第60話「閃光」

 茗凛めいりんは意を決して立ち上がった。

 くるっと反転して、壊れかけた格子越し、「何だ?」と怪訝な顔で動きを止めた男たちをきっと睨みつける。睨みつけたまま裙子スカートに手をかけ、ビリッと派手な音を立て、一気にそれを引き裂いた。

 目の前で露にされた足から珂惟かいが慌てて目を逸らし、「おまえ、何やって」と焦り気味の声を上げる。その声に茗凛は動揺しかけたが、敢えて彼には目を向けなかった。目の先は、変わらず格子の向こうだ。

 そこにいるのは、「おおっ」と卑しい笑い声と、嫌らしい口笛を上げる男たち。

 茗凛は高く腕を振り上げると、手にした裙子の残骸を力いっぱい投げつけた。「目に入った!」「見えねえ!」と騒ぎ立てる声に背を向け、そのまま助走、思いっきり床を蹴り、板を外され矩形に夜空を切り取っているだけの窓の桟に両手をかける。どうにか桟に上がり、跨ると、ためらわず窓を飛び越えた。

 足に衝撃、同時に扉の破られる音がして、「グゲっ」と意味不明な男たちのうめき声。

 後ろ髪を思いっきり引かれながら、茗凛は振り返らず走った。建物沿いを駆け抜けながら、茗凛は祈る。

 ――お願い、無事でいて!

 建物をぐるりと囲んでいる柵だったが、入り口に厳重に巻かれた鉄の鎖は解かれ、開けられていた。珂惟がギリギリまで引きつけていたせいか、そこに人気はない。だが「女が逃げたぞ!」「外だ!!」という怒鳴り声とともに入り口にかけつける複数の足音がある。

 自分が引きつければ、珂惟の相手は減らせる。だけど自分が捕まってしまったら――終わりだ。胡女たちも上座かみざも、自分も――珂惟も。だから絶対に捕まるわけにはいかない。人を呼ぶのだ。あの、蝦蟇蛙の仲間ではない信頼できる人を。

 茗凛は前だけを見てひたすら、思いっきり走った。目指すは思按しあん琅惺ろうせいのいる僧坊だ。それは広大な境内のはるか先、講堂を挟んだ向こう側にある。その距離があまりに遠くて、白々と光る境内が、まるで大きな湖のように思えた。行けども行けども、向こう岸が近づかない。

 背後で扉が乱暴に開く音がして、「待て、小娘!」「止まれ!」と怒号が上がった。複数の足音が、恐ろしい速さで近づいてくる。

 追いつかれるかもしれない。私がたどり着いても、間に合わないかもしれない。もし珂惟に何かあったら――そんな不安に取り付かれて走る。心と身体がバラバラで、足がもつれて何度もたたらを踏む。転びそうになりながら、必死で走った。 

 「待て!」男たちの声に、必死さが滲んでいる。それは確実に近づいている。このままじゃ追いつかれる――お願い助けて! 茗凛は歯を食いしばり、震える足を必死に叱咤する。走っているのは、もう自分の意志ではなかった。何かに走らされているようだった。きっと何かに躓いたら思いっきり転んで、二度と立ち上がれないだろう。そんな予感がした。

 やっと講堂が迫ってきたとき、「いいかげん諦めな!」苛立った声がすぐ背後から聞こえ、後ろに振った袖がひっぱられた。力任せに引き抜いて、袖を破って逃げ切ったけれど、もう、時間の問題だ。どんどん足音と、荒い息が近づいてくる。

 ああもう駄目!

「茗凛さんっ!」

 琅惺だった。彼が講堂の向こうから走ってくる。「やべえ」声とともに、追ってくる足音が止まった。茗凛は最後の力を振り絞って走る。駆け寄って来た琅惺の背後には、思按の姿が。

「おまえ、何だその姿は!」

「兄さん助けて、珂惟が!」

 こらえていたものが目から溢れ出る。よろめいたところを琅惺にすくい上げられるように支えられた。

「思按さま、鈴を!」

 琅惺の言葉に、思按が手にしていた鈴を激しく鳴らした。寺内の見回り時に携帯する鈴だ。

「賊だ! 賊が入ったぞ!」

「賊だ!」

 思按の大音声に重ねるように琅惺も声を張り上げると、茗凛を「ここで待ってて」とその場に下ろし、珂惟の残る懲罰房に走っていく。思按は羽織っていた上衣を脱いで茗凛に被せ、

「そこにいろ!」

 やはり言い捨てて、琅惺の後を追った。

 へたりこんだまま思按の上着の前をかき寄せた茗凛が見たのは、走る琅惺と思按に追われる形で、慌てて来た道を引き返していく男たちの姿。背後からは「賊だって!」「おい急げ」言いながら飛び出してくる僧たち。茗凛は目の前の物を指さしながら、「お願い急いで」涙ながらに訴えた。

 その時。

 突然、物凄い閃光が正面から放たれた。

「うわっ」

 その強烈な光は、僧たちの足を止める。

「なんだあれは」

「雷? でも中からの光だぞ」

「火事か?」

 目元に手をかざして光を避けながら、僧たちが口々に言い合う。

「珂惟……」

 茗凛の頬に新たな涙が伝う。

 もう立てない、と思っていたのに、気づいたらぶるぶると震える足が立ち上がっていた。まるで糸に引かれるかのように、茗凛は来た道をよろよろと戻る。

 その傍らを、僧たちが駆け抜けていく。いつしか境内は、さきほどと同じように青白い月の光に包まれていた。門前からも人の声がきこえてくる。

 涙を止められないまま、茗凛は必死に目の前の建物を目指した。

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