9.

 昨日の土砂降りが嘘のように、空は綺麗に晴れ渡っていた。

 青い絵の具をそのままベタベタと塗ったように、人工的で作り物めいた青空。

 ひび割れた空を修繕して、青色のペンキでも塗りたくったのかもしれない。

 そんな鼻で笑いたくなってしまう考えがふと、三塚の頭に浮かぶ。

 馬鹿馬鹿しい。そう一蹴したくなる考えだが、案外間違ってはいないのかもしれない。

 大学からはなるべく遠ざかるように道を選んで、三塚は自転車を走らせていた。

 鼻歌でも歌いたい気分だった。昨日まで感じていたような閉塞感は嘘のように消えて、ただ気持ちが軽い。

 これからどこへ行こうか。幸い、今日は仕送りの日だ。金はたっぷりとある。

 青春十八切符でも買って、行ったことがない北海道にでも行ってみようか。

 あるいはとにかく南の方へ行くのも良いかもしれない。

 以前に大学生がロードバイクで日本の最南端の国道、三百九十号の果てまで行った話を聞いてから、三塚は漠然と国道三百九十号という響きに憧れていたのだ。

 北海道もいいが、こちらもありかもしれない。

 とにかくまずは駅へ行こう。そう決めたところで、目の前の信号が赤に変わった。

 早朝の人ひとり、車一台見えない交差点だったが、信号に従って自転車を止める。

 普段なら絶対にそんなことはしないのに、なぜだかそうしたい気持ちだった。

 あと自分にどのぐらい時間があるか分からないが、焦る必要はない。そう思えたのだ。

 ペダルに右足をのせたまま、眩しい日光に目を細めつつ、三塚は空を見上げる。

 立派な入道雲が一座ある以外は、どこまで見渡してもただただ気の遠くなりそうな青色が広がっていた。


 そんな青いキャンバスを、ふいに赤い何かがよぎった。

 原色に限りなく近い赤色。見覚えのある色だ。

 雨を吸ったハイカットスニーカーの色。

 慌てて持っていた虫取り網を振り上げるが、あっさりと避けられてしまった。

 しかし、今度は挑発するかのように鼻先へすい、と寄ってくる。

 それは大きな尾びれを持つ、目玉以外が真っ赤な魚だった。

 見せつけるように、三塚の目の前でその自慢の尾びれをはためかせてみせる。

 確信があった。今見ているものの正体が何であるのか。

 三塚は深く息を吸って声をあげようとしたが、口から出たのは大きな気泡が一つと、小さなそれがいくつか、ただのそれだけだった。声は出ない。

 水中にいるわけでもないのに気泡が見えるというのも妙な話だ。

 ただ、それくらいで今更騒ぐ気にもなれなかった。

 別段呼吸が苦しいという訳でもない。

 そう、不自由ではない。

 ただ、水中にいる訳でもなく呼吸するたびに気泡が見えるのがおかしくて、思わず笑みがこぼれた。

 知らずつり上がった口角から、細かな泡がいくらか飛び出す。

 鼻先を悠々とたゆたっていた真っ赤な魚も、三塚の顔の周りをじゃれるように泳いでいる。



 もしかしたら、三塚と一緒に笑っているのかもしれなかった。

 

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空の底で羽化を待つ 市井一佳 @11_1ka

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