第236話 …何しに来たの?今更…

「はあ…なんだかもう…何もかもどうでもよくなってきたわ…」




自分専用として割り当てられている、個室の病室。


その中で、千茅は盛大に陰気な溜息を吐き出し、吐き捨てるかのように今の無気力さを表す言葉を声にする。




デイルームで明洋にさんざん暴言を吐き、侮蔑の言葉をぶつけ続けたあの一件。


その時その場にいた患者達が、全員明洋の味方をし、それまで自分が明洋にしてきたことをそのまま返されるかのように、自分の行為を糾弾されたあの一件。




あれ以来、この病院内で誰とも関わることもなく、ただただ決まった時間に来る診察を受け、味気のない食事を摂る、それだけの単調で変わりばえのない生活を繰り返している。




診察に来る医師にも、千茅が非常に問題のある患者だと言うことを報告されているのか、診察をする度にあの時のような問題行動を起こさないように、といい含められてしまっている。


さらには、食事を運んでくるスタッフにもまるで腫れ物を扱うかのようにされ、会話らしい会話もなく、ただただ食事を運んできて、それが終わった後に食器を回収しにくるだけとなってしまっている。




千茅が強引に事を進めようとしていた、ハイティーン向けのファッションモデルの募集、獲得の件も、結局それに対して動こうとしていたのは千茅だけであり、しかもその千茅自身が過労による入院で身動きが取れないこともあって、その企画自体がお流れのような状態になってしまっている。


社外はもちろんのこと、社内にも敵の多い千茅を支えようとしてくれる存在などおらず、むしろこのままずっと入院してくれていたらいいのに、とまで思われている。




現状、すでに入院してからそれなりの時間が過ぎてしまっており、しかも他の取締役達の反対を押し切って強行に進めようとしていた企画もまるで進展がないこともあり、次の株主総会で現社長である千茅の退任を求める方向で議題を進めようという展開にまで、なり始めている。




この病院に入院してから何もかもがうまくいかない。


自分の思い通りにならないことが非常に気に入らず、何が何でもやりたいようにやろうとする千茅にとって、この状況そのものが本当に苦痛以外の何物でもなく、まるで地獄のようにまで思えてしまっている。


しかも、やりたいようにやろうとすればするほどに、自分にとって悪い方向に事が動いてしまっており、しかも人間関係も今となっては完全に孤立した状態となってしまっている。




「…どうせ…私のことを分かってくれる人なんていないのよ…」




こんなにも苦しいのは、絶対に誰かのせいであり、決して自分のせいなんかじゃない。


絶対、自分のことをこき下ろそうとする誰かがいるに決まっている。


あの脂肪細工なんかより私の方が遥かに優れているのに、この病院の連中はみんなあの豚の味方ばかりする。




そんな鬱屈した思いに、心を支配されている。




どうして、自分がこんなにも苦しいのは、誰にも分かってもらえないのだろう。


自分は今、こんなにも苦しくて辛いのに。




そして、そんな弱い思いも、どんどん心の中で大きくなっていく。




常に自分の好きなことを自分のやりたいようにやり、最終的にそれを仕事にまでしてきた千茅。


常によくも悪くも持ち前のバイタリティとポジティブ精神で目の前の物事に取り組んできた千茅にとって、ここまで何もかもに対して無気力になってしまうのは、人生で初めてのこと。




その精神状態が、過労で入院してきた千茅の体調を一向に回復させず、未だに医師からの退院宣言も出てこない。


それゆえに、治る気のない患者として医師の目に映ってしまっていることもあり、診察の度にお小言をもらってしまっている。




幼少期に両親が離婚してからというもの、親族との関係も絶縁状態となっていた千茅。


あの離婚以来、父親とは会うこともなく、今どうしているのか、そもそも生きているのかすら分からない。


唯一の肉親であり、この世で最も自分を理解してくれていたであろう母親は、もうすでにこの世を去っている。




本質的には人一倍寂しがりやで、常に自分のそばに誰かがいてくれないと駄目であるはずなのに、そのプライドが邪魔して素直に誰かにすがることもできなくなっている。


言いたいことを歯に衣着せず、ずばりと言ってしまうため、自ら敵を作ってしまっている。


ゆえに、その孤独から逃れられない。




自分はもう、死んでしまってもいいのかも知れない。


こんなに苦しくて、辛くて、寂しいのなら、死んでしまった方が楽になれるのかも知れない。


この世には、自分のことを分かってくれる人なんか、いるはずもないのだから。




そんなネガティブな思いが、澄んだ水を汚れに染める汚物のように千茅の心に広がり、蝕んでいく。


千茅の脳裏に、死というものがはっきりと浮かんでくる、まさにその時だった。








「…あの…すみません…失礼します…」








ここ最近、病院のスタッフ以外に誰もよることのなかった病室のドアが、病院の関係者以外の手で開かれる。


そして、その性格を現すかのような控えめで可愛らしい声が、その病室に静かに響く。




「…何…誰…………!!!!!!!!」




もはやどんなことにも無気力、無関心、無感動となってしまっていた千茅の顔に、驚愕の表情が浮かび上がる。


誰からも袖にされている自分の病室に訪れた人物を見て、心の高鳴りが抑えられなくなってしまう。




その人物は、千茅自身が心の底から望んでやまない人物である、高宮 涼羽その人だから。




しかも、自分のことなどまるで知らないと言わんばかりの怜悧冷徹な、能面のような表情ではなく、心の底から患者である自分を気遣うかのような表情を浮かべて。




瞬間、立ち上がって涼羽のそばまで近寄って、涼羽のことを思いっきり抱きしめたくなる衝動に襲われる。


その陰鬱な精神状態に蝕まれている身体に、そうしろと脳が命令を送り出そうとする。


しかし、一度これでもと言わんばかりの拒絶をされてしまっていることが、千茅の本能的な叫びに待ったをかけてしまう。




本当はそんなことしたくないはずなのに、拗ねた子供のようにその思いとは逆の行動をとってしまう。




「……何しに来たの?今更……私のことなんか…知らないんでしょう?……」




今まで、千茅のことなど知らないと言わんばかりの無関心っぷりを見せ付けてきた涼羽に意趣返しと言わんばかりに、今度は千茅が同じような態度をとってしまう。




それだけで、心が苦しいと激しくざわめいてしまう。


その思いと裏腹なことをしてしまう身体が、まるで無理に捻じ曲げられてしまうかのような錯覚に陥ってしまう。




そんな千茅を見て、涼羽は自分のしたことが本当にひどいことだったと、改めて痛感してしまう。


そして、こんな思いを千茅にさせてしまっていたことを、心の底から謝罪したくなる。




「ごめんなさい、鳴宮さん」


「…?え?…」




涼羽のその心からの思いが、涼羽の口から千茅への謝罪の言葉を声にさせる。


その声だけで、涼羽の本当に申し訳ないと思う心が痛いほどに伝わってくる、そんな声。




嫌われるを通り越して、無関心の領域にまで行っていた自分に対して、まさかの涼羽の謝罪の言葉に、千茅は一瞬、何を言われたのか分からなくなり、あっけにとられた声を出すことしかできなかった。




「…僕…あなたが明洋さんにあんなひどいことしてたって知って、もう本当にあなたのことを受け入れられなくなっちゃってたんです…」


「!う…」


「それで、もうあなたのことなんか知らないってなっちゃって…それで、あんな態度をとっちゃってたんです…」


「涼羽ちゃん…」


「でも…その明洋さんが、ずっとあなたのことを気にしてて…」


「!!!!あ、あの男が!?なんで!?…」


「明洋さん…今までずっと自分が人に蔑まれてばっかりだったから…だから…自分が味わってきたような思いを、他の誰にもさせたくないって…言ってたんです…」


「!!!!う、うそ…」


「…僕も…こんな態度とっちゃだめだって思って…でも…感情が言うことを聞いてくれなくて…そんな僕に…明洋さんはあなたに冷たい態度をとらないようにって、言ってくれて…」


「…………」


「それで…今日こうしてここに来て…鳴宮さんが本当に苦しくて、辛そうで…僕のせいでこんなことになってたのかな、って思ったら…本当に申し訳なくて…」


「涼羽ちゃん…」


「本当にごめんなさい…」




涼羽のその懺悔とも言える、ぽつりぽつりと向けられる言葉を聞いて、千茅はただただ、驚きを隠せなかった。


何よりも驚きを隠せなかったのは、明洋がずっと、あんなにもひどいことをしてきた自分のことを気にかけてくれていたこと。


そして、明洋は自身がずっと人から蔑まれてきたからこそ、人にそんな思いをして欲しくないと、ずっと思っていること。




一時はまるで親の敵のように憎悪すら感じ、それをずっとぶつけ続けていた明洋のことが、それまでがまるで嘘のように自分に涼羽と仲がいいことを見せ付ける害虫とは思えなくなってくる。


それどころか、むしろ明洋にそこまでひどいことをしたことに、罪悪感すら覚えてくる。


まだ心のしこりのようなものがあると言えばあるのだが、少なくとも以前までのような憎悪は嘘のように溶けてなくなり、自分と涼羽の関係の構築をやり直すチャンスを与えてくれた、恩人だという思いさえ、芽生えてくる。




そして、自分がやったことを思い返せば、涼羽が自分にしてきた態度は当然だと、自然と思えるようになってくる。


涼羽にとっては、自分をその身を挺して護ってくれた恩人である明洋。


その明洋のことを、あそこまで罵詈雑言を浴びせてしまったのだから。




自分にとっては、この世で一番の理解者であり、本当に大好きだった母親を馬鹿にされるのと同じことを、千茅は涼羽にしてしまっていたのだと、今この場で乾いた砂に水が染み渡るように、素直にそう思うことができた。




そんなひどいことをしてしまった自分に対して、見ているだけでそれが痛いほどに伝わってくるほど、申し訳ないという思いで一杯になってしまっている涼羽を見て、今までの自分がどれほどに人に対して鼻持ちならない、嫌な存在だったのかを本当の意味で、初めて心の底から見返ることができた。




そして、こんな自分に対してそこまで申し訳ないと思い、こうしてその思いを伝えようと、自分のところまで来てくれた涼羽。


その涼羽がこうしてここに来てくれるように言葉をかけ、そしてこんな自分のことを気遣ってくれた明洋。




ずっと孤独だと思っていた自分の心に、何か温かいもので包まれたかのような心地よささえ、感じてしまう。




こみ上げてくるその感情が、形として涼羽に見えてしまうのを拒んで、ついつい涼羽から顔を逸らしてしまう。


そのこみ上げてくるものをこらえるのに精一杯で、それ以上の言葉を、千茅は出せなくなってしまう。




そんな千茅を見て、涼羽はやはり自分のしたことが本当にひどいことだったのだと思い、その心に罪悪感がこみ上げてきてしまう。


これ以上は何も話してくれなさそうな千茅を見て、許してもらえるまでここにこようと心に決め、今日この日はこの場を後にしようと思う。




「…今日、お詫びの気持ちと言うとあれですが…僕が作って持ってきたものです…」


「!!!!………」


「…ここに置いておきます…お口に合うかどうかは分かりませんが、よろしかったら食べてください」


「………」


「…じゃあ、すみませんでした。今日はこれで失礼します…」




自分のベッドの横にあるキャビネットにそっと手荷物として持ってきたお見舞いの品を置くと、ドアの前で一礼して、涼羽は千茅の病室を静かに後にする。




そんな涼羽を寂しそう、名残惜しそうな目で追いながらも、身体は実際に追いかけることができずに、ただただ、涼羽がこの部屋を後にするのを見送った。




「…涼羽ちゃんが…私のために…」




どこにでもありそうな、簡素な作りの手提げ袋を手に取り、その中に入っているものをそっと取り出す。


それは、涼羽の手作りとなるものが詰められたタッパー。


そのタッパーの中に入っているのは、ちらっと見ただけでその出来のよさが伺える肉じゃが。




タッパーから伝わる、その温かい温度が、それが出来たてであることを伝えてくれる。


タッパーから伝わる、その温かい温度が、まるで涼羽の優しさを伝えてくれるかのように思える。


それと同時に、こんな自分のことを気にかけてくれた明洋の優しさをも、伝えてくれているかのように思える。




「…おいしそう…」




実は千茅の大好物は、肉じゃが。


特に、母の味を思い返させてくれる庶民的なものが特に大好物。




今、涼羽が持って来てくれた手作りのものは、まさに母の味を感じさせてくれそうなものだと、千茅は思えてくる。




タッパーが入っていた手提げ袋に割り箸も入っており、その割り箸を手にとって、綺麗に二つに割ると、タッパーの蓋を開けて、涼羽の手作りの肉じゃがを少し箸で取り、口に含む。




「…おいしい…」




かつて母が作ってくれた、懐かしさすら感じるその味。


それでいて、本当に美味しいと思えるその味。




何よりも、作った人の思いが、かみ締めるたびに心に染み渡っていく。


そう思える味。




「…うう…」




人一倍寂しがりやな千茅だからこそ、痛いほどに伝わってくる、人の温かさ。


ここしばらくで忘れかけていた、その温かさを思い出させてくれた涼羽。


そして、自分と涼羽の間にそのきっかけを与えてくれた明洋。




涼羽の肉じゃがを一口一口味わうごとに、こらえていた感情が涙となってあふれ出してくる。


そして、かつて母が生きていた頃のような、ささやかながら幸せな思いがよみがえってくる。




そんな幸福感を与えてくれた二人に、心の底から感謝の思いがこみ上げてくる。




そんな幸福感と感謝の思いをもっとかみ締めたくて、少しずつだが涼羽の作ってくれた肉じゃがを食べ、味わっていく千茅なので、あった。

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