小説賞というものは「面白い」を誰が担保するかということである

『小説を書くからには一度は思うこと』のエッセイに興味深い記事があったんで、ちょっと取り上げて考えてみました。https://kakuyomu.jp/works/1177354054883750432



 世の中、色んな小説賞があります。私が狙うメフィスト賞とか、角川さんとこの乱歩賞とか、このミス大賞とかね。これ、厳密には何だと思います?


「誰か」が「この作品は面白いと保障する、」という言質を付与する為の選抜です。


 新本格推理ブームを作り上げた島田荘司先生が、次々に新人作家をデビューさせたのは有名なエピソードですが、この作家陣に先生がやってのけたのが、個人的な、いわば「島田賞」を付与したというようなことです。(育てつつだからすごい効率的)

 島田先生は言わないけれど、デビューした作家陣の影には先生の知り合いながらデビューに至らなかった書き手がどれだけいただろうか、という点にも注目してほしいと思います。選抜じみたことはあった、と私は思っています。


 読者は、島田荘司が推すんだからという、お墨付きを担保にしてその作品達を信用し、選択して読んだわけです。その結果は読者それぞれでしょうが、綾辻先生とか見ればわかるように、多くの読者が島田先生の審美眼を支持したということでしょう。


 つまり、本来、コンテストというものは、品質保証を誰が担保するかという点が外せないわけです。メフィストの場合は編集部の編集員さんたちが責任を持ってくださる、ということです。自身の信用を天秤の片方に載せて選考しているわけです。読者にとっての「面白い」は、新本格だったら伝統的に新本格に期待される「面白さ」ということになります。評価基準がコロコロ変わるなんて読者には迷惑でしかありませんので。新本格といえばコレ!というイメージがあり、そこから外れたものは本来なら、どんなに傑作であってもカテエラになるはずなんです。読者の求めじゃないから。(メフィストはその点が少し特殊ですね)


 では、読者選考という形態ではどうなるでしょうか。


 これ、実は読者の側だって千差万別色んな趣向の人が居るってことを忘れちゃいけないわけです。新本格とかパズル的なのは趣味に合わない人だって一大勢力で存在するわけです。その人たちの趣向に合ったコンテストがなかったら、彼らは不満でしょう。現在は各種SNSで簡単に意見を述べられる良い時代ですから、こういう意見が多数出てくるわけです、「読者に選ばせろ、」と。


 しかし、現実には1000人読者が居て、その1000人が同じ判定基準で選ぶわけではないんですよ。これが公募とかなら基準くらいは細かく規定してますけども、読者ですから。


 だいたいその内訳は、「交流に長けた人の組織票」と「中身を吟味せず数値だけで決める人の票」と「宣伝が得意な人が宣伝で得た票」と「サービスやおもてなしの心地良さで得た票」とが大量に含まれたものです。これらは完全に外交能力ですね。


 さらに、中身を読んで選択した人たちであっても、その評価軸は幾通りも存在してしまい、統一した見解で結果が出てくるわけではありません。

 ある人は「ダイジェストみたいな文体が自分に合ってて面白い」で選ぶでしょうし、ある人は「緻密な描写がびっしり入っているのが良い」で選ぶでしょうし、「読み慣れたテンプレに凄いアイデアがある!」で選んだ人はその実、よくよく聞けば「異世界テンプレに漫画作品のアレを入れてあるのが斬新」という評価かも知れません。


 それでも、言葉は悪いですが、『チリも積もれば山となる』なんです。特にSNSというものはその性質上、外交能力が非常に重要です。宣伝と交流とおもてなしで懇意になったなら、お付き合いで票のひとつくらいは誰でも入れるというわけです。


 星が数千付いている、だけど分母の方を注視してみてください。なろうだったらその分母は幾つですか? あそこは特に誰もがアクセスして最初にランキングが目に入る構造になっていますが、分母のほとんどはランキングトップを無視しているとも言えてしまえるということを都合よく忘れていませんか。(評価に露出度が関係するなら、あのサイトのトップ作品群の露出度はとてつもないですが)


 フォローしてくれている数が10人としましょう、記事を更新して、何人が読んでくれますか? そのフォローは「付けたもののその後は忘れてしまっている」痕跡に過ぎなかったりはしませんか?


 そもそも、小説作品のファンですか? 作者と交流目的じゃないですか?



 ……ちょっとイジワルだったかもしれません。


 SNSにおける評価軸のうちの、特に外交努力によって得た評価というものは、純粋に作品の出来で得た評価ではないというのはお解かりいただけると思います。

 問題は、この外交努力、本人の手が実際に届く範囲にしか影響を及ぼせないという点です。カリスマがあって人気を集める人っていうのとは違うのですね。で、SNS程度の規模では、たんなる外交努力の成果なのかカリスマなのかの区別が付かないのですよ。外交努力は実際に自分が握手してまわらねばなりません、カリスマは演説しているだけで人の方で集まります、その違いは認知の規模が大きくならねば見えてこないのです。


 大事なことなので、機会があれば何度でも繰り返して言いますが。

「読みやすさは慣れです。Web小説に慣れていれば端折ったこの独特の文体が読みやすく感じるけれど、本屋でこの文体はむしろ希少種です。」と。

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