伍ノ二、なんてダサい術の名

 ひとしきり笑ってから、秀清は面をわずかに浮かせ、目元の笑い涙をぬぐった。口元に籠絡の笑みをたたえて、綺乃を見返す。


「あれを見てくださいな、鬼乃さま」

 しなやかな手つきで眼下を指し示す。


「まるで、蟻みたいだと思いませんか。気持ちの悪い、真っ黒い、地面を這うしか能のない愚かしくちいさなものが、美しい揚羽蝶の死骸にうじゃうじゃと寄ってたかって。死してなお妙なるものをおこがましくも性急に細裂いて、ばらばらにして、ただ喰らうためだけに運んでいく」


 丹の鞘を帯へと落とし差して、スラリと赤い刃を抜きはだける。ぬめるような肉の艶が反射した。

 刀柄を握る手の隙間から、赤い霧が漂い出る。

「たとえどんな醜い姿に腐れ果てようとも、滅びゆく美しさをこそ愛おしむ。それこそが究極の愛のかたちと言えるでしょうにね」

 答えられずにいる綺乃に、平然と笑いかける。


 秀清は、筆を走らせるのと同じ仕草で、妖刀を踊らせた。

 切っ先から朱墨が走る。

 床に散らばっていた絵が、瞬時に


 赤い月影の射す檻に閉じ込められ、眼を閉じて力なく格子にもたれかかる綺乃の姿を写し取った絵。

 それが。


 しどけなく小袖を脱ぎ捨て、人の皮を脱ぎ捨て、一糸まとわぬおぞましい姿となって。

 動き出す。


 姿形は綺乃と同じ、全身、死蝋のような真っ白のヒトガタが。

 白い手を、白い肌を、白い髪を、白い尻肉を、白い内腿を、恥ずかしげもなく晒して。

 絵の中から、現実へと。這い出してくる。


 背後のおよねが、ひっ、と息を凍らせた。すがりついてくる。背中にしょった赤ん坊たちが目を覚ました。ぐずり始める。


 ふいに突風が吹いた。

 足元の絵が風に舞い立てられる。

 落ち葉のように隅へと吹き寄せられ、無数の紙吹雪となって。

 はるか闇へと降り落ちてゆく。

 舞い散る紙吹雪を追いかけて、綺乃のかたちをしたヒトガタの群れもまた、次々に飛び降りて姿を消す。

 綺乃は、絵の行方を眼だけで追いかけた。歯を食いしばる。


「なに、昼間お見せした花魁の絵と同じですよ。絵に描いたものを現実に書き換える仕掛けで。《鬼換きがえ》なんてダサい術の名は、格好悪いのであえて言いませんけどね。まったくこうやって言い訳するのもお恥ずかしい限り」


「いちいち話が長い。何のために、俺をんだ」

 低く凄む。


「何のためって、ハハッ、もうやめましょうよ、入れ替わっていないフリをするのは。今さらとぼけられても困りますよ。もし、貴女が、姿形はどうあれ本物のなら、手前の顔を見ただけで即、バラしに来るはずですからねえ?」

 秀清は百眼ひゃくまなこの面を手に取った。ゆっくりとずらしてゆく。赤い月に照らされた面の下に、うすぐらく光る眼があった。面の落とす陰影が、ひどく、濃く、暗い。


「生き長らえるためには、もっと血が要る、死んだ鬼の血だけではとうてい足りない。本当は、貴女にもそれが分かっていたはずです。兵之進が持ち帰る《死に血》だけでは、飲めば飲むほど余計に喉が渇く。いたずらにヒリヒリと焼けつくばかり。なのに、与えられるのは一日にほんの一粒、たったそれだけの血のしずくだ。最初は良くても、いずれ効かなくなる。一時の悦楽に身を任せるだけの酔いが醒めれば、さらにもっと、もっと、もっと欲しくて、欲しくてたまらなくなる。どくどくと熱く流れる《生き血》を、浴びるように飲み干したくなる。……ですよね?」


 面の下に隠れていた顔は、昼間見た優男の顔ではなかった。


「貴女は知らなくとも、貴女の中にいる本物の貴女は覚えているはずです」

 頬から首筋にかけて、どす黒いまだらの痣が広がっている。

 それは、決して、赤い月の影のせいだけではない。

「まだ、思い出せませんか、あの夜のことを……貴女が喰らったのは、いったい、誰の血だったのか」


 秀清が足を踏み出すたびに、何かがびしゃりとこぼれて、足元に広がった。濡れた泥の跡が、死体袋を引きずったように黒ずんで引き延ばされる。

 ずるり。

 びしゃり。

 ちぎれた頬の肉が、ぼとり、とさらに剥がれて落ちる。

 髑髏の骨が剥き出して見えた。こぼれた泥の中に、血の色をした糸蚯蚓が湧いている。


 息が詰まった。

 背中から腰まで、氷を飲まされたような寒気が流れくだる。

 およねが悲鳴を上げた。綺乃にしがみついてくる。背中の赤ん坊たちも、火がついたように泣き始めた。


 懐刀を握りしめた手が、抑えきれず小刻みに震えた。歯がカチカチと鳴る。止まらない。


「手前の顔を引きちぎったその御姿が、どれほど神々しく、また、いみじくも凄まじき美しさであったことか。もう一度、あの夜の貴女に逢いたい。逢って再び、百花繚乱の死を、血みどろの微笑みを、月紅に乱れ咲く桜を、本当の貴女を見たい。そして、今度こそこの眼に焼き付けたい。描きたいのです。ねえ、お願いです……もう一度、あの時のように、無残に、甘美に、快楽と欲望の絶頂に突きあげられるがままにおのが兄の、兵之進の血肉を貪り喰らった貴女の姿を、見せて……ねえ、見せてくださいよ……!」


 半ば崩れ、ずり落ちた秀清の顔半分は、昼間、見たあやかしのむくろと同じ。

 泥と、腐肉と、真っ赤な蚯蚓が絨毛のようにうねるヒトガタの泥に変わっていた。

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