伍ノ十二、俺の妹が、そんなおぞましい奇声をあげるはずがない
「無事か、綺乃ッ!」
兵之進は、うずくまる綺乃の傍らに駆け寄った。
手にした妖刀が、灼熱の溶岩を写し込んだ。血脂を塗り伸ばしたように照り映える。
綺乃は檻の格子にしがみついて動かない。
溶岩の飛沫が降りかかる。骨の檻の床から火の手が上がった。刺激臭混じりの煙が吹き流れる。
檻を吊り下げる滑車が、めき、と軋んだ音を立てた。
部品が砕けでもしたか。支えを失った鎖が、ガラガラと滑り落ちるように伸びた。二本ある鎖の一本が、限界ぎりぎりまで伸びきる。
擦り切れたような、けたたましい金属音が空気を揺るがす。
檻全体が右に左に揺れた。鎖の一本が吹き飛ぶ。檻が大きく斜めに傾いだ。どこかが致命的にへし折れたらしい音が、振動とともに伝わる。
「綺乃、もう大丈夫だ。すぐにそこから出してやるからな」
兵之進は、朱墨のにじんだ絵を握ったままの綺乃の手首をぐいと掴んだ。
左右をうかがい、背後を見返る体勢のまま、手を引く。
掴んだ手が、やけにやわらかく、白く、ヌルリと滑る。死蝋のようだった。
指先がひやりと絡みつく。
「行くぞ、綺乃」
かまわず、手を引いて走り出す。
「しっかり掴まってろ。飛ぶぞ」
檻の縁で立ち止まり、力を入れて引き寄せる。綺乃の手の中の絵が、まるで悲鳴ごと握り潰されたかのように、ぐしゃりと折り畳まれた。
「ええ、にいさま」
綺乃は──鬼乃は、うっすらと口元をほころばせた。
はっとするほど白い、とがった牙がのぞいた。
刃に写り込んだ血の笑みが、したたるしずくのように弾ける。
手にした真紅の風車が、ふいに猛然と空回った。
風車が、変形する。手が、どろりと溶けた。
ぽたり、ぽたり、と。血琴のしずくのしたたり落ちる幻聴が響く。
回る風車と手とが、血色の大理石模様となってどろどろと混じり合い、回転する刃となって、火花を吹き散らす。
鬼乃は、油断して背を向けたままの兵之進の首めがけて、真っ赤な血の花めく巨大な爪を振り上げた。
「必ず、綺乃を助けに来てくださると信じておりま……」
容赦なく突き立て、引き裂く。
血飛沫が飛んだ。
「……したワギャァァアアアアアーーッ!」
「耳許で喚くな。やかましい」
兵之進は、絶叫をあげる鬼の腕を、肘からすぱりと斬り落とした。
手だけを持って、檻の床を蹴る。
反動で、骨の檻が激しく前後に揺れ動いた。
「ァァァァァァ落ちるゥゥゥゥ!!」
鬼乃は、反対側に振り放され、よろめいた。
兵之進はかるがると巨岩へと取り付いた。
妖刀をくわえ、岩の足場をジグザグに飛ぶ。
ふわりと頂上に着地。振り返る。
「……俺の妹が、そんなおぞましい奇声をあげるはずがない」
軽蔑のまなざしで吐き捨てた。
「大丈夫か、綺乃」
おもむろにけろりと態度を変え、斬り飛ばした手の指を強引に開く。
くしゃくしゃに握りつぶされた絵を取り出し、押し延べる。未だに動き続ける腕は、そのまま、崖の下へポイ捨てした。
絵の中の綺乃が、わたわたとこちらに向かって、四つん這いでにじり寄ってきた。
(あいたた、あっあっ、綺乃さん! じゃなくて僕? じゃなくて、え、えっと……? っていうか僕、いま、どこにいるんです? ここから出られないんですけど?)
「
兵之進は、ふっと鼻先で軽くいなす。
絵の中の綺乃が青ざめた。
(まっ……まくらええええーーっ!? ささささ最悪じゃないですかーーっ!)
鬼乃は、凶悪な美しい贋作の顔をゆがめた。
「そいつを寄越せ。鬼の血を満たすうつわの分際で、我が現し身たる妖刀を使おうなどとは猪口才な」
ちぎれた腕から、ボタボタと法外すぎる紫の血が流れ落ちている。
「綺乃は無事か」
妖刀墨切を手に、恋町が駆け寄ってきた。髪の毛ひとすじ、息ひとつ乱してはおらぬ。どうやら、秀清のほうは早々に片がついたらしい。
(あーっ恋町さん!? すみませんホント、あの、僕のせいでこんな……ふぐぅっ!?)
「静かにしてろ」
兵之進は、やや強引に絵を畳んで、懐へと押し込んだ。口端をへの字にゆがめ、吊り上げる。
「……どうやら取り憑く相手を、俺と綺乃とで間違ったようだな。世の中、何が幸いするか分からんね」
「だが、もし、あれを倒せば……兵之進、
恋町の顔色は冴えない。兵之進はすばやく目配せでさえぎった。
荒々しく笑う。
「是非には及ばん。綺乃さえ取り戻せりゃあ、それでいい」
兵之進が手にする《古骨光月》の刀身が、朧銀の青みを帯びてまたたいた。
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