『僕』編③ カルテット

「……キノ」

「うん……」


 キノに目配せをして、書斎の本棚の奥に向かう。大丈夫、隠れる場所ならいくらでもある。そうそう見つかるわけが無い。そう考えようとすればするほど、ナニカへの恐怖心が僕の心の中で大きくなっていく。


 積み重なった本を掻き分け、書斎の机の下にキノと共に身を寄せる。抱き合うような形になり、身動きがあまり取れない。

 つまり、見つかれば終わり。この状態から逃げることなどできはしない。


「……キノ、苦しくないか?」

「だ、だいじょうぶ……」


 苦しげに息を吐くキノの身体が心配だが、今は気遣ってやれる暇はない。最低限の配慮として、僕はキノの背中に手を回し、さすってやることにした。


 キィ、と遠くで木と金属の部品が擦れ合う音がして、館の奥から聞こえる音楽のボリュームが大きくなった。

 水滴を垂らしながら床を叩く音も聞こえ、大きな衝撃音と共に部屋に静寂が戻る。

 戻らないのは、2人きりだった書斎に現れた違和感だった。『ナニカ』が、この部屋に入ってきた。


 無言のまま僕はキノを抱きしめる。腕は感覚がなくなり、手は震えが止まらないが、それでも精一杯。こうすることが、僕の責任だと思ったから。

 動き出すナニカの気配。それは近づいてきてるようで、ともすれば遠ざかっているようでもあり、僕が一喜一憂するのを嘲笑っているかのようだ。どうしようもない怒りのせいで、手に力が入る。


「……ん……?」


 机の引き戸の下、構造上外からは絶対に見つからない引き戸と机の支えの間に、古ぼけた手帳のようなものを見つけた。呆然としながら腕を伸ばし、手帳の表紙を見る。


「しのみや……おとぎ?」


 手帳は、病院などで作られるカルテの束だった。患者の名前は篠宮乙木しのみやおとぎ。妖しい幽月邸で、しかもナニカに追われている最中に見つけたカルテ。本来なら恐ろしい物の筈なのだが、何故だか僕は怖くなかった。


 ゆったりとした仕草で迷わずカルテを開く。先ほどまで渦巻いていた怖れはとうに消えて、あるのはこのカルテへの興味だけだった。


 パラパラとカルテを読み進める。

 篠宮乙木は、僕と同じくらいの歳の少女らしい。数年前に学校での虐めが原因で、精神に大きなストレスがかかって記憶喪失になったのだとか。

 今まで人生の全てを記憶を失い、家族は療養の為に人目につかない森の中の洋館に引っ越したらしい。

 長い療養生活の末、今年遂に少女はふとした弾みで記憶を取り戻した。その日付が昨日、カルテはここで終わっていた。


 なんだ、これは? ここに出てくる森の中の洋館とは、この幽月邸のことか? 篠宮乙木という少女が、ここにいると? 繋がりそうで繋がらない僕の認識のピース。一つ分かるのは、僕は、という事だけだ。


「キノ、これってーー」


 側にいるキノに話しかけようとして、又しても遮られる。

 机の前の本の山が切り崩され、机下のスペースにいる僕たちの体に月光が差す。

 それを塞ぐように影が僕たちの前に現れた。したたる液体とシミができる床。爛々と光る、冷徹に見下す双眸。『ナニカ』は僕たちの逃げ場所を塞いでこう言った。


「ここにいましたか、お嬢様」

 

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