弍ノ三、さて困った
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「お調べがあるまで、大人しくしてろい!」
背後で粗暴な怒鳴り声がした。頭から牢屋に蹴り込まれる。格子戸が騒々しく閉じられた。
くぐり戸の隙間か、岩の裂け目か。いずれにしても、心もとなく射し込む間接光の反射だけが、濡れた石牢の床面を昏く光らせている。
滴る水の音が冷たい。
「さて困った」
遊郭で出されるかのような真っ赤な丹前に、黒八丈の着流し。酒徳利を縄で腰にくくりつけてぶら下げ、銀ギセルと竹筆二本をぞんざいに腰へ差す、やさぐれた風体。
「やれやれ、まさかこの俺様が捕まっちまうとはなァ」
ろくに月代も剃っていない、ぼさぼさの頭を掻く。
すねを丸出しにして、膝を立て。欠伸混じりの、気の抜けた声でひとりごちる。
「ま、しばらく様子を見るかなァ……ん? んんー?」
さんざんぶん殴られたあざだらけの顔を手でさすりながら、はだけた懐に手を突っ込む。
腰帯を叩く。首を傾げ、袖の下を探る。
「ない。ない。あれっ? ねえぞ、俺の矢立。どこやった?」
あちこち探し回っても、ないものはない。完全に失念していたと分かり、恋町はがっくりと両手を床についた。
「あああスカタンすぎる! 完全にド忘れしてんじゃねえかよ! 武士の魂を役宅に忘れて来るとかもう、今すぐ腹ァかっさばいて死ぬしかねえわ……あっ、死んで詫びるにも脇差もないとか。もうないわー俺、全然ないわー……」
と、そこまで一人で騒いでから、やおら真面目な顔に戻り、徳利の木栓を引っこ抜いた。揺すってみる。ちゃぷちゃぷ揺れる音がした。
「よしよし、酒はあるな。あとはつまみのするめでも……って、呑気に酒呑んでる場合じゃねえや」
それでもとりあえずはぐびりと一杯かっ喰らい、ぷはあ、と満足の息をつく。
「しょうがねえなあ。酒でいいや。拙宗等楊の習いに従ってメソメソしながらでも絵は描ける、と」
ちなみに、牢屋へ放り込まれるに至った経緯であるが、語れば長くなるので手短に述べると、
一、自分の絵を勝手に使われて頭にきた
二、あちこち嗅ぎ回っていると
三、ちょっぴり暴れちゃった (たまたま出くわした同心を殴っちゃった)
四、今ここ
以上、
「よって、この後の選択肢は、脱出、あるいは、酒呑んで寝る。の二つなわけだが」
恋町は、酒臭い鼻息をふんと吐いた。
「酔っ払って寝てるところを、ひよ……ならまだしも、
足元の泥をすくって、酒の壺を眺め。名残惜しげに見比べて。
最後に口いっぱい酒を含んでから、やおら徳利に土を練り込んだ。威勢良く振り混ぜる。
「ぐうう俺の酒が……!」
血の涙を流しつつ、竹筆を徳利に突っ込んで、格子戸に塗りつける。
黒い霧が手元から立ちのぼった。墨代わりの泥酒が塗り込まれた部分が、何もない
「乾くの早ぇな、色
手早く塗り終えるや。
墨塗りで囲んだ部分を、力任せに横蹴りの踵で蹴っ飛ばした。
格子戸は、墨塗りの部分で綺麗にくり抜かれ、錠前ごと吹っ飛んだ。対面の壁にぶち当たる。
「はいはい御勤めご苦労さん、っと」
割れた格子戸を踏んづけてまたぎ、悠然と檻の外へと出る。
向かいの格子から、発情した猿みたいな叫び声が上がった。格子戸が激しく揺すぶられる。
「おい! この大まごつきめが、牢名主様を差し置いて、何を勝手に一人で脱獄してやがる! 無頼な真似をしやがって、おいコラテメエ聞いてんのか! こっちも出せ!」
何本もの手が、闇の中、亡者の歯ぎしりにも似て虚空を掻きむしった。襟首を掴まれそうになって、恋町はひょいと飛び退く。
「誰が悪党どもをシャバに出してなどやるものか、へっへーんだ、ばーかばーか、おまえのとうちゃんでーべそー」
格子に顔を押し付けた男が、必死の形相で手を振り回す。
「うっせぇ磔っつけてぶっコロスぞ! こっちも出しやがれ!」
手が何本も伸びてくる。恋町はわざと指先すれすれのところを、ふらふら歩いた。横目で檻を見やる。
闇に近い牢屋の一番奥まったあたり、腐った畳を積み上げた一段高いところに、しどけない格好をした何かが座っていた。
肩肌を脱いだ、半裸の女。異様に生白い内股の肌色が目につく。
「アンタ、いい度胸だねェ……それにずいぶんと」
女は、チロリと舌を出して下唇を舐めずった。恋町の上から下までを、潤んだ目でねぶるように見やる。
「お兄さん、こっちに来てさ、ちょっとだけ気持ちいいこと……ヤッてかない……?」
胸元がはだけた。むっちりと盛り上がった白い肉が揺れる。
女が背にした石壁は、妙にぬらぬらとテカリを帯びていた。
恋町は鼻の先でふんと笑った。
「バケモノは遠慮しとくよ」
罪人どもが、またぎゃあぎゃあと檻にしがみついてどよめいた。
「何だとおいコラテメエ、ごろつきのくせしゃあがって恐れ多くも牢名主様に向かって……ああっ牢名主様そんなに怒らないで、あっあっ、そんなところ、アッーーーー……!!!」
何やらどかばきぐしゃと砕ける音がしたような気もしたが堂々と無視。前へと進む。
どことなく黴臭く、湿った臭いがした。藻が生えてでもいるのか、足下が妙にぬるぬるとぬめる。ひどく歩きづらい。
注意して石段を登る。天井の出口から、戸の四角い形に光が漏れていた。
「地下にあんな化け物を飼ってるとか、何なんだよここは」
出口の落とし戸を持ち上げる。ギィ、と錆びた音がした。ほんの少しだけ開けて、周りを見回す。
誰もいない。
「お食事中は見張りもいねえ、ってか。ガバガバだな……ん?」
雨が屋根を叩く、瀑布にも近い音が聞こえた。次いで閃光。轟音。地面が揺れる。
むっとする雨水の臭いが強まった。加えて土の臭い。草のちぎれた臭い。それから。
「やけに……嫌な臭いがしやがる」
親指の腹で、鼻をこすり上げる。
頭に落とし戸を乗っけたまま、鋭い視線を左右へ走らせた。舌打ちする。
「とにかく、まずは道場に戻らねえと。
いきなり足首に何かが絡みついた。万力のような力でねじ伏せられる。
「っ!」
耐えきれず、足を滑らせた。
狭い石段の最上段から奈落の下まで、一気に引きずり落とされる。
「あああ痛ってぇ! ケツ、ケツ、ケツがもげる! くそっ、何しやがんだテメエ!」
足首からふくらはぎ、腿へとまさぐり上げてくる手を、もう一方の足で、剥ぎ取るようにして強く蹴りつける。
ようやくほどけた手は、屍人めいた蝋の色。
ぬるりとくねる蒼白の指先は、濡れた血の紅。
「ねえ、お兄さん、ちょいと酷いんじゃァないかい、ええ……?」
暗闇の奥で、海に漂う黒い海藻めいたものが、ぬらぬらと波打っていた。
妖艶に揺れる乳房が、白く、目を射る。
「せっかく、死ぬほど気持ちイイことしてあげるって言ってんのにさァ……?」
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