すべて伝えるのか、想像に任せるのか

講評道場 https://kakuyomu.jp/works/1177354054890135617


『講評道場』新地恵深さまの開催する講評会に第一回で参加させてもらってから、ちょっと考えていることがある。


 文章のタイプとしては、大きく二派にまず分かれてしまう事情がある点を踏まえてほしい。それが表題の「すべて伝える派・想像にお任せ派」のスタンス二派だ。


 とにかく装飾過多というか、形容詞を多用して細かなニュアンスまで伝えようとするとか、感情描写や出来事を丁寧に始めから終わりまで書き連ねるというタイプが「すべて伝える派」ということになる。


 もうひとつは文章そのものが基準点になっており、内容を伝えるためのツールとしてよりは、美としての追究を優先した形で文章を綴る、いわば従来型のことだ。王道というか、文豪以下、一般文芸や文学のスタンダードはこっちである。

 文章表現そのものを主題にするので、もちろん内容が全員に滞りなく伝達されるとかは考えない。なので「想像にお任せ」にならざるをえない。


 ちな、テンプレ系の文章は実はこの「想像にお任せ」の延長に存在する。


 かつては後者が良いとされたが、昨今にはテンプレの登場と個性重視で、派閥の上下を問えなくなった事情から、一概には良し悪しを言えなくなってしまったので、前者の地位向上が見られるようにもなった。テンプレさまさまってトコロだ。


 今はとにかく何でもアリなので、一概に「これはダメ」が言えなくなったわけで、講評においてもその作品一個においてのバランスのみで見ることになっているが、さて、読者としては「自身は、どちらの派閥を取るべきなのか?」という疑問が生まれてくることが予測される。


 後者、文豪などが使った文章重視型は、現在でも文学や一般文芸においてのスタンダードであろうと思う。感情なら感情で、くどくどしく全ての心のヒダまでは描写せず、読者に想像の余地を残す手法というべきか。


 これはしかし、突き詰めていけば、どこまで端折るのかという程度問題へ行かざるをえないわけだし、テンプレ系の作品も類型と捉えるべきかの論争へと辿り着く。読者の想像力におんぶに抱っことなれば、果てしなく端折ることが可能ゆえにだ。


 片や、伝達重視型は、おそらくテンプレ系のカウンターとして登場したというか、脚光を浴びるようになってきた経緯があるのではないかと睨んでいるが、上記であげた感情描写など、何でもくどくどしく装飾を施す派閥を指すとみていいと思う。


 これは、かつては謂われなく下にみられていただけで、作者の思考をそっくりそのまま読者に移し替えようという企図が成功している作品においては、ちょっと説明の付きかねる読後感を体験することになる。(ゆえに読者の興味を留めおくという部分の制御が難しい)


 1から10まですべて読者に委ねるトコロなしに、読者は100%の受け身で望む読書体験であるから、作者の舵取りを離れて自分勝手に想像の翼を広げることに慣れた読者などは不満が爆発である。(笑


 受け身を取るということは、両者の間に絶対の信頼関係がなければ難しいわけで、特に「想像にお任せ型」を好む能動的読者は、自身の想像力を抑えねばならならい感覚に苛立ちを覚えるかも知れない(それは甚だしく暴走というべきなのだが)。そこをまた、かつての文壇と同じく身勝手を棚上げの感覚で論じてしまうと、この手法の真の読書経験を掴みきれない。


 例えるなら、「想像にお任せ型」はレールサイクリングであり、自身でスピードもスリルも調整できるのに対し、「すべて伝える派」はジェットコースターかトロッコ列車という幅を持つことになる。読者の自己制御を許さないというところが成功すると、とんでもない効果を生み出す。


 どちらも長短があり、どちらが上という話ではない。どちらが楽という話でもない。どちらも成功させるには相応の努力と技術が必要である。


 ただし、無計画に思いつくまま書き殴って現れてくるという類いでは決してないので、創作者はどこかで必ず立ち止まることになるだろう。


 自身はどちらを選択するべきなのか、この岐路に立たされた時に途方に暮れてしまい、さらに悪いことには、その回答を求めるべき先が存在しないということにも気付いてしまうだろうということだ。


 すべて伝える派の手法は、色々と応用が利くので、さらに選択肢が増えるのだ。


 また、二派はきれいに白黒で分かれるわけではなく、グラデーションなので、どこに位置するかを測るのは難しいだろう。


 どちらかと言えば、バランスの問題と捉えるべきかと思う。そのバランスをどこに定めるか、これはもう、作者個人の好みの問題としか捉えようはないと思う。



 作者は、自身の「好み」という部分でムリはしないほうがいい。文章を書く、それを推敲する、本当にムリをせず「好き」だけで固めてしまった文章は、10回くらいは平気で読み返せる。それは目安だ。


 自分が10回も読み返せないような文章なら、他人はたったの1回すら苦行だから。


 つまらない文章っていうのは、中身がない。引き延ばしだったり、無駄だったり、冗長だったり、そういう文章が現れやすいのはエピソードとエピソードのジョイント部分が多くて、普通の人は書くのを避けるからぶつ切になる。それを無理矢理繋いでいるのは、巧いんじゃなくて、むしろヘタクソだ。


 中身がない文章は削らねばいけなくて、推敲ってのが削る作業と言われる所以だ。

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