伍ノ七、鬼乃姫招来
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兄を、喰らった……?
ドク、と。
心臓が竦み上がる。
身体が動かない。
嘘だ、と言おうとして綺乃は何度も喉をえずかせた。
拳を作り、吐き気をこらえる。
「ッ……!」
口を押さえる。悲鳴がこぼれ出しそうな気がした。悲鳴とは別の、重苦しい、違う何かと同時に。
ドク、ドク、ドク、ドク、心臓の鼓動に呼応して、もう一つ、心音が聞こえる。
最初は小さかった。だが、すぐに、手のつけられない衝動が体内で膨張し鎌首をもたげてうごめき始める。
息が荒く乱れた。
悪寒が込み上げる。今すぐ吐き出したかった。身体の中にとどめきれない熱量が渦巻いている。
どんなに息を吸っても、胃の腑の底に暴虐の熱が巣食っているせいで空気が入ってこない。
苦しい。押さえきれない。破裂しそうだ。
身体の中に、自分ではない
およねが血の気の失せた蒼白の顔で立ちすくむ。
「きの先生……」
「下がってろ。近づくな」
制止したつもりだった。だが聞こえるのはもはや、ガラガラに音割れした獣の唸り声だ。
「クォラァァァーー何やってるですか御桜綺乃ォーーッ! 赤児を泣かし、弱きをくじき、人非の悪道に堕ちたる魔人怪人を成敗せぬとは、それでも刀剣乙女の端くれかーーっ!」
お蘭が甲高い声で喚き散らした。ぐるぐる簀巻に縛られ、天井から吊るされて、身動きひとつとれぬ状態のくせに相変わらず減らず口ばかりがやかましい。
秀清は、赤い霧を漂わせる妖刀をユラリと振った。暖簾をかいくぐる気安い仕草で、腰をかがめる。骨の檻の柱が一本、飴細工のようにクニャリと曲がった。
「煩いミノムシですね」
腐敗して黒く変色した顔のそこかしこに、
その
「消えてください」
簀巻が、縦横十文字に細断された。朱墨が法外にほとばしり出る。鈍い水音をたてて転がる簀巻の中から、四つに斬り刻まれたお蘭が──
「ギャアアお蘭はもうダメでごちゃりまちゅるぅうぅうーーー」
「ミャアアお蘭はもうダメでおぢゃりまぢゅるぅうぅうーーー」
「グギャアお蘭はもうダメでごじゃりまじゅるぅうぅうーーー」
「ピャアアお蘭はもうダメでおじゃりまじゅるぅうぅうーーー」
もとい。
四等分されたちびお蘭が、目にも止まらぬ速度で飛び出してきた。骨の檻の中を縦横無尽に走り回る。
うちの一人が、およねにぶつかった。ぼふ、とピンクの煙をあげて消滅する。
「きゃっ!? えっ!? 何っ!?」
およねと赤ん坊たちの声が、煙に飲み込まれる。
綺乃に向かって突進してきたちびお蘭その二は、無情にも秀清が蹴っ飛ばして排除した。破裂して煙幕となり立ち消える。
秀清は、
「余計に煩わしくなりましたね……これはしたり」
濃厚な血と
「邪魔です」
逆手に持ち、床に突き立てた。横にかっさばく。
骨の檻の床が、ドロリと溶けた。
「床が……!」
およねは悲鳴を上げて逃げようとした。ぬかるみとなった床に足を滑らせる。転倒した。白い泥の泡飛沫が跳ねる。
衝撃で身体が深く沈んだ。みるみる床が形を失い、溶けてゆく。
掴もうとした縁がグチャリとつぶれる。
手がむなしく空を掻いた。
「ぁっ……!」
落ちる。
「危ないでござりまするッ!」
二頭身のお蘭が、およねめがけて次々に飛び込んだ。小さな手を順繰りにはっしとつなぎ合わせ、およねの手首を掴む。
すんでのところで、何とか食い止める。骨の檻が全体が激しく横揺れした。
手繰り寄せ、引き上げる。
「やだ、もう、やだ、助けて、何で、こんな……!」
泣きじゃくるおよねの周りを守るようにして、二頭身のお蘭が三人、両手を広げて立ちふさがった。きっと唇を引き結び、秀清を睨みつける。手にはそれぞれ、小さな
ちびお蘭は、口々に合唱した。
「少女を泣かすとは卑怯なり目玉怪人メダマーン!」
「少女を泣かすとは卑怯なり死出蟲怪人シデムジーン!」
「少女を泣かすとは卑怯なり女の敵怪人ヒトデナーシ!」
秀清は細い眉を吊り上げた。せせら笑う。
「どうやら、その珍妙な見てくれにだまされていたようですね。少々、みくびっていました。いやはや、これは驚きだ」
「黙れ目玉怪人メダマーン!」
「恥を知れ死出蟲怪人シデムジーン!」
「悪霊退散女の敵怪人ヒトデナーシ!」
「まさか、この世にまだ未知の妖刀と使い手が存在していたとは。面白い。実に、面白いですね」
秀清は、肩を震わせて笑った。
「いいでしょう。後ほどその刀子も手前がいただくことにします」
「お蘭……ちゃん……」
綺乃は、眼をかたくつぶったまま、ガラガラの声を絞り出した。
息を荒くし、口を押さえ、片手を床について突っ伏す。
「……て……いいから……はやく、子供たちを……連れ……逃げ……」
喉元にまでこみ上げてくるおぞましい劣情の濁流を、必死に飲み下す。そうでもしないと、臓物ごと身体の中身と外見とが、今にも全部裏返ってしまいそうだった。
もし、一度でも、それに身を任してしまえば、きっと、また。
別の何かに、
ちびお蘭たちが、奮起を促して拳を突き上げる。
「コラーー甘えるなでござりまする御桜綺乃ォーーッッ!」
「コラーーその刀はなまくらか! でござりまする御桜綺乃ォーーッッ!」
「オラーーお蘭の恋のライバルならば、キッチリ! おのれの不始末に片をつけろでありまする御桜綺乃ォーーッッ!」
きぃきぃ喚いている。
綺乃は俯いて顔を伏せた。耐え難く咳き込む。床に赤黒いものが飛び散った。蟲だ。顎をこすり合わせてギジギジギジと鳴く。
とっさに短刀を突き刺して潰した。刀を握る手の甲で、汚れた口元を粗雑にぬぐう。
「あれほど」
こぼれた息が、ひどく生臭かった。血の匂いと、ヒトガタめいた泥の臭いとが混じっている。頭の中がグラグラとして、自分が、何を言おうとしているのか分からなくなった。
「何度も」
乱れ髪の下から目線だけを横に走らせる。お蘭を睨む眼に、紅く、鬼火が燃え移った。
お蘭が、ぎょっとした顔をこわばらせる。
「言ったのに」
眼が血の色に染まる。
綺乃は、握りしめていた懐刀を逆手に持ち、絶叫を放った。
「聞こえなかったのかァアアアアアッ!」
およねめがけ、髪を振り乱し、けだものめいた咆哮を引きずって襲いかかる。
「血迷うたか御桜綺乃ッ!」
ちびお蘭の一人が、小さな
綺乃は煙を振り払い、柱一本でぶら下がる床を蹴った。半狂乱の怒号をあげる。
「あれほど何度も何度も何度も何度も何度も何度も逃げろと! 逃げろと! 逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろにげろニゲロニゲロアアアアアア……!!!」
残る二体のちびお蘭が、即座に身をひるがえした。およねの手を両側から掴み、容赦なく引きずる。
そのまま、切り立つ巨岩の頂点から、何も見えない赤い地平に向かって身を躍らせた。
石のように落下してゆく。
「きゃあああっ……!」
およねの長い悲鳴が、赤い空を切り裂いて響き渡った。
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