篠宮乙木編① 外庭

「ん……んぁ……」


 ハスキーな喘ぎ声を漏らし、意識の覚醒を確かめる。

 どうやら私は芝生の上に寝転がっているようだ。目を開けば遠くに洋館が見え、ここが洋館の庭であることをわかった。

 ゆっくり体を起こし、痛む頭を抑えながら東屋あずまやの席に腰掛ける。


「ふぅ……さて、自問自答だ」


 第1問にしてほとんど最終問題。


***


 私は、(もっとも私の一人称が『私』であったかは分からないのだが。おれぼくわたしあたし我輩わがはい小生しょうせいウチ、なんでもいいが今はテキトーに『私』としておこう)どうやら記憶喪失しているらしい。

 自分の素性、家庭環境、友人の有無、どれも全く分からない。分かるのはこんな状況なのにやけに落ち着いている自分がいることだけだ。


「とりあえず、一般常識は覚えてるみたいだ……」


 今の状況も理解できている、わからないのは過去のことだけだ。どうやら、一過性いっかせい健忘けんぼうではなく全生活史健忘ぜんせいかつしけんぼうのようだ。

 落ち着いてきたところで、辺りを見回す。私が寝転がっていた場所の近くに、石で囲まれた小池がある。

 あの小池の石に頭をぶつけて、記憶が飛んでしまったのだろうか。血も出ていないし、この程度の鈍痛で記憶喪失に成るものだろうか?


「……って、待てよ?」


 妙に記憶喪失のことに詳しいじゃないか、私。

 記憶の症状から健忘の種類を見極めたり、頭部外傷による記憶喪失の可能性を疑問視したり、おおよそ一般常識と呼べる以上の社会知識を持っている。

 もしかして、私は医学関係の学校に通っていたのだろうか?


「……ま、うだうだしてても仕方ない」


 ここで考えていても答えは見つからない。記憶喪失現場に赴き、現場検証してみよう。東屋を離れ、小池に向かう。

 小池の前の芝生には、私が寝転がったことでできたであろう窪み以外何もなかった。推理小説よろしく、現場に証拠が落ちているなんて都合のいいこともないか。そう思い、気まぐれに池を覗いてみる。


「……んん?」


 水面には私のボーイッシュなかわいらしい顔が映っている。

 しかし私が驚いたのは私の顔の端麗さではない。

 カードだ。病院で患者が首に下げている、ひも付きのネームカードが池に浮いている。

 それを拾い上げ、まじまじと観察する。私らしき人物が儚げな微笑がたたえている写真の横に、見覚えない名前が記されていた。


『篠宮乙木』


 察するに、これは私のネームカードで、私の名前は『篠宮乙木』なのか。これはまあ、ずいぶんとたくさんヒントをくれたものだ。

 確かに、思い当たる節はある。今まで無視していたが、私が今着ている服は白い病衣。まるでつい先ほどまで病院にいた者のようだ。私は何かの病気の患者なのだろうか?

 

「篠宮……乙木」


 うっとりして自分の名前らしき名称を口にする。

 初めて手に入れた自分の証明書に、私は舞い上がっていた。それがいけなかった。

 気の抜けていた私の肩を、がっしりとした手がつかむ。驚きと恐怖で動けなくなった私の耳元に、『ナニカ』がささやく。


「……君は誰だ?」


 そんなこと、私だって知りたい。

 

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