6.

 動転した様子の塚田に口早に礼を言って、三塚は授業が終わると同時に教室を飛び出した。

 泣き出しそうな女の先輩と一緒に居る現場を押さえられるなんて面倒極まりない。

 それにしても。

 百瀬の親友とは一体誰なのだろう。そこに手がかりがありそうだった。

 塚田が百瀬の親友について何も思い出せないと言っていたことも引っかかる。

 しかし、三塚の限られた人脈ではこれ以上調べるのは難しそうだった。学科の知り合いに片っ端からメールすることも考えたが、急にそんなことをしたらどんな噂が広まるか分かったものではない。

 なるべく目立たずにいること。出る杭は打たれるのだから。

 そうなると八方塞がりも良いところだった。

 大人しく昼ご飯を食べて三限の授業に備えるか。そう思ったものの、その考えはあっさりと頭から消えた。

 外堀から埋めるのが無理なら、やはり本人に直接訊けば良い。

 昼食は家で適当にとることに決めて、自転車置き場へ歩を進める。

 キャンパスの外へ昼食を求める学生に揉まれつつ、下宿先へと向かう。


 息を切らしてたどり着いたアパートの階段を上がって、鍵を開ける時間ももどかしく自分の部屋に転がり込む。靴を脱ぎ散らかして大股で寝室へ向かい、ベランダに出て、隣の部屋のベランダを見る。

 虫取り網はなかった。また、百瀬はあれを持って出かけているのだろう。

 頭の中で明滅するのは無駄足の三文字だ。

 そもそも家に居ると考える方が不自然だった。日中家にこもっている可能性の方が低いだろう。

 思いつきで家まで戻ってきた自分が馬鹿みたいだ。

 それでも今更大学に戻って授業を受け直すのも面倒だった。どうしたものかと考えて、ふと台所の隅に置いた緑色の缶が目に入る。

 無性に、もう一度あれが飲みたくなった。近くのスーパーの酒売り場では見かけたことがなかったから、もう少し遠くに足を伸ばさなければないものなのかもしれない。

 それでも良かった。時間なら腐る程ある。

 教科書が詰まった重いリュックを置いて、代わりにボディバッグに財布と携帯だけを入れて家を出る。

 この辺りにあるスーパーの位置をひとつひとつ思い返しながら、アパートの階段を駆け下りる。


 結局、二件目のスーパーで目的のものは見つかった。一缶手に取って、それから少し考えてもう一缶、手に取って会計を済ませる。一缶二百三十円、二缶で四百六十円。

 店の外に出て自転車置き場まで歩きながら、ふと三塚は頭に冷たい感触をおぼえた。

 雨だ。たしかに朝から降り出しそうな空ではあったが、傘を持ってくるのを失念していた。

 どうせ降らないだろうと、どこかで高をくくっていたのもある。

 しかしまだ雨脚は弱いし、今から自転車を飛ばせばずぶ濡れになる前に帰ることが出来るはずだ。

 雨が強まらないことを祈りながら、むっとするような濡れた土の匂いの中、自転車を走らせる。

 ところが三塚の願いに反して雨脚は徐々に勢いを増していった。

 授業をサボった罰が当たったのかもしれない。

 あるいは、あの魚のことを忘れろという百瀬の怨念か何かだろうか。

 そんなことを考えている間にも雨は勢いを増し、気づけば「バケツをひっくり返したような」土砂降りになっていた。

 アパートまでは次の角を右折して五百メートル程だ。結局ずぶ濡れになってしまったが、家に着いたら熱いシャワーを浴びれば良い。

 角を折れて細い路地に入る。車一台がようやく通れるような道だ。

 昨日、あの魚を見かけたのもこの道だった。

 もしかしたら今日もお目にかかることが出来るかもしれない。

 目を凝らして、雨にけぶる道を見渡す。だが例の魚は見当たらない。

 しかし、代わりに黒いパーカーを着た女が前を歩いているのを見つけた。フードを被っているものの、体格や衣服で性別ぐらいは分かる。

 カーキ色のショートパンツに、真っ赤なハイカットスニーカー。スニーカーは完全に浸水しているようで、目に痛い色合いになっている。

 そして何より、左手に引きずっているのは虫取り網だ。

 間違えようがなかった。

「百瀬さん!」

 思ったより大きな声が出て、そのことに自分で驚いて、三塚は息をのむ。

 ゆっくりと、黒いパーカーを纏った細い体がこちらを向いた。

 目深に被ったフードの奥で、黒い硝子玉のような眼球がふたつ、こちらに向けられている。

 昨日のように睨みつけるでもなく、出会い頭に舌打ちをするでもなく。

 声をかけたものの、何を言えば良いか分からなくなって口を噤む三塚に、百瀬はまた口の端だけで笑ってみせた。

「ハイネケン、そんなに気に入った? もっとあげときゃ良かったな」

 自転車のかごの中身を見破られてしまったらしい。言われてみれば雨に濡れたビニール袋が缶にぴたりと貼り付いて、緑色の缶が透けて見える。

「……あ、えっと、でも悪いですし」

「気にしなくていいって。大量に買って持て余してたから。どうせ飲みきれないだろうし。あと、言い忘れてたけど敬語使わないで。嫌いだから」

「はあ……」

「その『はあ』っての止めろよ、いらいらする」

「あ、悪い」

 反射的に謝って、それから三塚は耳を疑う。

 今回は舌打ちをしなかった。昨日なら、何か気に触ることをしてしまったら舌打ちを一つして、それでもう何も話をしようとはしなかったのに。

 謝ったもののそれ以上何も言おうとしない三塚に愛想を尽かしたのか、あるいは単に興味を失ったのか、百瀬が首を思いきり逸らして空を見上げた。

 被っていたフードが落ちて、着ているパーカーと同じ黒い髪が露になる。

「『空は一番大きな水瓶で、それがある日ひび割れてしまった』」

「え」

「私の親友が、行方をくらませる前に口にするようになった言葉だよ。いや、正確にはあいつの彼氏か。ルーツを辿ればたぶん、もっとたくさんの人間が口にしてきた言葉」

「……『空は一番大きな水瓶で、』」

「『それがある日ひび割れてしまった』。この言葉、どう思う? 三塚は」

「どうって……」

 絵本か何かの引用だろうか。

 そうではなく大真面目に言っているのだとしたら馬鹿馬鹿しいとしか言いようがない。

「まあ真顔で言い出したらトチ狂ってると思うよな。それが普通だ。でも、それを言い出した人間が二人、私の周りに居た。一人は私の親友で、もう一人はその彼氏」

 気のせいか雨は更に勢いを増しているようだ。叩き付けるように降る雨のせいで、百瀬の声がところどころかき消されてしまっている。

 三塚は自転車を降りて、やや百瀬との距離を詰める。

 百瀬は相変わらず空を見上げたままだった。コンクリートを流し込んだような、重たい色の空。

「あいつらは二人とも同じ話をした。いや、直接話を聞いたのは、親友の口からだけだったけど、その親友も彼氏から全く同じ話を聞かされていたらしい」

「伝言ゲームみたいな感じか」

「まあ、そうかな。頭ん中お花畑みたいな発想だろ? 初めてその話を聞いたときは私もそう思った」

「待てよそれじゃあ、」

 その言い方ではまるで、今はそうは思っていないと言っているようなものだ。

 百瀬がようやく逸らしていた首を戻して三塚を見据える。

 濡れた前髪が額に貼り付いていた。

 その前髪の隙間から見える黒目と、昨日見たサカナの目がダブる。 

 有機的で、黒々として、底が知れない。

「初めてその話を聞いたとき、冗談を言っているんだと思った。だから訊いた」


『じゃあ、そのヒビから何かが漏れてきてるってわけ?』

『そうだよ。だから、このままだとみんな溺れちゃうってわけ』

 一年後期、木曜日の三限は百瀬も小川も空きコマで、だからたまに、こうして大学の外までランチに行ったりもする。

 小川が唐突にそんなことを言い出したのは、通いなれたカフェで二人して日替わりのパスタを食べて、食後にアイスティーを飲んでいるときだった。

 それも、強ばった顔で。

 冗談に調子を合わせたつもりだったのに、真面目な返答があって百瀬は面食らった。

 自分の親友は、ここまで一つの冗談を引きずるようなやつだったか。

 いや、そもそもこんな手のこんだ冗談を口にするようなやつだったか。

『溺れるって……小川、今日なんかおかしい。恐い顔してるし。せっかく可愛い顔してるんだから笑っときなよ』

 百瀬が手を伸ばしてピンクのチークのついた頬をつつく。

 小川はされるがままだったが、硬い表情を崩そうとはしなかった。

 右手でストローを、左手でグラスを握ったまま硬直している。

『そんなことないよ。いつも通り』

『それのどこがいつも通りなんだか。なんか悪いものでも食べた?』

『あのさ、百瀬。あたし真面目に話してるんだよ』

 だから質が悪いのだ。一体小川に何があったというのか。

 百瀬は舌打ちをしようとして、すんでのところで堪える。

(小川は百瀬が舌打ちをする度、律儀に注意するのだ。真面目な顔で)

 軽く流してしまいたい話ではあったが、この調子では埒があかない。

 観念して百瀬は両手を顔の横に掲げてみせる。

『茶化して悪かったって。ちゃんと聞く。だからもっと詳しい話をしてよ、佐保』

 滅多に呼ばない下の名前で呼ぶと、小川の硬い表情が僅かに緩んだ。

『百瀬は昔、人間にはしっぽも水かきもあったって話は知ってる?』

『まあ。あと胎児の時点でもあるだろ、しっぽと水かきは』

『そう。じゃあどうして無くなったかは?』

『そりゃ、進化の過程でいらなくなったからで……』

 なぜこんな話に。

 内心で思いながらも、頭の隅に追いやられていた記憶を引っ張りだして百瀬が答える。

『じゃあもしもだよ、もしもまた人間が水の中で暮らさなきゃならないとしたら、どうなると思う?』

『どうなるって……エラ呼吸でも出来るようになるって言いたいわけ?』

『違うけど、惜しいかな』

 マスカラがたっぷり盛られた長い睫毛が伏せられる。チークと揃いのピンク系のアイシャドウはきつめの色合いだが、小川にはよく似合っていた。

『……佐保、やっぱりあんたおかしいよ』

 確かに、小川は最近元気がないとは思っていた。しかし百瀬が何度話を聞こうにもなんでもないの一点張りで、何も話そうとはしなかった。

 ようやく話をする気になったかと思えばこれだ。

 不安と苛立ちを隠しきれない百瀬の言葉に、小川はうっすらと笑う。

『あのね、つばき』

 お返しのように、こちらも普段は滅多に呼ばない下の名前で小川が百瀬を呼ぶ。

 その響きにどきりとして固まる百瀬を黒めがちな小川の目がじっとこちらを見ていた。

 幼子に言い聞かせるような口調で、優しい声で、続ける。

『みんな、ゆっくり溺死していくんだ。それで、進化できた人だけがね、』


「『魚になるんだよ』」

「は?」

 雨粒が容赦なくアスファルトを、頭を叩く。

「小川はそう言った。そして、そう言った翌日に行方をくらませた。

それどころか、あいつが生きていた痕跡は何一つ残っていなかった。私の隣の部屋に住んでいたはずなのにいつの間にか部屋は空室になっていたし、不動産屋に問い合わせてもここしばらくは空室だって言われる。

アドレス帳から名前は消えていて、SNSのアカウントも何一つ残っていない。デジカメに残っているはずの写真だってない。もちろん大学の知り合いに声をかけても誰も知らないって言う。あいつの実家と連絡を取れればいいけど、学務に問い合わせたところでそんな学生は在籍していた記録がないと言われる。完全にいなかったことにされているんだよ、あいつは」

 早口でまくしたてて、百瀬はそこで一度、短く息を吸った。

「……そして、私の前から姿を消したのと同じ時期からあの蜂蜜色をした魚を時々見かけるようになった。もちろん、初めは見間違いだと思った。けど、それが何度も続くとそうやって自分を納得させるのも限界になってきた。それで思った。『この魚はあいつじゃないか』って」

 あれは小川が進化した姿なんじゃないかって。

「あの魚は一度だって捕まえることは出来なかったし、仮に捕まえたところでそのサカナが何なのか調べる手立てはない。でもきっとあれは、あの魚は小川だと思う」

「…………」

「それと、あの魚は自分以外には見えないっていうのも、初めて見たときに気づいた。人ごみの中を歩いていて、あんなに目立つものが目の前を悠々と泳いでいるのに誰一人反応していなかったから。これは自分にしか見えていないんだって思った。」

「でも俺は! ……俺は見えた、けど」

 今の話では、本当に百瀬ただ一人にしか見えていなかったはずだ。

 それなのに、なぜ、自分が。

「そこなんだよ」

 百瀬が手にした虫取り網に視線を落とす。

 水たまりに浸った網が、雨水を吸って茶がかった色になっていた。

「色々考えたけど、まるで見当がつかない。こっちが教えてほしいくらいだ。……それより三塚、塚田から小川のこと、聞き出そうとしたろ」

「あっ、いや、それは」

 三限に塚田と話したことが、百瀬本人の耳に入るのは予想していなかった訳ではない。

 ただ、こうやっていざ問いただされるといたたまれなくなる。

「別に怒ってないから。訊いたんだろ。それで、塚田は何も答えられなかった。違う?」

「……その通りですけど」

「塚田からメールが入ってた。私と親しい人間のことを訊かれたけど思い出せなかったって。分かるか三塚。魚になった人間は、さっきも言ったように存在がなかったことになるんだよ。

 もう一つ付け加えると、……これは憶測になるが、小川は姿を消す前に魚を見ていたと思う。あいつの挙動にはそれらしいものがいくつかあった」

 不意に、立ち上がって何かを追いかけようとしたり、どこか一点をじっと凝視したり。

 その度に何事かと訊いても、小川はなんでもないの一点張りだった。

「百瀬……さん、さっきからほんと訳が分からないすよ、何言って」

「もう少しで終わるから、馬鹿馬鹿しい話だけど最後まで聞いていけ。どうせここまで濡れたんだ、今更慌てて家に帰ることもないだろ」

 虫取り網を引きずって、百瀬が三塚との数歩分の距離を詰める。

 雨水をたっぷり吸った赤いスニーカーが、重たそうに一歩一歩近づいてくる。

「昨日、水死体が町中で発見されたニュースが流れてただろ?」

 そういえば、そんなニュースをどこかで耳にした覚えがあった。

 自転車屋だ。パンクを直しに寄った自転車屋のラジカセから、そんなニュースが流れていた記憶がある。

「……あれは、進化出来なかった人間じゃないかって思ってる。つまりは魚になれなかった人間。魚になれる人間と、そうじゃない人間の違いは分からないが、魚になった人間の共通項は見つけた。何だと思う?」

「何だと思うって訊かれても……」

「別に無理に答えてもらおうなんて思ってない」

 訊いたくせに三塚の言葉をはねのけて、百瀬は口を噤む。しかしそれも一瞬だった。

「いいか三塚。これは私の憶測に過ぎないが、

 ――空がひび割れたという話を知っていること、それに魚を見ることが出来ること。

 その二つだと思っている」

「それじゃあ俺は!」

 百瀬は答えない。

 黙ったまま、持っていた虫取り網をぞんざいに三塚の自転車のかごに放り込む。

 次に着ていたパーカーのポケットから、キーホルダーが一つもついていない鍵を取り出して差し出した。

 形が似ているから分かる。アパートの鍵だ。

 面食らってしまい受け取ることが出来ずに、三塚は鍵と百瀬の顔とを交互に見つめる。

 そんな三塚に痺れを切らして、百瀬は自転車のハンドルを握る三塚の右手を剥がして無理矢理鍵を握らせた。

 鍵はもちろん、百瀬の手も氷のように冷えきっていた。

「もしまだ残っていたらだけど、うちにあるハイネケン、あるだけ持っていけ。無駄にしたくない」

「なんですか、それ。それじゃあまるで……!」

 握らされた鍵を突き返そうと腕を伸ばしながら三塚は叫ぶ。

「一緒にベランダで飲んだハイネケン、美味しかった。――またねヽヽヽ、三塚」

 手を後ろでくんで、あくまで三塚が鍵を返そうとするのを拒絶してみせながら、百瀬が言う。

 伏せられていた睫毛の先から雫がこぼれた。雨だろうか。あるいは涙だったかもしれない。

 百瀬の伏せられた目がふいに三塚へ向けられる。

 昨日会ったときの剣呑な眼差しはどこへ行ったのだろう。

 いやに穏やかだ。まるで別人のように。

 百瀬の後ろで組んでいた手が、両方ともまっすぐ三塚に伸ばされる。

 かと思うと、百瀬はその細腕からは信じられない強さで三塚の両肩を道路脇へと押しやった。

 三塚の肩甲骨が、頭が、フェンスに叩き付けられる。間をおかず、自転車も三塚の体とフェンスをサンドするように倒れ込んできた。体のあちこちが、とにかく熱い。

 しかしその熱さを、痛みを噛み締める間もなく、今度は目の前を大型トラックがスピードを上げて通過していった。

 細い道だ、下手したら轢かれていたかもしれない。

 トラックの跳ね上げていった泥水をもろに被ってしまったが、それ以前に全身ずぶ濡れだったから今更気にならなかった。

 それよりも。

「百瀬、」

 声が掠れた。

 先ほどまで目の前に居た百瀬は、どこにもいなくなっていた。

 トラックに轢かれたのかもしれないと考えたが、そんな痕跡もない。

 かといって、自分を道路の脇に押しやってトラックが通過するまでの僅かな時間で、どこかへ逃げるのは無理だろう。

 あちこち痛む体に鞭を打って、三塚は自転車を押して近くを歩き回ったが、百瀬はどこにもいなかった。

 百瀬は、跡形もなく消えてしまった。

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