壱ノ十八、武士の品格
蜘蛛女は、腰を抜かしたみつまめ屋の亭主に襲いかかった。
亭主は逃げることもできず、あっさりと糸に絡みつかれた。逆さまに引きずられ、風で泳ぐ《特製みつまめ》と書かれた
もがく手足が、真っ白い蜘蛛の巣で覆われた。
「こっちにもバケモノが……!」
「逃げろ!」
異変に気づいた町人が悲鳴をあげる。
兵之進は一磨をかばいながら、じりじりと後ずさった。
「お漏らししてる場合じゃないです。何としてでもこの男を捕まえて、恋町さんと合流しないと、あっちこっちで大変なことに……」
「武士の品格が、横井家の尊厳が……ごふっ!?」
一磨の足に、蜘蛛女の吐き出した糸が巻きついた。仰向けに、どうっと引き倒される。
「しまった」
足で蹴って押しのけようとするも、粘って取れない。それどころか、もがけばもがくほど糸が全身に巻きつく。
たちところに巨大な木乃伊状の簀巻きができあがった。
ぬかるんだ往来へと無情にも倒れ込む。
「くっ……一生の不覚!」
抗うものの、手も足も出せない。全身ぐるぐる巻きで動けず、水たまりの中でじたばたするばかりだ。
「相変わらず、その大きなお友達は足を引っ張るだけで何の役にも立たないご様子」
「次は貴方ですよ、
「勝手に変な妄想を
兵之進は木乃伊の繭に駆け寄った。
「一磨、動かないで!」
声をかけると同時に、刀を振り上げる。
「ほぇぁっ!?」
木乃伊が硬直する。
構わず、首とおぼしきくびれた部分に、ずぶりと切っ先を突き立てた。
「ひぎゃぁぁぁぁぁぁぁ……」
くぐもった呻きが漏れる。声が出るなら刺さりはしなかったらしい。切っ先を容赦なく縦に走らせ、
蜘蛛の糸がはじけた。強引に切り目へ手を突っ込み、力を入れて押しひらく。繭が割れた。もわあんと変な臭いが漏れ出す。
一磨が這い出てきた。シクシク泣いている。
「すまぬ……今ので……うんこ漏れちゃったでござる……もう……お婿に行けないでござる……!」
兵之進は全力で聞かなかったことにした。武士の情けである。
その間にも、蜘蛛女は次々に糸を放つ。糸は射的の矢のような弾となって降り注ぎ、地面に突き刺さり、四方八方へと跳ね転がった。
かろうじて身を隠した天水桶すら、目の前で粉砕され、水が溢れ出る。
衝撃で転がってきた手桶を、ためしに囮として、往来へと投げ転がした。蜘蛛女は即座に応射。手桶は元の形が分からぬほど木っ端微塵の木屑に変わった。
どうやら、動くものに反応するらしい。兵之進は一磨に目配せした。
「三、二、一、投げろ」
息を合わせ、同時に、それぞれ別の方向へ手桶を投じる。
蜘蛛女は、獲物と勘違いした手桶を執拗に狙い撃った。
手桶は破裂したような音を立てて何度も空中で跳ね返った。ばらばらにぶっ散らばる。
その隙に、往来の反対側に捨ててあった大八車の影へと頭から飛び込んだ。
「逃げてばかりでは話にならんぞ。何か策があるのか」
一磨が息を切らして言う。筋肉質の巨躯から、熱せられた汗が湯気となってもうもうと立ちのぼった。
兵之進は鼻をつまんで振り返った。
「でも、不用意にあの攻撃を受けたらぐるぐる巻きで身動きが取れなくなります。おいそれとは近づけな……うわっ!」
目の前の大八車が矢弾の直撃を受け、横倒しになった。
空転する車輪が外れ、斜めに傾ぐ。積荷の木箱が地面に落ちて、中の壺ががらがらと倒れた。中から粘っこい液体が溢れ出る。水たまりが虹色に反射した。
一瞬、攻撃が止んだ。
「今だ」
後ろを向いてもぞもぞしていた一磨が立ち上がった。
「兵之進、ここは拙者に任せろ」
「どうやって」
「これだ!」
十手に、うんこのついたふんどしを巻きつけたものを鼻先へと突き出す。
稲光が薄暗闇に走った。眼が眩む。雷鳴が轟いた。兵之進は思わず顔をそむける。
「お上から預かった十手に何ということを」
「良いのだ! 拙者にはもう、恐れるものなど何もない! 悪は討つべし!」
逆光の中、懐に可愛い手毬を入れ、
「武士道とは、漏らすことと見つけたり……
一磨は、うんこのついたふんどしを手に握りしめ、野獣のごとき鯨波の雄叫びを放った。
「下郎が……!」
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