第27話「是非ない思い」

 とはいえ、こんな乱れた気持ちで再び観世音菩薩の前に立つのはあんまり失礼な気がする。何より珂惟かいが気になる。なので門の辺りをウロウロしていた、そのとき。

「あれ茗凛めいりんさん。どうしたの、こんなところで」

 声をかけてきたのは、琅惺ろうせいである。茗凛は慌てて、「しっ!」とばかりに口元に人差し指を立て、反対の手で門前を指さした。それを見、ちらりと外を見た琅惺は、納得したように頷きながら、

「先日、大路で君たちと会っただろう? そのことを一緒にいた沙弥しゃみ思按しあんさまにお話したようなんだ。彼は、珂惟と僕が接触しかけたのを阻止したと伝えたかったらしいんだけど、思按さまは別のところがひっかかったみたいでね。朝から随分とお怒りをためていらっしゃるようだったから、様子を見に来たんだけど……」

 門前を何度も振り返りながら、琅惺は言った。

 あいつ――茗凛は結局名前を思い出せなかった沙弥の顔を思い浮かべ、絶対名前を覚えてなんかやるもんかと固く誓った。

 二人は、少し門から離れた胡楊樹の下に移動し、話が終わるのを待つことにする。

 茗凛は、幹から浮きあがるように剥がれた樹皮の隙間から門を見る。二人の姿は見えないのだが、分かっていても見ないではいられない。それ以外に何もすることもないのだし。

「大丈夫だよ珂惟は。怒られ慣れてるから」

 そんな茗凛に、琅惺がそう声をかけてきた。気を使わせてる。茗凛は申し訳なくなって必死に話題を探す。そしてふと、

「――そういえば、大覚寺の双璧なの? 珂惟と琅惺さんって」

 その言葉に、琅惺は少し驚いた顔をしたが、やがて苦笑を漏らし、

「まあ、そんなことを言う人もいるね。大覚寺が大したところじゃないと思われそうで嫌だったんだけど、最近はそう思われないよう精進しなければと思うよ」

 珂惟と違い、近寄りがたい雰囲気のある琅惺なのだが、一つ違いだからか随分と親しげに話をしてくれる。珂惟ほどではないにしても(よく考えたらあちらは二つも年上なのに)、こちらも気楽に話せる。ありがたいと思う。

「でも双璧の珂惟がいまだ行者ってのも解せないよね。他に人材がいないの?」

 安心した茗凛は、思ったままを口にする。琅惺は、今度は目を細めて笑うと、

「珂惟は私より後から寺に入ったんだけど、ああ見えて優秀なんだよ。でも――試験を受けてないから、いまだ行者のままなんだ」

「受けてない? ってことは試験に落ち続けてるってワケじゃないのね。どうして?」

 すると琅惺はたちまち困惑を顔に浮かべる。

「まあ、それは……いろいろとあって……」

 さっきまで歯切れ良かった琅惺の口が、急に重たくなった。だから茗凛は訊いた。「それって――珂惟のお父さんが原因?」

 たちまち琅惺の顔色が変わる。すばやく周囲に目を巡らし、人気がないことを確認すると、小さく問う。

「何故それを?」

 切羽つまった声に、茗凛はたじろぎつつ、

「珂惟が言ったの。自分の父親は、上座かみざだって」

「――」

 今度はぽかんとした表情になる。訪れた沈黙は、しばしのこと。ほどなく琅惺は、ふうっと一つ大きな息をつき、

「そうか、珂惟が言ったのか。――自分が髪を下ろしたら女の子が泣くから、とかなんとか珂惟は言ってるけど、自分のことが分かってしまうのを恐れてるんだと思う。剃髪したら、ますます似てみえるだろうからってね。そうなったら上座の身が危ないだろうから」

 そう言う琅惺は随分と柔らかい表情をしていた。だけど茗凛は腑に落ちない。

「でも琅惺さんの和上わじょう、なんでしょう? あの……驚かなかったの?」

 茗凛は、今度は言葉を選んで訊いた。いいの? そんな「姦淫」しちゃう上座なんてって言葉はさすがに呑み込んだ。

 琅惺は目を伏せてうっすらと笑う。あ、今のは珂惟と同じ笑い方だ。

「そりゃ最初は――驚いたし、腹も立った。怒りに任せて珂惟にも随分とひどいことを言った。今だって、戸惑いがないわけじゃない。でも……上座はずっと心から尊敬していた方で、和上になって下さると聞いた時には、本当に誇らしくて、嬉しかった。珂惟もいいヤツで……。だから、いいんだよ」

 琅惺は考え考えして、一言一言噛み締めるようにして、それだけのことを言う。 それが彼の苦悩を表している気がした。――きっと凄く悩んで、苦しんだんだ。ひょっとしたら今でも――。だけど、琅惺さんは本当に好きなんだ。珂惟と、そのお父さんが。

 在家信者でしかない私だって、姦淫を犯した上座のいる寺になんか行きたくないって思ってしまうってのに――思わず目の前の琅惺をまじまじと見てしまう。彼はそれは穏やかな表情をしていた。

 茗凛はなんだか、安心した。

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