第6話 人魚姫の涙

 乙姫おとひめ 梨空リア視点。

 



 好きな人を思い、見上げる空はなんて美しいことでしょう。


 元人魚姫だった私は、学校から帰宅された照菜様に連れられ、とある公園のベンチに腰かけています。周りには砂場、ブランコ、などがあり約十五メートル四方の小さな公園です。


 隣に座る照菜様を尻目に、私は先ほどから青空を見上げ恋愛という感情に思い馳せております。


 あの方……照斗様に地上に連れ出されもう三日。これほどまでに心色づく感情を人を今まで心に持ったことがありませんでした。乙姫おとひめ 梨空りあの世界はもう照斗様の色でこんなにも鮮やかに……まるでこの晴天の空のように深く深く染め上げられているのです。


 私はさらに思います。こんな気持ちは決して海では味わえなかったと。そして好きという感情はある日いきなりやってくるのだと。染まらない日常にあなた様は虹をお掛けになったのだと。


 「おーい。さっきからポカンと空ばっかり見てるね」


 ふいをつかれたように。私は隣から聞こえる照菜様の優しいお声にお返しする言葉を考えます。日野家の御三方、、それにその、皆様総じてお優しいので私も温かな言葉をつむいでいきたいのです。


 「はい。空は海にいる頃から好きでしたので」


 「そっか。この三日間、生態研究に付き合ってもらってありがとね。あとでソフトクリーム奢るから」


 あいらしい紅い瞳。華奢な身体。耳が隠れるほどのブロンドヘアー。そしてそれを可愛いという純粋な成分でまとめあげる白と黒のゴスロリ アンド ロリータ。どこからどう見ても照菜様は天使です。特に上目づかいをされるといとしさのあまり心がきゅんと苦しくなります。


 「ありがとうございます。私の生態なんかで良ければ、いくらでもお調べくださいませ……それでなにか私の生態でお分かりになることはございましたか?」


 「えっと。唾液、血液は人間と変わらなかったよ。ただ細胞一つ一つが過酷な海という環境に適応するために細胞変異能力トランスを持っているみたいだね」


 「あの、トランスとはなんですか?」


 「身体の部位を変化させることのできる力って言えばいいかな? 梨空ちゃんは人魚モードと人間モードになることができるでしょ? まさにそれだよ」


 「あぁなるほど。でもそれは人魚のヒレを人間の足にすることや、酸素を取り込むため肺の構造を水中と陸で変えるぐらいです。決して腕を武器化させたりといった芸当はできません」


 ふむふむ、と照菜様は恍惚こうこつな笑みを浮かべます。


 「もうなんかとにかく未知がいっぱいだね。嬉しくなるよ。梨空ちゃんのことを知っていけるのって」


 いえいえ、こちらこそですよ。照菜様のことをこれからいろいろ知れるということはなんと嬉しいことでしょう。私は少し頬に熱を感じると、やはり竜宮城から飛び出したのは正解だとまじまじ実感しました。


 「こちらもいろいろ教えていただけると嬉しいです……できれば、その、照菜様のお兄様、照斗様についても」


 若干、ぎこちなく言ってしまいました。照斗様のことをもっと知りたいという私の気持ちが先走っしまったのです。身体の中が火照るのを感じます。


 「照菜は見ての通りただの魔女っ子中学生だよ。それより、その、自分の兄様に対して自惚うぬぼれるわけではないんだけど、もしかして兄様のこと好き? 三日間梨空ちゃん見てて明らかにそう感じるよ」


 急速に心拍を上げていく私の心臓。

 

 どどどどどどどどどうしましょう。好じゃないです。大好きです……照斗様の妹である照菜様にこれを伝えていいものなのでしょうか? 複雑な感情を生んでしまわないでしょうか。そもそも人魚と人間は種族が違います。敬遠されたらどうしましょう。いえいえ日野家の方々はみなさん種族差別をするような人ではありません。断じてです。ってなにをどうしたいんですか、私。パニックです。今すごくパニックです。


 処理できないほどの情報が頭の中を駆け巡って、考えるのをやめました。だから直感を舌に乗せ言います。


 「……それはもう深く深くおしたいしています。」


 口走った途端、ポンっとエネルギーが天へと抜けていきました。なぜだか変な解放感もあります。身体全体がポカポカしているのも妙に心地いいです。


 照菜様は驚いた様子も見せず私の言葉に微笑を掲げました。


 「そうかぁ。兄様もすみに置けないね。今度からど真ん中に置かなきゃ」


 「照菜様、その、照斗様に言わないでくださいませ」


 ニヤリと、どこかイタズラな視線が私を射抜き、私は蛇に睨まれた蛙のようにたじろぎが止まりません。


 「じゃあ制約が必要だね。ただで黙ってるなんでできないよ」


 ドキっとし、照菜様の一挙手一投足いっきょしゅいっとうそくを目で鮮明に追う私。


 「その……制約とはなんでしょうか?」


 ニッコリと照菜様は嬉笑します。その笑顔はとても愛らしいのですが、その裏に……いえ、照菜様に限りそんなことは決してありません。


 「兄様のどこが好きになったか、今教えること」


 もう頬が熱い。熱すぎます。

 

 照斗様を好きになった理由。それは星の数ほどありますが、言葉に変換するとなると難しいものです。そしてなにより恥ずかしい。私はたった一言を言うために小さく息を吸い込み、全身の緊張を取り払いました。きっと私は今、でられたタコみたいに耳まで真っ赤なのでしょう。耳まで熱いです。


 「初めは正直、見た目に一目惚れでした。ここまでの感情なら恋人にしたいほどの好意はありませんでした。ですが、照斗様に洗脳魔法を受けていた時、彼の優しさを垣間みたのです。それはもちろん、私にではなく、照菜様と唯花様に注がれたものでしたがそれだけで十分優しい方というのは分かりました。それに照菜様のお言葉に恐がっていた照斗様も可愛いと思えたのです。ホームスティの件を自身のお父様に理由を説明してくれたのも照斗様です。唯花様と仲良くしたいという私の気持ちにも気付き、そのことについても静かに聞いてくれました。……とにかく今は確かに思っています、これが恋なのだと」


 ポッ、と照菜様の頬がほのかなピンクに染まっていきます。他人をもはずかしめる恋のシナリオを語った私は被害甚大。羽があったなら今頃、どこか遠くへ羽ばたいてることでしょう。


 「ちょ……照菜なにを言ったらいいかな?……なんか熱いね、夏は」


 照菜様は視線をこちらに向けてくれません。私もフリルスカートの丈を握りしめ下に目線を置くのがやっとです。この空気のなんていじらしいことでしょう。静かな日本庭園みたいな時間がしばし続いていきます。


 二十秒ほどして。無言、というなの呪いを霧散むさんさせるため、私は突拍子もなく重い口を開きました。


 「その……照菜様。いいでしょうか?」


 照菜様は咄嗟とっさにお顔をこちらに向けます。

 

 「ん? なにがかな?」


 「妹という立場から、その、了承といいますか……」

 

 「あぁ、兄様を恋人にしたいのなら照菜は全く反対しないよ。むしろ梨空ちゃんが兄様とそういう関係になることは嬉しい限りだよ。この三日間、照菜だって梨空ちゃんから感じてるものがあるんだよ。それは目に見えない愛情というか、なんていうか、とにかくほのかに暖かいものだったから。それに梨空ちゃんを好きになるかどうかは兄様の決めること。照菜が決めることじゃないじゃん」


 それはただただ嬉しい言葉でした。人魚姫でいた頃の私は誰にも本当のことを言えぬ道化でした。ただその場限りの作り笑いを用い、場を収めるだけの哀れなものでした。その様はまるで自分の身体全体を見えない糸で括りつけられ、言いたいことは言えず、なりたいものにはなれず、他者にどう見えているかだけを考える操り人形そのものでした。ですが、でも、今は……


 「梨空ちゃん! どうしたの! 泣かないで」


 ふいに涙した私を抱擁ほうようしてくれる隣人がいます。好きになった人がいます。仲良くしたい人がいます。優しさを返したくなる気持ちもあります。一歩一歩進んでいきたいという意志もあります。それに生きた心もあります。


 「いえ、その、すいません。もうなんだがおかしいですね。照れてみたり、急に泣いてみたり、頭おかしいとか思っちゃいますよね」


 泣き混じりの私の声に呼応するかのように、柔らかな手が私の背中をさすり、耳もとで聞こえる暖かい陽だまりの声。


 「照菜もね。泣き虫だからたまに兄様の背中で泣いてるよ。だからね、そのね、なにか泣けるだけの理由が梨空ちゃんにあるのはすごくいいと思う。それに特権なんだよ」


 私はこの時、照菜様の言葉と背中に当てられた小さな手のひらで、強張った背中がじんわりと柔らかくなっていくのを感じました。それはまるで冬の凍てつきが春の暖かさに消えていくような。


 「……特権ですか?」


 照菜様は耳もとから顔を少し離すと、微笑み高らかに私の頭をふわふわと撫で回し、ハキハキと活発さ溢れる口調で言います。


 「うん、涙は乙女の特権なの。むしろ乙女のために涙はあるんだよ」

 

 「乙女……なれていますか?」


 「もちろん。なにかに夢中になる女の子はみんな乙女だよ。ちなみに私も魔術研究がんばってるから乙女ね」


 あどけなさが残るその笑みで、私の涙に理由があると答えてくれた照菜様が愛おしい。どうにか力になりたい。恩返しがしたい。


 私は頬に垂れた涙を風に乾かせ、照菜様からもらった感情をまぶたの裏に強く念じます。特別な二粒の涙を作るために。


 「照菜様。この感情をくれたこと、そのお礼を」


 人魚の涙玉るいぎょく。それはまぶたから放たれた途端に液体から凝固し透明なガラス玉のようになります。私は左右の目からこぼれ落ちる涙玉るいぎょく両掌りょうてのひらを重ね作った手盆に落とし照菜様に渡します。


 「これは?」


 食いつくように右手にある二つの涙を見つめる照菜様。そのお顔は未知への探究心で恍惚こうこつな笑みを浮かべています。


 「人魚の涙玉です。照菜様からもらった感情で作ることができました。魔術研究のかてにしてください」


 興奮を隠しきれない照菜様は右手の涙玉を軽く握りしめ、再び私を強く抱擁ほうようしました。


 「もう、マジで大好きだよ。ほんとにありがと」


 「はい、私も照菜様が大好きですよ」


 世界で一番目に幸せな時が照斗様と両思いになることならば、世界で二番目に幸せな瞬間は照菜様に大好きと言われることなのかもしれません。







〜〜今日の会話結果〜〜

照菜様を抱き枕にして眠りたい。

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