空の底で羽化を待つ

市井一佳

1.

蜂蜜色の何かが、ふいに鼻先に躍り出た。


 思わず三塚みつづかの足が止まる。『それ』のぎょろりとした黒い目と目が合った。

 有機的な、それでいて底の知れない目だ。見ているだけで吸い込まれてしまいそうな。

 これは五月の終わり、もう夏とも呼べるくらいの暑さが見せる幻の類なのだ、きっと。

 そんな熱に浮かされた三塚の意識は、後ろから伸びてきた棒状の何かによって、首根っこを掴まれたように現実に引き戻された。

 慌てて背後を振り返るが、そちらには既に何もなかった。代わりに立ち尽くす三塚の横を何かの気配と舌打ちの音が駆け抜けていく。

 捻った首を戻すと、そこには小学生が持つような長い柄のついた虫取り網を振りかざす女の姿があった。

 突如現れたその女は灰色のパーカーを羽織り、デニムのショートパンツを穿いている。

 足下は黒いハイカットのスニーカーだ。履き古しのようで、やや色褪せている上にずいぶんくたびれている。

 黒い髪はショートカットで、癖があるのかパーマをあてているのか、ややウェーブがかかっていた。

 身長は三塚とそこまで大きな差はないから、まさか小学生ということはないだろう。

 先ほど後ろから伸びてきたものは女が今振りかざしている虫取り網だったようだ。納得して、それから三塚の頭の中で新たな疑問が頭をもたげる。

 なぜ虫取り網を? それも、どう見たって小学生には見えない女が?

 風切り音が聞こえるくらい勢い良く振り下ろされた虫取り網は、しかし何も捕まえることは出来なかったらしい。

 呆然と立ち尽くす三塚の前で苛立たしげに女が虫取り網の柄を道路に突いた。しかしすぐに、女は何も言わず踵を返して歩き出す。

「あ、あの!」

 気がつけば、三塚は何事もなかったかのように去って行こうとする灰色の背中に向かって声を張り上げていた。

 聞きたいことは山のようにあった。まずは目の前のいた蜂蜜色のもの。恐らく女が虫取り網を使って捕まえようとしていたのもあれだったはずだ。捕まえようとしているなら、その正体だって知っているかもしれない。

 女は足を止めない。ただ肩越しにちらりと、鬱陶しそうに三塚を睨みつけただけだった。

 それも、ほんの一瞬だけ。

 しかし、あからさまで拒絶を示されてしまってはそれ以上声をかけることも出来ず、三塚は中途半端にあげた手を引っ込める。

 そうしている間にも女はずんずん歩いていき、十字路で右に折れて姿が見えなくなった。

清々しい程にこちらを意識することもなく。

 追いかけてでも話を聞こうか。

 一瞬そんな考えが浮かんだが、先ほどの様子では無理だろうと思い直す。それに今は、虫取り網を持った女よりも自分が今しがた見た不可解なものよりも、もっと大事なことがあるだろうと思い直す。

 パンクした自転車。目下の問題はそれだ。まずは自転車屋に行って、それから誰かに今起こった出来事を聞いてもらおう。

 聞いてもらったところで、鼻で笑われるのがオチだという気もするのだけれど。


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