ……」
「どうなってんだよ、相棒!?」
「ゴーストを拒否するどころか、受け入れている。これじゃどうにもならないんだけど」
焦りと苛立ちが募る。
「ママぁ!」
エリーが母親の苦しむ姿に泣き出してしまう。
それにエレナはわずかに反応した。
その動作をルージュは見逃さない。
「アンタがカタストルになったら、子供はどうするの!? 一緒に生きていたくないの!? 答えなさいよ!」
黒い影を纏ったエレナが顔を上げる。
「……その時は私が食べて、ユグドラシルの元へ送ってあげます。その方がその子にとっても幸せに決まってますから」
「アンタ、それで本当にいいと思っているわけ? 愛して――」
「うるさい! 貴方に何がわかるって言うの!?」
ヒステリックな叫び。エレナの雰囲気が豹変する。
「そんな子、最初から産みたくなんてなかった! あんな汚れた男共の誰が父親かすらわからないのよ。そいつさえ、そいつさえいなければ、私はもっと――」
エレナの恨みの激情が止まった。静かに俯いて震えている。
ぽたぽたと雫が床に灰色の染みとなった。
彼女の両目から涙が漏れていた。
「その子も、私も……呪われているの。だから私が天使様になって、浄化してあげるのが一番でしょ?」
悲しみと憎しみを笑みで無理に誤魔化すエレナの顔には、ストレスを、理不尽を、限界以上に我慢してしまう人間特有の影があった。
例え何をしようと、奪った者が、力を持つ者が正義。それが問題なくまかり通るこの都市。エゴが渦巻く廃工都市では生きていけないタイプの顔だ。
「こんな腐った世界で生きていてもしょうがないじゃない」
か細いエレナの声から、魂の慟哭が聞こえてくる。
「……そうね」
ルージュは静かに目を瞑り、サイコダガーの柄をルナに向ける。
「返すわ」
「何で、まだエレナは――」
「もう必要ないの」
「相棒……」
ルナが何かを察したようにサイコダガーを受け取る。
すでにエレナは手遅れだった。もはやカタストル化するしか道はない。
ルージュはジャケットの内側に潜ませているホルスターに手を伸ばす。そこから漆黒の銃を抜いた。
その銃口をエレナに向ける。
「やめて!」
ルージュの足に必死に体当たりをしてくるものがいた。
エリーである。彼女は子供ながらルージュのやろうとしていることを本能的に理解していた。
「ママを虐めないで!」
「……ママなんて、もういないわよ」
「だってあそこに!」
「あれはママじゃないわ。カタストル」
エレナの体が影によってどんどん膨張していく。
もはや原型はほとんど残っていなかった。
「人の形をした化け物よ」
ルージュが呪印銃の引き金を引く。
紫色の閃光が疾った。
それがカタストルの心臓を撃ち貫く。
黒い物体にぽっかりと穴が開いた。
影を纏ったエレナは悲鳴を上げながら穴を胸で抑え、のた打ち回る。
だがそれも数秒のことだった。
事切れたように動かなくなり、その体が分解され空気の中に溶け込んでいく。
「ママァァァァァ!」
エリーが母親だったものに駆け寄っていく。
消失していくエレナは、最後の力を振り絞ってエリーの方に手を伸ばした。
しかし間に合わず、その手は砂のように虚空に消えゆく。
母と娘が交わることはもうなかった。
ルージュはホルスターに銃を納める。
視線が不思議とエリーを追う。
エリーが憎悪に満ち溢れた瞳でルージュを見上げてくる。
エリーが割れたステンドグラスの破片を手に取っていた。
それをルージュに投げつけてくる。
「っ!」
ルージュの額にガラスの破片が当たった。
切り傷から血が静かに流れ視界の右半分が赤く染まる。
エリーの顔は憎しみと涙で溢れていた。
「…………」
そんなエリーに、ルージュは一瞬だけ過去の自分を重ねてしまう。ノワールになる前の泣き虫だった頃の自分を。
ルージュは苛立ちで目を細める。
「私は……間違ってない」
ルージュはそう言って出口に足を向ける。
「私は絶対に間違ってなんかいない」
自分に言い聞かせるようにそう呻き歩きだす。
「相棒……」
ルナが後ろから声をかけてくる。
だがルージュには応える余裕はなかった。
部屋の出口にはバオム教の信者達が集まっていた。うじゃうじゃと虫のように群れている。
それらが非難めいた瞳で、ルージュを見てくるのだ。
それがまたルージュの苛立ちを上昇させる。
「この屑共が、退きなさいよ!」
ルージュは空に向かって一発の弾丸を放つ。
威嚇射撃には充分だったようで、信者達はドアから離れていく。
信者達の横をルージュは通り過ぎていく。
「悪魔――悪魔――」
そんな言葉が呪詛のごとくルージュに降り注いでくる。
「クソッ……どいつもこいつも……」
壁を力いっぱい叩いて、ルージュは教会を後にするのだった。
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