『一度決めたんなら、最後までやり通すこと!』
お題:【貧者の一灯】【ロールシャッハ】【揺れる天秤】【焦がれた日々】
こんな気持ちを抱くくらいなら、あの人の後ろ姿なんて追い掛けなければよかった。
少し優しくされただけで、少し相手して貰っただけで、少し笑顔を向けられただけで。舞い上がってその気になって。
よく考えたら分かることだった。あの人は――部長は誰にだって優しくて、誰にだって気を遣ってて、誰にだって笑い掛けてる。
それは別に、八方美人だとかそういう意味じゃなくて。そもそも彼女は厳しいことだっていっぱい言うし、時には大声で叱ったりもする。
要は、大切に思ってるんだ。誰がとかじゃない、部のメンバー全員のことを。皆もそれが分かってるから、部長のことを尊敬してるし慕ってる。
だから思う。あの人の後ろ姿なんて追い掛けなければよかった、って。
今日が最後だからって。もうあの人とは会えないかもしれないって。だから何だっていうんだ、勇気なんて振り絞らなければよかった。
そうすれば、こんな場面を見ずに済んだんだから。
……涙を溜めた部長が、誰かから薔薇の花束を受け取っているところなんて。
好きですと、そんな言葉が風に乗って聞こえてきた。思わず僕は校舎の影に隠れる。少し低めのその声には、聞き覚えがあった。
「俺と付き合って下さい、部長」
お前じゃ無理だと、いつかに聞いた声の主。絶対に釣り合わないと、分かり切った事実をわざわざ突き付けてきた底意地の悪い先輩。
悔しかったし、はっきり言って腹が立ったけど、僕は彼に何も言い返せなかった。
だって彼は――副部長は、そんな意地悪な台詞を帳消しにするくらいには、かっこよかったから。
顔もそうだけど、心もそう。少しおちゃらけてるけど、副部長はどこまでもまっすぐな人なんだ。だからこそ僕みたいなのでも恋敵と見て、きつい言葉を当ててきたんだ。
そんな副部長の「負けたくない」って気持ちは、びっくりするくらい一直線で。ふらふらと迷ってばかりの、どこかの意気地なしとは違っていて。
「……本気、なの?」
「ええ。俺、ずっと言ってきましたよね。貴女が好きだって。そうやって飽きずに毎日言えるくらいには、貴女の事を想ってた」
姿を見なくても分かる。きっと副部長は今、誰よりもかっこいいに違いない。
いつものふざけた様子なんて欠片も感じないその声色は、副部長の本当の想いが乗っかっていて。
……僕は悟ってしまう。ああ、これは勝てないなって。
だってそうじゃないか。何一つ勝てていない。楽器の腕も、顔のつくりも、思い切りの良さも、用意した薔薇の数だって。
精一杯の思いを込めて、なけなしの小遣いで買った大切な一輪。だけれど今は、その鮮やかな紅色もくすんで見える。
貧乏を恥だと思ったのは今この時が初めてだった。清貧だなんて言葉は嘘っぱちなんだ。
だって、一目瞭然じゃないか。一輪よりも、百輪のほうが、あんなにも綺麗だったんだから。
包装された茎をきゅっと握る。幾重にも重なる花弁を見ていると、何故かそれが嘲り顔に見えてきて。
どうしようもないシミュラクラに悔し涙が零れる。それはきっと、僕の意気地のなさを表すロールシャッハ・テスト。
ただ一つ、部長への想いは負けてないって。そう思いたかったけれど。
嘲る薔薇が囁くんだ。告白の場面を見た程度で折れそうになる気持ちが、果たして彼女に届くものかと。
決心が鈍る。思いが揺らぐ。真赤い悪魔が間近で囁く。
――中学生の初恋なんて、実らなくって当たり前。
――結果なんてわかり切ってる。諦めようぜ、傷付くのは嫌じゃないか。
――フラれたのが部の皆にバレて、弄られるのも嫌だろうに。
――よしておけよ。勇気なんて出すもんじゃないって、さっきのお前も思ってたろう?
どこまでも軽く薄いその言葉達が、でも今の僕の天秤を揺らすには十分で。
意識が後ろへと向いていく。足がひとりでに後ずさる。あの人から遠ざかる様に、ゆっくりと、じりじりと。
いいじゃないか。部長と副部長はお似合いだってずっと言われてたんだし、収まるべきところに収まった感じがして。
部員皆に慕われてる二人がくっつくんだ、それでいいじゃないか。何も問題なんてない。
ああそうさ、僕は何も聞いていない。僕は何も見ていない。どこへも寄り道なんてしなかった。
今日は部活も無いんだから、まっすぐ家に帰ってスマホのゲームでもしよう。
でも、だけど。
何をどう思っても、僕の体は下駄箱の方になんて向いてはくれなかったんだ。
「なんで」
思わず零す。声は涙に震えていた。これ以上この場になんて居たくない。だというのにこれ以上足が動かない。
逃げたい、逃げたいのに。心の奥にある何かが、僕をこの場に縛り付けている。嫌だ、何で僕がこんな目に合わなきゃいけないんだ。こんなみじめで、悔しい思いをしなきゃいけないんだ。
それはいつだったか、部長に死ぬほど怒られたときの気持ちに似ていて。逃げたいと、止めてしまいたいと思うのに、足が勝手に部室へ向かうみたいな、そんなよく分からない感覚で。
ああ、その理由は何だったか。いつでも覚えていたはずなのに、今は何故だかその記憶が霞んでいて。
足音が聞こえてくる。焦りと共に眩暈がして、その場で情けなくたたらを踏む。
ああ、二人が近づいてくるんだ。部長と副部長が、さっきまでとは違う関係で結ばれてしまった二人が。
悲しくて、恥ずかしくて、腹立たしくて、泣きそうで。ぐちゃぐちゃになった気持ちと顔はきっと汚くて。
そんなみじめな顔なんて見られたくなかったけど、でも足は動いてくれなくて。
仕方がないから左腕をいっぱいに使って顔を隠した。薔薇を握った右手は後ろ手に。見られたくない物は全部、隠してしまいたかった。
何も見えなくて。だから足音が余計にはっきりと聞こえて。直ぐ近くに人の気配があるのも分かって。
声を出そうとした。覗くつもりは無かったんです、と。気にしないで下さい、と。でも喉から出るのは上ずった音だけで。
だから、足音が僕の目の前で止まった時、僕の心臓も止まってしまうかと思って。
「何してるのかな、後輩君」
いつも通り優しい部長の声を聞いて。ふ、と心が軽くなった。……情けない話だけれど、今更になって僕は思い出したんだ。
僕が部長を好きになった、その瞬間の出来事を。それは今からちょうど一年前くらい。
新入生向けの部活紹介の時、壇上の部長が言い放ったあのセリフ。……そうだ、僕はあの時あの瞬間、彼女に心を奪われたんだ。
『仮入部は気軽にしてくれてもいいけど、本チャンになったら手加減はしません! 入部する気になったんなら三年間やり通す覚悟をしてください!
――――一度決めたんなら、最後までやり通すこと! それが、吹奏楽部のモットーです!』
かたり、と天秤皿の底付く音が響いた。薔薇の嘲りが綺麗に消え去る。
逃げたいと思う心は、僕の意気地なさの証。だったらば今、ここに僕が留まり続けている理由は何だ? 答えはこれほどにも明確じゃないか。
僕の想いは、きっと誰にも負けていない。だってそうだろう? こんなにも弱い僕の心が今、こんなにも簡単に勇気を出せているのだから。
そうだ、一度想ってしまったんだ。だったら最後までやり通さなきゃならない。それが部長に教えられた、僕らの部活のモットーなんだから。
「泣いてるの?」
「……泣いてません」
「声、震えてるけど」
「……震えてません!」
「強がりだね」
そう言って部長はくすくすと笑う。馬鹿にされているみたいで少し嫌だけど、でもそれ以上に彼女の声が聞けていることがこんなにも嬉しい。
ああ、もう迷うことなんて何もないじゃないか。一年間焦がれた思いはこんなにも熱く胸に躍っているのだから。
振られたって構うもんか、隣に彼氏がいるからなんだってんだ、貧乏人の一輪がイケメンの百輪に敵わないなんて何処の誰が決めた――――!
熱に浮かされているのは解っているけど、だからこそ今しかないんだ。勇気を振り絞ることには意味があるんだ、だから――――
「――――ぶ、部長!」
涙を振り払って顔を上げる。目に入ったのは花束を抱える部長の姿ただひとり。そこに疑問を抱く暇なんて僕には無くて――――
「僕は、あなたの事が――――」
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