“零” ᚱ

「・・・・・・ふぐっ、ひぐぅうッ・・・・・・うあ、ぁああああ・・・・・」


「いたぞー、そっちだ!」「あの体型でなんであんなに早いんだ!?」「早く、あのぽっちゃりを一刻も早く止めるんだ! イチャつくカップルなんか見たら大変なことになるぞ!?」「大丈夫だってマリコルヌ、ブリジッタだっけ? あんな女なんかよりきみの良さを分かってくれる人はいるさ!」「それに恋人に振られたのはきみだけじゃないぜ! 嫌なことは一緒に酒でも飲んで忘れて、次の恋を探しにいこうじゃないか!」「・・・・・・・いや、どうかな・・・・・・流石にあれだけの変態っぷりに付き合えるのはいないんじゃないか?」「・・・・・・需要と供給」「おいおい余計なこと言うなよタバサ! ほら、さらに加速し始めたぞあいつ!」


 涙を撒き散らし、ドスドスと石畳に足音を響かせ走るマリコルヌ、そのあとをドタドタと騒がしく追いかける水精霊騎士たち。キュルケは通り過ぎる彼らを横目に、大きく伸びをしてその豊かな胸を弾ませる。

「・・・・・・ふぁあ・・・・・・ほんと、ジャンったら張り切っちゃって・・・・・・いくら自分の研究がサイトを助けるのに役に立つからっていっても、眠る時くらいは机じゃなくてベッドで寝てほしいものね・・・・・・。わたしがどんなに甲斐甲斐しく世話焼いてても、まったく気にも留めないんだから・・・・・・」

 思わず出てきたあくびを手のひらで覆い、キュルケは渡り廊下の石柱に背を預ける。・・・・・・才人の持ってきた“ぱそこん”とやらで、なんとか才人と連絡が取れないかと分析を始めたコルベールを手伝い研究所に籠ったはいいものの、いまだ大した成果は出ていない。才人の世界の言葉が分からないうえ、電気の供給自体にかける労力も並みではないのだ。ヘンなボタンを押して暗転したり、光る画面に埋め尽くすように表示された白い枠を消したり・・・・・・いろんなトラブルを乗り越えている内に時は流れ、吐く息はもうすっかり白くなっていた。

「それにしても、寒くなってきたわね・・・・・・」

感じる眠気は寒気に上書きされ、キュルケは 杖の先に灯す火で暖をとり、

「・・・・・・ところでティファニア、この騒ぎなんなの?」

 そして、偶然廊下を通りかかった金髪の妖精に問いかける。

 「・・・・・・え、わ、わたし? ・・・・・・・えっと、なんでもマリコルヌの恋人が他の、もっとふくよかな男の人と、マリコルヌの目の前でその、キスしたみたいなの。それで怒ったマリコルヌは、その相手もろともウインド・ブレイクで吹き飛ばして、ってきいたわ。・・・・・・ひどいよね。マリコルヌは必死に、ルイズを助けるために頑張ってあちこち走り回ってただけなのに・・・・・・一緒にいてあげられなかったからって、なにもそこまで・・・・・・」

 唐突な質問にまごつきながらも答え、マリコルヌに同情の意を表すティファニア。しかし流石にそれは強引な結論だと、キュルケは質問を重ねた。

「いいえ、他に理由があったんじゃない?」

「・・・・・・・他に? ええと・・・・・・たしか、ルイズのお姉さんの愚痴や癇癪を、騎士隊のみんなが喜ぶからって、全部マリコルヌに相手をさせてて、マリコルヌも嬉しそうで・・・・・・、あっ、じゃあ、その子はルイズみたいに身を引こうとしたのかしら!? だったら誤解を・・・・・・!」

「それも違うわね。・・・・・・ああ、そういうこと、分かったわ。要は“恋の熱”が醒めちゃったのよ。あのヴァリエール家の、それも魔法研究所の研究員が相手とあれば、トリステインの女なら誰だって気後れするでしょうから。そして隙間ができた女の心に、他の男が住み着く、なんてのはよくあることよ」

「・・・・・・そんな、ものなの?」

 さらりと言ってのけたキュルケの答えを、ティファニアはうまく受け入れることが出来なかった。才人に連れ出してもらうまでウエストウッドから離れたことがなかった彼女は、人を好きになるということが、とても素敵なことだと思っていた。

 だからルイズが家出をした時は浮気した才人を怒ったし、才人への自分の気持ちに気付いてからは苦悩して・・・・・・、今だって悩んでいる。

「ええ、案外そんなものよ。愛だの恋だのなんて言っても綺麗なものばかりじゃない、生き物としての本能の部分だってもちろんあるわ。だから好きな人とは子を為すために肌を重ねたくなるし・・・・・・ “一番”を手に入れたら安心して、もっといい一番を手に入れたくなる。“一番”として手に入れられた方も、“二番”になるかもしれないって怖くなって相手を疑って、自分でその位を下げちゃうことだってあるわね。

 ・・・・・・でも、それで相手の“一番”になりなおそうと自分を変えるのも、相手を見限ってしまうのも自由なのよ。・・・・・・・これで話はおしまい。ところでティファニア、引き止めておいてなんだけど、あなたもうそろそろ、王宮に行く時間じゃないの? それとも今日はアルビオンかしら?」

「えっ、ど、どうしてそれを知ってるの?」

驚きに声を上げたティファニアに、キュルケは大丈夫、と言わんばかりに微笑んでみせた。

「最近外に出ないから、フレイムに情報を集めてもらってるのよ。それで最近、あなたが使ってる竜籠や竜騎士たちの竜と仲良くなったらしくて、今日はどこへ飛んだって教えてくれるの。・・・・・・・安心しなさい、姫さまと何をするかは知らないけど、誰にも話す気は無いから」 

「・・・・・・あ、ありがとう。じゃあわたし、行ってくるわ」

 戸惑いながらもぺこりと頭を下げ、小走りで渡り廊下を駆けていくティファニア。去り行く後ろ姿、その脇から弾んでちらちらとその姿を覗かせる魔法兵器を、広場にいる少年たちが食い入るように見つめているのに、・・・・・・そしてその恋人らしき少女たちが、嫉妬の視線を送っているのに、彼女は気付かない。

(・・・・・・たとえ本人に悪気がなくても、純粋な意思や思考は、周りの誰かを知らないうちに傷つけてしまう、か・・・・・・)

「・・・・・・ほんとに、純粋すぎるのも困ったものねぇ・・・・・・」

「・・・・・・それは、ティファニアのこと? それとも・・・・・・」

「あらタバサ。さっき一緒になってマリコルヌを追いかけてたけど、もういいの? いくらルクシャナのおかげで天気が戻ったからって、流石に干害を受けた村の対応、一人じゃできないでしょう?」

 いつのまにか反対、自分と同じ石柱に身を寄せる青髪の親友の声に、キュルケは振り返ることなく応じる。ページをめくる音が聞こえない、珍しく本を読んでいないようだった。

「関係ない、偶然通りかかったところを巻き込まれただけ。わたしはわたしが出来ることをやる」

「お姉さま、そんなひどいこと言っちゃだめなのね! お姉さまが行かないならシルフィが手伝ってくるのね! きゅいきゅい!」

どしどしと重々しい足音と共に、騒がしい声が会話に混ざる。どうやら使い魔のシルフィードも一緒のようだ。

「やめたほうがいい。あなたが出ていくと面倒が増える」

「むきぃー! なんなのねその言い方、まるでシルフィがバカみたいなのね! 空もたいして飛べないちびっこのくせに! あーあ、そんなこと言うならこの高貴な韻竜であるシルフィ、お姉さまを背中に乗せたくなくなってきたかもー、なのね!」

「・・・・・・聞こえなかった。もう一回、言って?」

 “聞いてなかった”と言わないあたり、耳に入れてはいたのだろう。背中の柱越しからでも分かる親友の静かな言葉に滲む凄みをその使い魔も感じ取ったのか、ぴっ!? と悲鳴をあげる。

「じょ、冗談なのね、ちょ、ちょっと調子に乗っちゃっただけなのね! ・・・・・・さ、さあさあお姉さま、折角指輪とやらが見つかったんだから、水の精霊に返しにいくのね! ほらほら、遠慮なくこのシルフィの背中にお乗りくださいませなのね!」

「・・・・・・そういえばあなたには、学院の中では喋らないように、って言いつけてたけど・・・・・・忘れたの?」

「ごっ、ごめんなさいなのね、ごめんなさいなのね!! まだ誰も気付いてないみたいだし、今からシルフィおしゃべりしないから許してなのね、きゅいきゅい!」

「そう、じゃあラクドリアン湖まで飛んで。・・・・・・あと、キュルケ」

「はあい、なに?」

 この親友が、人の名前を呼ぶことはそう多くない。おどけながらも何事かと心中身構えるキュルケだったが、タバサが口にしたのは自分を案ずる言葉だった。

「疲れてるなら休んだ方がいい。話題を逸らすなんて、あなたらしくない」

「・・・・・・ええ、そうかもね。忠告ありがと」

 すぐさま飛び立つシルフィードの羽ばたきに、感謝の言葉は掻き消された。みるみるうちに遠くなっていく親友の背中を、見つめながらキュルケは思う。

(まったく、わたしよりよっぽど、あなたのほうが疲れてるでしょうに・・・・・・)

 ・・・・・・確かにいま、自分は“らしくない”。人の恋愛に“自分から”首を突っ込み、自らの恋愛観で計り取るようなことはしないし、ましてや“聞かれてもいないのに”それが正しいことのように言い、誰かを諭すことなんてありえない。・・・・・・もっと大胆で、情熱的で、余裕があり、自信に満ち溢れている。キュルケ・アウグスタ・フレデリカ・フォン・アンハルツ・ツェルプストーとは、そんな女でなければおかしいのだ。

 ・・・・・・原因は分かっている。自分もきっと、不安なのだろうと。

 大事な人の一番とは、決して“人”とは限らない。過去の贖いに人生を賭し、人の役に立つべくその身を捧げようとする男の心を溶かすのは、この百戦錬磨の“微熱”といえども簡単ではない。熱しすぎれば焦げてしまうし、かといって温いままではいつまでたっても変わりはしない。今日のように自信が無くなりそうな時があるほどに、その熱加減はキュルケを磨耗させるのだ。

(さて、と。わたしも、もうひと頑張りしないと、ね・・・・・・)

 思考に区切りをつけて背中を石柱から離し、何事も無かったかのようにキュルケは研究室に戻っていくのであった。



 「っ、はぁ、はぁ・・・・・・」

 アルヴィーズの食堂、巨大な柱の陰。奇しくもかつて風呂を覗いた才人と、それを匿ったタバサが隠れた場所に、マリコルヌはいた。

「おーい、いたかー?」「いや、こっちはいないぞー」「・・・・・・なあ、本当にこんな風に追い回してていいのか? 流石に傷口に塩を塗ってるようで気が引けるんだけど。それよりも、干害にあった村の支援に行かなきゃ・・・・・・」「仕方ないんだ。卒業生の僕たちは、オスマン氏の好意でこの学院に置かせてもらってるんだから、これ以上八つ当たりで被害が増えたらまずい」「それになによりあいつがいなかったら、一体誰がエレオノールさんの相手をするっていうんだ。今日メチャクチャ機嫌悪いぞあの人?」「・・・・・・こんなこと言いたかないが、今の僕たちに、あの癇癪に付き合える余裕なんてないんだよ・・・・・・」

(くそっ、・・・・・・頼むから少しくらい、放っておいてくれよ・・・・・・)

 マリコルヌは思い出す。今日の昼過ぎ、この食堂にブリジッタに呼びつけられたのが事の始まりだった。

 自分より弱気そうで、ふくよかな少年の手を引いて食堂に入ってきたブリジッタは、突然別れ話を切り出してきたのだ。

“・・・・・・別れ、たい? ぼくと? ・・・・・・はははっ、冗談きついよブリジッタ・・・・・・”

“・・・・・・いいえ、マリコルヌさま。あなたは確かにハルケギニアの英雄かもしれません。ですが聖戦から帰ってきてからというものの、わたしのことを見てくださらなくなってしまいました。・・・・・・わたしにはそれが、耐えられないのです”

“そ、そんなことない! いつだってぼくはきみのことを考えて・・・・・・”

“だったらどうして今までずっと、ただの一度も会いに来てくださらなかったのです?”

“そ、それは・・・・・・色々と忙しくて・・・・・・” 

“嘘をおっしゃらないでくださいまし。 わたしがマリコルヌさまをお目にかかるときは、いつもヴァリエール家のお方と楽しそうに戯れていたではございませんか”

―――いいや、嘘ではない。“元”がつくようになったとはいえ魔法研究所の職員、海母が水を圧縮して作った結晶を効率よく解放・散布させるため、エレオノールは魔法学院で研究を行い、水精霊騎士隊に協力してくれていた。ただ研究所をクビになった愚痴や、日々の文句を受け止められるのが自分しかいないからと、みんなから接待役を任されたのだ。

 ・・・・・・もちろん恋人であるブリジッタに黙っていたことに、負い目を感じなかった訳ではない。しかしそれを説明しようとすると“虚無”に触れずにはいられなくなるし、なによりマリコルヌは、自分とブリジッタは大丈夫だ、という根拠の無い自信を抱いていた。

 ・・・・・・聖戦が終わってすぐにサイトの捜索、日照りの対応に追われ、長い間時を空けた恋人に愛想を尽かされた、と嘆く仲間たちを慰めたことだってある。

 しかし卒業して離れ離れになった友人たちとは違い、ブリジッタはまだ二年生だ。学院にいるかぎりいつでも会いに行くことができると思うと・・・・・・わざわざ部屋を訪れたり、自分の部屋に招く意は湧かず、日々の疲れに気付けば泥のような眠りについていた。日々エレオノールに詰られて、満足していた自分も否めなかった。

“いえ、大丈夫です、もう十分ですわ”

強く横に振られた首、零した涙は自分への未練を振りほどくためだろうか。ともあれそう言ってあてつけのように、繋いだ男の手を引き、唇を寄せようとしたブリジッタを見た瞬間、マリコルヌの理性は蒸発した。

 ・・・・・・騎士隊の仲間に、声を掛けられたと気付いた時には、自分は荒い息を吐きながら杖を握っていて、目の前にいた男は、ブリジッタを抱えたまま壁にめり込んでいた。男から離れ身を起こすブリジッタ、その瞳にマリコルヌは怯え逃げ出して、・・・・・・今に、至る。

(・・・・・・・ちくしょう。最低だ、グランブプレ家の恥だ! いくら目の前であんなことされても、女の子に手を上げるなんてッ・・・・・・)

 後悔がとめどなく押し寄せる。思い返せば、ブリジッタは泣いていた。もしかしたらあれは演技で、自分を試すべくあの男と一計を案じていたのかもしれない。

 ・・・・・・だとしても、もうすべてが手遅れだ。彼女の瞳には、自分への非難しか映っていなかった。当然だ、あのとき彼女を咄嗟に庇ったあの男の方が、こんな矮小な自分なんかよりよっぽど彼女に相応しい。

 ・・・・・・自分の“好き”は、彼女への信用は、その程度のものだったのだから・・・・・・

「うっ・・・・・・うぁあ・・・・・・あぁあああッ・・・・・・・」

 押し殺せなくなった嗚咽が漏れ、こだまする食堂。

 ――――そんな空間に、空気を読まずに入ってくるのは、やはり“元”魔法研究員のヴァリエール公爵家の長女であった。すっかり顔なじみになったらしいマルトー親父に、今日もまた献立に無い料理を注文して、エレオノールはつかつかとこちらに向かってくる。柱の影から姿を現し、マリコルヌは毅然と言い放った。

「・・・・・・わざわざここで食べなくてもいいじゃないですか」

「わたしはいつもここで食べてるわよ。一人で情けない顔がしたかったら、あなたがどっか行きなさい」

 ―――一体誰のせいで、こうなったと思っているのか。カッ、と頭に上った血を抑え、マリコルヌはごしごしと目元を拭う。

「・・・・・・へえ、そうですか。じゃあこれで文句はありませんよね?」

 テーブルに着いたエレオノールの隣に立ち、怒りに震える声で言い返すと、エレオノールはばつが悪そうに顔を背けた。自分の起こした騒動は、学院中で話題になっている。

 ・・・・・・しかし、エレオノールの発した言葉は、マリコルヌの望んでいたものではなかった。

「・・・・・・ガールフレンドと別れたらしいけど、気にすることじゃないわ。子供の恋愛なんてそんなものよ・・・・・・わ、わたしだって、バーガンディ伯爵とは・・・」

一瞬、理解が出来なかった。そして気付いた時には、既に怒りが頭を支配していた。

 ・・・・・・なに、他人事みたいに言ってるんだよ。自分語りだと? ふざけるなよ。誰のせいでこんな目に遭ったと思ってるんだ? 

「あ、あんたみたいな行き遅れと一緒にするなよッ! 卒業したぼくにはきっと、ぼくを受け入れてくれる、あんな素敵な子との出会いは・・・・・・、あんたの癇癪なんかに付き合ってなけりゃあ、こんな、っ・・・・・・!」

「・・・・・・誰に向かって物言ってんのよ。大体、あんただってわたしに詰られて“お姉たまー♪”ってうれしそうにしてたじゃない」

「は、ハッ! いっ、行かず後家が調子に乗ってるから、からかって遊んでただけさ! 誰が好きであんたみたいな面倒くさいのに付き合うやつがいるもんか!」

「・・・・・・ふーん、そう。言いたいことはそれだけ?」

「・・・・・・ッッッ、―――ッ! ―――ッ!! ―――ッ!!!!」

 立ち上がり、振り向いたその顔は平然としていて、マリコルヌの怒りは加速する。思いつく限りの暴言を並べ立てるが、エレオノールの表情はピクリとも動かない。

(・・・・・・どうして怒らないんだよ。なんで何も言い返してこないんだッ!!)

 こんなことを言っても何の解決にもならない。しかし、分かっていてもマリコルヌは止まらない。重ねに溜まった疲労や鬱憤が、恋人との別れの悲哀が混ざって、マリコルヌの心をグチャグチャに歪めていく。ドロドロに汚していく。

 「大体、あ、あんたの妹が・・・・・・! サイトを探すのはいいさ! でもなんで、なんでぼくらがルイズの後始末をするのが当たり前みたいになってるんだ!?」

心にも無い言葉をマリコルヌは、吐いて、吐いて、吐いて、

「いつになってもまわりに迷惑かけて失敗ばっかりなゼロのあいつのせいで、昼も夜もあちこち駆けずり回って、その結果がこれなんてッ・・・・・・」

 ・・・・・・そして―――思わず言ってしまった。

 まずい、そう思い訂正しようとするが既にもう遅い。視界がぶれ、頬に鈍い痛みが走る。平手打ちをされた、と気付いた時には、エレオノールは自分に背を向け、食堂の出口へと向かっていた。

「・・・・・・そう、文句があるならもういいわよ、手伝わなくても。水精霊騎士たちにもわたしから伝えとくから」

「・・・・・・ま、待ってよ! ぼくはべつに、そんなつもりで言ったんじゃあ・・・・・・」

 怒りに紅潮させていた顔を瞬時に青くして、マリコルヌは彼女を引きとめようと追いかけ必死に弁明しようとする。しかし、エレオノールの歩みは止まらず、こちらを振り返ってくれることもない。

「そんなつもりもどんなつもりも、妹をバカにしてるようにわたしには聞こえたわ。それがすべてよ。・・・・・・よかったわね、もうわたしのご機嫌取りをしなくても済むわよ? 喜びなさい」

その言葉の端々からにじみ出る圧は、マリコルヌに“取り返しのつかないことをしてしまった”と自覚させるには十分だった。

 「・・・・・・・なにやってんだろ、ぼく・・・・・・」

 食堂を出て行くその背中を、マリコルヌは見送ることしか出来なかった。毎日付き合った食事に酒。刺々しい愚痴の中に垣間見える本音から、普段の辛辣な様子からは想像できないような内面を、エレオノールは少しずつ自分に教えてくれた。

 ・・・・・・病弱の次女、カトレアを治すために魔法研究所に入ったこと、その勉強のせいで末の妹のルイズには、あまり構ってあげられなかったこと。・・・・・・ヴァリエール家の長女として、二人の妹の手本となる、立派な女性にならなけばいけないこと・・・・・・。 

 ・・・・・・自分の知るルイズ以上に、不器用で融通が利かないその姉。最近になって、ようやく彼女のことが分かってきたというのに、・・・・・・これからは、もう・・・・・・。

 「・・・・・・あの、申し訳ございません。先ほどこちらにおられました、ヴァリエールのご婦人はどうなされましたでしょうか? ご注文を頂いた料理を、お持ちしたのですが・・・・・・」

 背中からメイドにおそるおそるといった様子で声を掛けられ、マリコルヌは振り向く。 なんでいまぼくに聞いてくるんだ空気読めよ、と怒鳴りつけたい衝動が喉を走ったが、怯えに震えるその様子を見て、マリコルヌは我に返る。

「・・・・・・食堂を出て行ったよ。ぼくが食べるから、そこに置いといてくれ」

 普通に言ったつもりだったが、不機嫌に聞こえたのだろう。テーブルに配膳し、釣鐘型のクローシュを開けるとメイドは申し訳なさそうに頭を下げ、逃げるように去っていく。

 ・・・・・・まるで示し合わせたかのように、マリコルヌの腹が軽く鳴った。そういえば朝から何も食べていない。生きている以上、悲しい時でも腹は減る。まあ小食のエレオノールが頼んだものをたいらげても、大した腹の足しにはならないかも知れないが、思いながらテーブルに着くと、そこには山盛りのパスタがでん、と置かれていた。自分がよく頼む、熱々のトマトソースのうえにトロトロの濃厚なチーズがたっぷりかかったやつである。

 ・・・・・・しかし、それにしてはヘンだ。小食なうえ食事に気を使うあのエレオノールが、こんな脂っこいものを、大量に頼むとは思えない。マリコルヌは首をかしげた。

「・・・・・・なんだよこれ、注文間違えたのか?」

 ・・・・・・いや、もしかしたらこれは、彼女なりの励ましだったのかもしれない。配膳された食器だって二組だ。量が多すぎるからあんたも食べなさい、なんていかにも彼女の言いそうなことだな・・・・・・

 ・・・・・・待て、励ましの、つもり? ・・・・・・だったら――― 

 そこでマリコルヌはやっと、エレオノールが細かい事情を知らないで自分を尋ねてきた、という可能性に思い至った。先程の出来事を振り返ってみて確信する。第一愚痴を言いにくる以外、ずっと部屋に引きこもって研究に打ち込んでいた彼女には、通りがかりの生徒の話を聞いて知る、くらいしかできるはずがない。・・・・・・冷静になっていればその口ぶりから、すぐに分かることができたであろうに。自分はてっきり彼女が事の成り行きを知っていると思い込んで、理不尽な怒りをぶつけたのか。

「・・・・・・は、はっ。と、とんだピエロじゃないか、ぼく・・・・・・」

 あまりの情けなさに零れそうになる涙を堪え、マリコルヌはパスタに食らいつく。今の自分に、泣く資格など無い。慢心に恋人を失い、仲間たちがみな味わった苦痛にひとり耐え切れず、我が身可愛さに友を嘲った自分に、あるわけがない。

「・・・・・・こ、こんなつもりじゃなかったんだよ。どうしてこうなったんだよ。・・・・・・ねえ、誰か、誰か教えてよッ・・・・・・」

 こんなみじめで恥ずかしい自分なんて、いっそ消えてなくなればいいのに。喉からこみ上がってくる嗚咽を押し戻すかのように、マリコルヌはパスタを一心不乱に掻き込んだ。



 ―――――ガチャリ。薬品のつんとした臭いが漂う室内、鍵をかけてエレオノールはベッドに仰向けに倒れこむ。・・・・・・どうしてこんなに、気持ちが沈んでいるのだろう。妹ほども年の離れた子供に、自分は一体何を期待していたのだろうか。

「ほんと、大人気ないわね、わたし・・・・・・」

 魔法研究所から少しばかり運んできた、机の上に散乱する研究機材を横目に眺め、枕元にあるはずの手紙を手探りで探し、眼前で開いて・・・・・・ため息。先日、父であるヴァリエール公爵から送られてきたその手紙には、妹のカトレアの不調が綴られていた。

「・・・・・・あと少しで、完成してたっていうのに・・・・・・。上の連中のも上の連中よ。・・・・・・ちょっとエルフの国に行ったからって、異端のレッテルを貼るなんて・・・・・・釈明の余地くらい、くれたっていいじゃない・・・・・・」

 ―――季節の変わり目になると、カトレアの体調は決まって悪くなる・・・・・・身体に流れる“水”の問題ではない。それならばとうに“水”のエキスパートである父が治せている。

 ・・・・・・何度矯正しようとも気休めにしかならず、流れが悪くなる身体の水・・・・・・夜鳴きを繰り返す、幼い妹・・・・・・。

『・・・・・・なにが公爵だ、愛する自分の娘に、普通の日々すら満足に送らせてやれないのか・・・・・・!』

 ・・・・・・夜中に目を覚まし書斎を覗くと、机に突っ伏し頭を抱え、声を震わせる父がいた。その首に後ろから手を回し、慰めの言葉をかける母がいた。

 ・・・・・・乳飲み子の頃の記憶などカトレアは覚えてはいないだろうし、カトレアが歳を取ってからは、父も母も悲哀を見せることは無くなった。しかし幼い自分の瞳にはその光景は鮮烈で、鮮明に焼き付けてしまった。

 ・・・・・・思えばあの日、自分は魔法の研究への道を歩みたいと思い始めたのだ。妹の虚弱は、きっと外からどういじくっても治りはしない。ならば彼女の内部から治していくしかない。その原因の元である“彼女の身体そのもの”の性質を変化させる薬や魔法を、自分が見つけるしかないと、そう考えたのだ。

―――また幸か不幸か、エレオノールの属性は物の組成を司る“土”・・・・・・まるで始祖が予め定めていたかのように、適切だった。そしてそれが、かえってエレオノールの人生から余裕を奪っていった。

 “これは自分にしか、出来ないことだ”

 “自分しか、妹を助けてあげられる者はいない”

 月日が流れるにつれその考えは自分の中に染み渡っていき、妹を助けたいという純粋な思いは“責任”“使命”といった重苦しい物になり、自分の心を削り狭めていった。その上たとえ名門ヴァリエールの名があろうとも“魔法研究所”の設備を、個人の目的のためだけに使うなんてことは許されるわけがない。当然建前としての目的である“美しい聖像の作成”についても、相応の成果を出し続けなければならない。休む暇なんて、どこにも無かった。

 ・・・・・・必死に学び、努力を重ねる自分の目の前で、遊び呆けてくっついていく学友が妬ましく感じるようになった。その気持ちは魔法研究所に入った後、仕事を同じくする同僚に対しても引きずっていた。

 勘の鋭いカトレアに心中を悟られぬよう、わざとらしく零していた愚痴も、気付けば言わないとイライラして眠れない体質になっていた。

歳の離れたルイズにすらも、辛く当たってしまう自分。尖りきってしまっていた性格は治そうにも手遅れで、誰かと結ばれるなんてことはとうに諦めていた。

 ・・・・・・しかし人間一度手に入った大事なものを手放すと、そこに生まれるのは諦めではなく、未練や執着である。お見合いでバーガンディ伯爵と出会い、恋を知り別れてからは、自分の言動は一層苛烈になり、親しい友を除き、誰も彼もが自分と距離を取りたがった。

 ・・・・・・そう考えると、少し。本当に少しではあるが、マリコルヌは自分の心を解きほぐしてくれていたようにエレオノールは感じていた。愚痴や軽口なんて叩けるのなんて“魔法研究所”の同僚だったヴェレリーくらいだったし、彼女だって聞き流すだけで、まともに取り合ってはくれなかった。・・・・・・バーガンディ伯爵だって、会う度に眉間の皺を少しずつ増やしていたのに・・・・・・。

 きっと初めて、だったのだ。あれほどまでに自分を受け入れられたのは。・・・・・・お世辞にも良いとはいえない性格ではあったが、その代わりに自分の口から零れてしまう毒を、嬉々としてあの少年は呑みこんでくれた。

 「・・・・・・子供の恋愛、ねぇ・・・・・・、ほんと、わたしの方が子供じゃない・・・・・・」

 魔法研究所の豊富な薬品や貴重な材料がなければ、研究など夢のまた夢。異端のレッテルを張られ、追い出された自分に一体どうしろと言うのか。

 ・・・・・・一度目を通したのだ、これ以上読んでいると気分が沈む。エレオノールは手紙をゴミ箱へと放り、眠ることにした。

 ・・・・・・もうストレスが溜まっても、それを吐き出せる相手はいないのだから。


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