3.

買い物を終えて下宿に戻る。申し訳程度に屋根がついた自転車置き場の隅に愛車を止めて、アパートの外階段を上がっていく。二階の角部屋が三塚の住処だ。この春からの。

 外階段は一段上るたびに足音が嫌に響いた。

 きっと階段がある側の部屋の住人は、この階段を誰かが上り下りする度にやかましく感じているのだろう。三塚の下宿はまだ建てられてから日が浅いし、外見もそれ相応だが、壁は薄い。

 階段を上がりきってから、三塚はポストを確認していないことに気づいた。

 しかしどうせダイレクトメールの類しか入っていないだろうし、そのためにわざわざもう一度階段を下りて確認するのも億劫だ。

 新聞、ピザ屋に保険屋、それに興信所。エトセトラ、エトセトラ。

 一人暮らしを始めたばかりの頃、ポストに入ってくるそれら全てが物珍しくて新鮮だった。 そういう時期も確かにあったはずだ。

 けれどもう忘れてしまった。今はただのゴミだとしか思えない。

 いつからだろう、そんな風に身の回りの細々したことがどうでもよくなってしまったのは。

 まだ、大学に入学して二ヶ月弱。つまりは、環境が大きく変化して二ヶ月弱。

 たったのそれだけしか、経っていないのに。

 抱えていたスーパーのビニール袋を一度下ろし、ジーンズのポケットから家の鍵を取り出す。

 いい加減鍵にキーホルダーか何かを付けなければ。このままではいつ鍵をなくしてしまうか分からない。

 裸のままの鍵を見る度そう思っていたのに、気がつけばこのアパートに入居して二ヶ月が経とうとしている。

 ――このまま『気がつけば』大学卒業の時期を迎えるのではないのか。

 ふとそんな考えが頭に浮かんだが、気付かないふりをする。


 狭い玄関で靴を脱いで、まずは冷蔵庫に買ったばかりの食材を詰め込んでいく.最後にアイスを冷凍庫に詰めようとして、一瞬今食べてしまおうか考えて、止める。

 先に洗濯物を取り込んでしまおう。楽しみは後に取っておいた方がいい。

 台所の前を通って、フローリングの部屋に入る。

 部屋の隅にあるベッドの上には広げた服が散乱していた。急に暑くなったから、着る服に悩んでクローゼットからあれこれ引っ張りだしたのだ。また畳み直さなければならない。

 面倒ごとがひとつ増えた。いや、思い出したというべきか。

 東向きのベランダへ通じる窓を大きく開く。生温い風がカーテンを膨らませた。

 この分なら洗濯物はまだ湿気っていないだろう。

 物干し竿にかけたままの衣類を纏めて腕に抱え込んだところで、ふと視界の端に黒いものが映り込んだのが分かった。

 隣の部屋のベランダだ。そこに誰かがいる。先ほどまでは何も見えなかったから、洗濯物ではないはずだ。

 思えば隣人がどんな人間かなんて知らなかった。これまで家を出る時間が被ったり、逆に帰宅する時間が重なったりなんてことはなかったし、幸いにも防音はそれなりにしっかりしているせいか、隣の音が漏れてきたこともない。

 それにしても、まさかベランダで初めて顔をあわせることになるとは。

 恐る恐る視界の端に映る黒いものを視界の中央に持っていくように首を捻っていく。黒いものは頭部だった。ショートカットの、やや癖がある髪。視線をほんの少し落とすと、灰色のパーカーが目に入る。

 そのどちらにも見覚えがあった。

 不機嫌そうに細められたつり目がこちらを向く。視線が絡んだ。

「さっきの、」

 三塚の口から出たのはそんな間の抜けた一言だった。他に言うことがあるだろう。というより、殆ど初対面に近いのだから、まずは挨拶をするべきだ。理性がそんな模範解答を示す。

 理性の言葉に従い、ひとまず挨拶をと三塚が口を開こうとしたところで、隣人は不機嫌そうな表情を崩そうともせずに舌打ちを一つして、部屋に引き上げてしまった。

 そういえば先ほども舌打ちをされなかっただろうか。舌打ちするのが癖なのか、それとも余程自分が隣人を苛立たせるようなことをしてしまったのか。

 どちらにせよ、舌打ちをするだけして無視されるとなると怒りよりもやるせなさが募る。

 しかしこの調子であれば口もきいてもらえないだろう。先ほどの出来事について話をしたかったが、諦めた方が良いのかもしれない。

 とりあえず洗濯物を部屋の中に入れてしまおう。そう決めて、サンダルを脱いで室内に入る。窓を閉めようとしたところで三塚の背中に声がかかった。

「ビール、飲める?」

 女にしては低く、男にしては高い中性的な声。肩越しに振り返ると灰色のパーカーを着た隣人が、ベランダの柵に頬杖をついて立っていた。器用に片手で缶を二つ持って三塚に示す。

 さっき部屋に引き上げたのは、ビールを取りに戻るためだったらしい。

「……はあ」

「どっちだよ。とりあえず、とっととそれ、置いてきたら」

 それ。言いながら、隣人が顎をしゃくって三塚が抱えた洗濯物を指す。

「……はあ」

 もう一度口をついてその言葉が出て、そんな自分に内心で頭を抱えつつ、三塚は言われるままに部屋に戻ってベッドの上に洗濯物を投げ出す。

 ベランダに取って返すと、隣人は先ほどまでと同じようにベランダの柵に頬杖を突いて、気怠げにこちらを見ていた。三塚が口を開く前に、隣人が持っていた缶の片方を投げてくる。

 全体的に緑色をした缶だ。ラベルに書かれた名前はハイネケン。見たことと聞いたことはあるが、飲んだことはなかった。

「飲めないなら誰かにあげちゃって。もういらないから」

 言いながら、隣人がプルトップを起こして中身を煽る。気持ちのいい飲みっぷりだった。

 軽く礼を言って、三塚もプルトップに指をかける。正直言ってビールはほとんど飲んだことはなかったし、苦手意識もあったが、隣人の目もあったので飲んでみることにした。

 おっかなびっくり口に含むと、ハイネケンは思いのほか飲みやすかった。顔をしかめる程の苦さも、喉をさすような痛みも感じられない。

 美味しかった。そして、そう感じる自分に驚いた。

 たまたま自分の口に合うものだったからだろうか。

 それとも、この状況がそう感じさせているのだろうか。

「さっきのこと、聞きたいんだろ?」

 片肘をついて、隣人が相変わらず睨みつけるように三塚をじっと見る。

 余程自分が気に入らないのかと思ったが、もしかしたら単に、隣人はすごく目つきが悪いだけなのかもしれない。

「あっ、それもそうですけど、それより先に」

 名前を。いや、それよりも挨拶を?

 続けられた三塚の言葉を聞いて、隣人の顔に怒りというより呆れが浮かび上がる。

 つまらないことを言うなと言わんばかりの表情。

 よく言えば正直な人なのだろう。この態度を見てそう思うかは人それぞれだろうけれど。

「私は百瀬。君と同じS大文学部、人社ジンシャの二年」

 S大文学部。人社――人文社会科学科。

 驚いた。学年を除けば三塚と全く同じ所属になる。

 いや待て、隣人はなぜ自分の所属を知っているのだ。

 考えていることが表情に出ていたらしく、隣人は、百瀬は片方の口の端だけ器用に曲げてみせる。

 笑っていると、とれなくもない顔。

「同じ学部学科の人間が隣に住んでることに驚いているのか、それとも自分の所属を言い当てられたのに驚いたのか知らんけど」

 手にしたハイネケンを百瀬があおる。つられて、三塚も手にした缶に口をつけた。

 炭酸が心地よく喉を刺激する。

「先月の学科の懇親会、忘れた?」

 言われてみればなんてことはない話だった。

 百瀬の言うように、先月入学式からちょうど一週間経った頃、一、二年生が強制参加の懇親会が開かれた。

 懇親会と言っても大きめの教室に飲み物とお菓子を持ち込んで適当に騒ぐというお粗末なものだ。

 一部は既に打ち解けていたものの、大半はどこかまだ、ぎくしゃくした一年生。そんな一年生の間に入るでもなく、思い思いに仲の良い人間同士が固まって話をしていた二年生。

 同じ学部学科の人間の集まりのはずなのに、あの場は混沌として居心地が悪かったことを、三塚は昨日のことのように思い出せる。

 そういえば、そこで百瀬の姿も見たような気がしないでもない。教室の隅で不機嫌そうにしていたような。

「それは……、すごい偶然ですね」

「偶然はそれだけじゃないよ、三塚」

 待て、話した記憶もないのにどうして名前まで知っている。

 出かかった言葉を飲み込む。百瀬は相変わらず口の端だけで笑っていた。

 懇親会のときに、人づてで名前を聞いたのだろうか。

「君、去年の前期試験もS大の人社受けてたろ。私の受験番号は君の一つ後ろだったから」

 それに、時計も貸したし。

 付け加えられた一言を聞いて、三塚の頭の中で一年と数ヶ月前の出来事が鮮やかに蘇る。

 受験の日、持ってきた腕時計が電池切れか何かで動かなくなってしまったのだ。あれはまさに悪夢だった。

 試験の開始時刻は迫っており、時計を買いにいく時間はなかった。目の前が暗くなるのを感じたそのときに、後ろからシャーペンの頭で背中をつつかれたのだ。

『時計、もし良かったら。予備で二つ持ってきたから』

 試験を受けた場所はすり鉢状の講堂だった。だから時計が動かなくなって焦っている様子も見えていたのだろう。囁くような言葉と共に、細い革ベルトの腕時計を押し付けられた。

 あのときは気持ちにゆとりがなくお礼を言うので精一杯だったし、試験が終わって時計を返すときも、ゆっくり話をする余裕はなかった。

 しかし、まさかそのときの恩人が隣人とは。

「合格発表のとき、私の一つ前の番号がなかったから残念だったけど、まさか浪人して同じところを受け直してるとは思わなかった」

 百瀬が淡々と言う。

 乾杯をするように手にした緑色の缶を軽く掲げて、

「色々置いておいて。――まずは合格おめでとう。三塚」

 言われて初めて、百瀬が全てを知った上でお祝いにハイネケンを寄越したことに気づく。

 素っ気なく言われたその一言が三塚はなぜか無性に嬉しかった。

「……どうも」

 同じように缶を軽く掲げて、三塚は中身を喉に流し込んだ。

 苦みが喉を抜けたところで意を決して口を開く。

 今なら隣人も何か話をしてくれるかもしれない。

「あの、それで、さっきの」

 同じように缶に口をつけていた百瀬が三塚を一瞥する。

 考えを巡らせるように宙を睨みつけて、それから三塚へと視線を戻す。

「ああ、サカナか」

 やはり、見間違いなどではなかった。

 先ほど見た蜂蜜色のもの。あれは。

「だって、宙を泳ぐ魚なんて、そんなもの、」

「あるわけがない。その通りだよ。でも現に見た。そうだろ?」

 目を細めて百瀬が髪をかきあげる。

「なあ三塚。今からこれ以上ない程馬鹿馬鹿しい話をする。一回だけだ。信じろとも言わない。むしろ信じてくれなくて良い。でも、とりあえず聞いてくれ」

 沈黙を肯定と受け取って、百瀬が口火を切る。

「あれは元々人間だよ。それが魚になってしまった。あと、あれを見ることが出来るのは今のところ私と君しかいない」

「他の誰にも見えていない? んな馬鹿な」

「だから初めに言ったろ。馬鹿馬鹿しい話だって」

 疲れたように百瀬が深い嘆息をもらす。

「一人で見ただけなら見間違いや幻覚で片付けられないこともないだろう。むしろ、そうやって片付けてしまった方がいい」

「……忘れろって、そう言ってるんですか」

 こんな中途半端に話を聞かせられるくらいなら、何も聞かない方が良かった。

 もの言いたげな顔の三塚に百瀬が目を細める。

「その方が良いんだよ。理由は言えないけど」

「それはいくらなんでも」

 勝手すぎやしないか。だって、説明を始めたのはそっちなのに。

 言わずとも言いたいことは伝わったらしい。しかし百瀬は何も言わない。

 それどころか、三塚の視線から逃れるように、乱暴にガラス戸を開けて部屋に引き上げてしまった。続けざまにカーテンを閉める音も微かに耳に入る。

 これ以上話をする気もなければ、顔を合わせる気もないということだろうか。

「……元は人間で、それがサカナになって、でも俺と百瀬さん以外には見えない」

 ひとまず分かっている情報を指折り数えて整理してみる。三つ。多いのか少ないのか。

 ただ、それらの情報が掴めたところで、本質的には何も分かっていないようなものだ。

 百瀬は忘れろという。その方が良いのだと。

 しかし、忘れろと言われれば忘れがたく、気にするなと言われれば気になるのが人間の性分ではないか。

(分かっていて言っているのだろうか。あるいは、)

 いつまでもベランダで立ち尽くしていても仕方がないから部屋に引き上げることに決めて、三塚もガラス戸を開く。そのまま室内に入ろうとして、ふと百瀬のベランダの柵に立て掛けられたものが目に入った。

 虫取り網だ。先ほど百瀬が持っていたもの。

 なんとなく虫取り網を視界の端に捕らえたまま室内に戻る。ガラス戸のロックをかけ、カーテンを閉めるとようやく一息つくことができた。

 どうも隣人のピリピリした気にあてられて、知らず体が強ばっていたようだ。

 しかし、邪険にされたとはいえ忘れる訳にも気にしないでいるわけにもいかない。

 ようやく面白いものに巡り会えたのだ。


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