第1章 カンタロスの女神(2)
出入り口付近から感じる視線に不審を感じながら、グレイン技師は研究室の扉を閉じた。
「まあ、いいから座りなされ。いつものことだよ」
「……いつもの、こと?」
「ああ、つまりはアレだ。それだけワシが人気者ということじゃろうて? ふぁっはっは!」
カルロスの余りにも楽天的なその様子と言葉を受け、グレインはやれやれとばかりに呆れ顔を見せ、ソファーへと腰を下ろした。
「カルロス……お前のことだ。もう聞いているかも知れんがね。最高評議会が、次の侵攻先を決定したよ」
「……そうかね」
カルロスは、大した感情を見せることもなく、ため息混じりにそう答えていた。
「そ……!?
おぃおい、君はこの決定を不満に思わないのかぁ? 私たち科学者会の意向を、まるで無視した決定だぞ?」
「怒ってはいるがのぉ……腹立ちもするわい。
だがのぅ……その前に、呆れた気持ちの方が先に来るのさ」
カルロスは怒りも不満も見せず、無感情にそう返したあと、挽いた珈琲豆の上からゆっくりとお湯を注ぎドリップした。すると、珈琲の良い香りが部屋中に立ち籠め、高ぶる気持ちを和らげてくれる。
しかし、それでは面白くないのがグレイン技師の方だ。
「おいおい、呆れてる場合かぁ? それとも君は、そんなことはどうでも良いとでも考えているのかね?
最近では、我々科学者会の中からも金で身を売り始めてる輩まで居る有り様だ。
まさか、君までそうなんじゃないだろうな?」
「ハハ! それは無かろう。
まあ、この前一人、そんな理由でこのワシの元へ尋ねて来た者ならば居ったがね?」
そんなとぼけた緊張感もない言葉を受け、グレインは一瞬だけ動揺顔を見せた。
が、次になにかしら悟った様子で、カルロスの方へ顔を向け訊く。
「……もちろん、追い返したんだろうな?」
「……ああ、それを受け入れていたら。君にこんな話を最初からする訳がなかろうが?」
「まあ……そりゃ、そうだがね」
グレインは、ふぅと安堵の息をもらし。ソファーに深く座り直す。
「それはそうと……カルロス。君は、パーラースワートロームって国の噂を聞いているか?」
「パーラ……それは聞いたことがないな。どんな噂だね?」
「なんでもその地の者達は、不思議な魔法を操り。中には、不老不死になった者まで居る、って噂だよ。妖精や女神まで居るらしくな、長いこと《伝説の地》とされていたそうだ」
魔法を?
しかも、妖精に女神かね?
カルロスは微かに笑み、呆れ顔で口を開く。
「とても信じる気にはなれんの」
「まあ……そうなんだが。
最近、南東の沿海都市国家アナハイトが急速にその勢力を伸ばしているのは、君も知っているだろう?
何せ、前回の最高評議会でこの対応を巡り、白熱した案件だ」
「──!」
カルロスは、その瞬間、時が止まったかの様に表情が強張った。
「ああ、嫌になるほどにのぅ……それについては、もちろんよく覚えているさ」
《沿海都市国家アナハイト》に対し、共和制キルバレスとしては、どの様な対応を取るべきか。あの日、最高評議会内でかなり熱く議論された。
あくまでも《外交的対応で解決》するか。
それとも、《武力による対応》を行うべきか。
結局のところ、あの日は意見が分かれ、結論に至らないまま散会されたのだが……散会されたあと、カルロスは例の女性記者と言い争い。結果として謹慎処分となり、今現在に至っている。
「その領土拡大するアナハイトの軍勢の中に、何とも不思議で奇妙な魔法を使う者が居たとの報告があり。それがどうやら、噂のパーラースワートローム人である事がこの度判明した」
「──!!」
「それで今回、最高評議会は南東への侵攻を正式に可決した、って訳だ」
「ふむ。なるほどのぅ」
状況は解った。
しかし、アナハイトとはそれでも国境を接する程にまでに至っていない。
距離的にも、この首都キルバレスから六千キロ。国境からでも、三千キロはある。
ということは……。
「その目的は、急速に拡大するアナハイトに対する抑え、というよりも。伝説の地パーラースワートロームの方にある、という訳じゃな?」
カルロスが鷹のような鋭い目線でそう訊くと、グレインは満足げな表情を見せた。
「ああ、ご明察の通りだよ。
今回の遠征には、私は反対だがね。その噂のパーラースワートローム自体には、そんな訳で、大変な興味がある。
そこでだ。君も一緒にどうか、と思って尋ねて来た訳だ」
「まさか君は、このワシにも今回の遠征軍に加担せよ、と申すのか?」
「いやいやいや! 違うよ、パーラースワートロームの方に、だよ!
実は内々に、その地の調査をする様にと科学者会からも数名を派遣することが決まってな。それで私も、それに参加することに決めたんだ」
参加することに、決めた……?
「行くのか? しかし、ここから数千キロも離れているのだろう? 妻子はどうする」
「私の子供は既に二十歳を過ぎた。もう大人だよ。何一つ、心配することはないさ」
グレインは微笑み、肩を竦めて見せている。
カルロスも同じく、なるほどな、と肩を竦めて見せた。
「ふむ。しかし、妻の方はどうする? 一緒に連れて行くのかね?」
「ああ。実は最近、妻とは不仲でなぁ~っ。この話をしても『はい、そうですか』ってくらいなモンで。大した興味も示さなかったよ」
グレインは肩を竦めて見せ、苦笑している。
だが、不仲という部分については嘘だろう。いつも仲良さそうにしているのを、カルロスはよく見知っていた。
恐らくは、そのパーラースワートロームなどという得体も知れぬ未知の地に、大事な妻を連れて行くことに対し、グレイン自身が嫌いそう計ったのだと思われる。
グレインは、そういう男だ。
カルロスはそう理解し微笑むと、再び珈琲を一口だけ飲みその香りを愉しんだ。
「それで、カルロス。君はどうする? 出来たら、この私と共に来て欲しいんだが」
なんとも嬉しいことを言ってくれる。
「もちろん興味はあるさ。しかしこのワシは、三年間の謹慎処分の身だからのぅ…」
「そんなモンは、どうとでも出来る! 私がそれくらい、なんとでもしてやるさ! くだらん心配はするな!!」
「ハハ。それはとてもありがたい申し出じゃが。どの道、まだまだこのパレスハレスでやらねばならぬ課題が沢山残っておるからな。そう何年も、ここを離れている訳にもいかないのさ。
少々……残念なことではあるがね」
事実、興味があるのは確かだし。叶うことならば、この男の行く所にならどこまでも着いて行きたい気持ちがあるのは確かだ。
しかし、この国を離れ長期不在することに対し、不安感が堪らなくあるのだ。
「そう……か。まあ、それなら仕方がないな」
グレインはそれで納得顔を示し、ソファーから立ち上がった。
「ああ、そうそう。お前のこと、未だ色々と噂になっているぞ。
つい『ああ言ってしまった』気持ちはそれなりに分かりはするが、立場もあるんだ。今後はもう少し、言葉には気をつけたほうが良い」
「ああ……そうだな」
例の、あの件での言動か。
ついつい感情的になり、暴言のようなことを吐いてしまった。それで科学者会の品位も下がったと
「反省しているよ、グレイン。お前にも今回の件で迷惑を掛けたのではないか?」
「ああ、少しだけな。ハハ♪」
グレインは笑い、扉へと向かおうとした。
が、カルロスはそんな彼の背を見て、何故か途端に心寂しさを感じ、思わず口を開いていてしまう。
「グレイン。それで、いつから行くんだ?」
「来月だよ」
「来月? それはまた、急な話じゃのぅ……」
「遠征の先遣隊と、途中まで同行して行くことになったからな。お陰さんで、急ぎやり残したことを片付けなきゃならないし。とにかく今は凄く忙しいよ」
「それは大変だ。それで、先遣隊は誰が指揮を執る?」
「確か、ベーリングとかいう、カスタトール将軍の副官だったと思うが……。
あと驚くことに、今回の遠征で向かう将軍は、カリエン・ロイフォート・フォスター将軍とワイゼル・スワート将軍。カスタトール・ヴァーリガン将軍という事だ」
「それは、また見事な英雄揃いじゃのぅ」
「ハハ。それだけ共和制キルバレスとしては、今回の遠征は失敗出来ないと考えてのことなんだろう。
では、またな!」
「ああ、忙しいところを引き止めて悪かった」
「気にするな、このくらいのことで。じゃあな!」
グレインはそれで、実に彼らしい明るい表情で出て行った。そんな彼を、精一杯の笑顔でカルロスは見送ると。ふと急に俯き、こう零した。
「ふ……。また、戦争かね…」
カルロスは、十日前に自分が起こした事件を、そこで再び思い起こす──。
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