番外編その二 メデューサと少年

その一


 カーテンを微かに捲ると、夜の初めの青い闇に包まれた森が、ひっそりと佇んでいた。

 遠くで光る星と半月、時折風に揺れる木々の梢、二階の自室の窓から見える殆ど変わり映えのしないこの景色が、彼女にとって一番馴染み深いものだった。


 窓辺に椅子を置いて座っていたその女性は、改めて黒の薄いドレスから伸びた足を組み替えた。

 室内は蝋燭を消しているため、窓硝子に自分の顔は映らない。その為、普段は付けたままにしている目隠しを外して、彼女はじっくりとその景色を眺めていた。


 その頭部は髪の毛の代わりに蛇の群れが好き勝手に蠢き、隠されていたその眼には見た者を石に変える力が込められている――かつては伝説上の怪物として人々に恐れられていたメデューサ・ゴルゴンは、今はただ物思いに耽っていた。


 怪物たちが暮らし、集うホテル・トロイメライの古株でもあるメデューサだったが、目のあった生き物全てを石にしてしまうため、心を許した仲間たちの前でも目隠しを外したことは一度も無かった。外す瞬間は本当に一人きりの時のだけである。


 しかし、普段目隠しのまま生活していても、メデューサが困ることは殆ど無い。自身の周りにある物の位置などは、空気の流れや音の響きなどで感じ取り、人物は匂いや雰囲気で判別していた。


 その事を特に恐ろしいなどと思ったことはなかった。メデューサは産声を上げた時から目隠しをしていたのだから。

 見た者を石に変えてしまう瞳を持つゴルゴン家は、皆そういう運命なのだと、彼女自身受け入れていた。


 ゴルゴン家は生き物も植物も殆どない、険しい山の中で暮らしていた。食べ物を探すのも一苦労だったが、それよりも目を持つ生物に出会ってしまい、相手を石にしてしまうことを一家は恐れていた。

 だが、こんな山の中にも分け入ってくる人間たちがいて、家族は彼らから逃れるように散り散りになった。


 メデューサはその後、自身のふるさとに似た岩山で暮らしていたが、目隠しを外し溜めていた雨水で顔を洗っている所を、岩山に迷い込んできた人間に見られてしまった。


 二人組の内の一人と目があった瞬間、彼がこの世のものとは思えないほど恐ろしいものを見たような強張って見開いたままの顔から、段々と灰色で冷たい石になっていくのを、メデューサは茫然と眺めているしかできなかった。


 運良く彼女の目を見なかったもう一人の旅人は、石に変わっていく仲間を置いて、甲高い悲鳴を上げながら逃げていった。

 その時にやっと、自分も石化したように動けなかったメデューサは、膝から崩れ落ちた。


 頭は真っ白で、体全体が細かく震えていた。髪の毛代わりの蛇たちも、彼女の心情を受け取ったのか、しゅるしゅるといつも以上に動き回っている。

 家族が何よりもこの事を恐れていた理由がよく分かった。食べるために動物を殺すということも彼女は経験していたが、それ以上に取り返しのつかないことをしてしまったのだと悟った。


 数日後、人間たちは討伐隊を組んで、岩山にやってきた。数えてはいないが、十人近くの男たちだった。

 年齢と服装にばらつきがあったが、共通しているのは皆右手には剣を、左手に鏡のように磨き上げた銀の盾を持っていることである。


 彼らはそれぞれ別の道から岩山に上ってきて、メデューサを追い詰めた。体中に切り傷を受けて、命の危機を感じたが、メデューサは決して目隠しを外そうとはしなかった。


 相手が自分を殺そうとしていても、もう二度とあのような後悔はしたくない。この判断は、盾に映った自分の瞳を見ずに済んだという点で、正しいものだった。


 そして、僅かな隙をついて、メデューサは討伐隊から逃げ出すことに成功した。傷だらけの体のまま、昼夜を問わず歩き続けた。

 横になろうと試みたこともあったが、まどろみの中で自分を襲ってくる刃先の夢を見て、すぐに目を覚ました。


 半月後、当時はまだ廃城だったこのホテルに辿り着き、そこでただ一人で暮らしていたソドに助けてもらった。


 メデューサが廃城に暮らし始めてから、少しずつここに様々な理由で逃げ込んできた怪物たちが増えていき、ソドが新しくホテルに作り替えた。

 その後に泊まりに来る怪物たちから外の世界のことを数多く聞いたが、メデューサの家族や同じ種族を見たという話は一度も聞かなかった。


 きっと私が最後に生き残ったゴルゴン家の一人なのだろうと、今ではすっかり諦めきってしまった。

 その途端、すっと重たい荷が下りたような気がした。彼女自身が気付いていなかったが、僅かな希望が自身を雁字搦めにしていたようだった。


 それからは彼女も、ホテル内の仲間たちとおしゃべりに興じたり、おいしい料理やワインに舌鼓を打ち、時折現れる人間の侵入者を脅かして追い出したりという、気楽な生活を送っている。それで、もう満足したはずだった。


 メデューサは窓の硝子に触れて、溜め息を吐いた。そこに彼女の顔を反射していないが、それは安心するものであると同時に悲しいもののように感じられる。


 目隠しをして活動することが出来ても、限界というものはあった。

 例えば、色や平面に描かれた絵などは、音や匂いだけでは分からない。そして人の顔の凹凸も、彼女にとって上手く捉えられないものの一つだった。


 このホテルに住む仲間たちとは、強い絆が確かに存在する。しかし、メデューサが彼らの顔を見ることは決してない。

 それが、彼女にしか抱けない疎外感となっていた。


 せめて、赤ん坊の頃から知っているあの子の顔は、昼から初めて街への探索に行ったあの子の顔だけは……それも、過ぎた願いだと分かっているからこそ、メデューサは窓枠に顔をうずめた。


 髪の蛇たちだけが、彼女とは正反対に、元気良く動き回っていた。






   ☆






 夕暮れ時に活気づく街の中を、人間の少年ジェンティレスと、魔術師のイノン・ニクロムは並んで歩いていた。


 二人の手には、町中のお店で買ったホテルのみんなに対するお土産を持っていた。次はどこに行って何を買おうかを、楽しそうに話しながら進んでいく。


「じゃあ、次はメデューサに贈るドレスだな」

「うん。さっき、服屋さんがあったからそっちで……」


 ジェンティレスが通りの交差点で立ち止まり、辺りを見回すと、通りに椅子を出して、何かをしている癖の付いた伸び放題の金髪の青年に目が留まった。


「ねえ、イノン。あの人は何をしているのかな?」

「ああ、あれは多分絵を描く練習をしているんだな」


 イノンが説明した通り、こちらに猫背を向けて座っている青年は、目の前にイーゼルを置き、そこにキャンバスを固定して、炭の鉛筆で前にある建物を描き取っていた。


 真剣な眼差しでキャンバスと建物を見比べながら、周りの音や通行人の好奇な目も気にせずに、鉛筆を走らせている。もうすでにいくつか描き終わったキャンバスが、椅子の横に凭れるように置かれていた。


 ジェンティレスも興味津々と言った様子で、彼を熱心に眺めていた。


「へえー。絵って、あんな風に描いていたんだー」


 ホテル内に絵画は飾っていなかったが、時折訪れる魔道具を売る商人の持ち物の中で、キャンバスに描かれた油絵を見たことのあるジェンティレスは、感心して何度も頷いた。


「邪魔にならない程度に、近付いてみるか?」

「うん!」


 イノンの提案に元気良く返答したジェンティレスは、彼と共に足音を忍ばせて、青年の真後ろに立った。


 それにも気付かずに、青年はずっと絵を描いていた。真っ黒な鉛筆が、キャンバスの上に線を生み出し、埃をかぶった窓枠になるのを、ジェンティレスはじっと観察していた。


「……すごい、絵って、こんな細かい所まで描けるんだね」


 自分のすぐ耳元から、そんな少年の声が聞こえて来たので、青年はやっと手を止めて振り返った。目の下に隈がはっきりとある、緑色の丸くなった瞳がジェンティレスとイノンの姿を捉えた。


 イノンは、戸惑っている青年に対して、申し訳なさそうに苦笑を浮かべて弁明した。


「すみません。道で絵を描いているのが珍しくて、少し近くから見ていました」

「あ……別に、それは……いいんですけど……」


 青年は久方ぶりに出したような掠れた声で、ぼそぼそと話した。自然と視線もイノンから外れて、下の方を向いて行ってしまっている。


 一方イノンは、昼間に貴婦人を激怒させてしまった時と全く違う反応に、人間と上手く話すことが出来たと妙な手応えを感じていた。


 それからすぐにキャンバスに向かって絵の続きを書く青年の姿を、二人は黙って眺めていたが、ジェンティレスがあることを思いついて口を開いた。


「ねえ、お兄さん」

「……なんですか」


 絵を描く邪魔をされてしまい、青年は分かりやすく不機嫌な声を出して振り返った。

 しかし、青年に睨まれてもあまり気にせずに、ジェンティレスは無邪気に笑いながら頼み込む。


「ぼくの似顔絵を描いてくれる?」

「……え、似顔絵?」

「どうしたんだ、ジェン」


 驚いたのは青年だけではなく、隣のイノンもジェンティレスの顔を覗き込みながら尋ねた。


「うん。これをメデューサのお土産にしようと思って」


 イノンの方を見たジェンティレスは、にこにこしながら答えた。


「けど、なんで似顔絵を……あ」


 顎に手を当てて少し考えたイノンは、すぐに気が付いた。そして、にやりと笑ってみせる。


「それは最高のお土産だな。……すみません、お願いできますか?」


 彼はすぐに絵描きの青年に向き直って、頭を下げた。


「別に……構いませんけど」


 青年は咄嗟に目を逸らすと、建物の絵のキャンパスを椅子の横に移動させて、まだ何も描かれていないキャンパスを用意した。


「……じゃあ、ちょっとこれに座ってて」


 青年は立ち上がると、座っていた椅子をキャンバスの反対側に置き直した。

 促されたジェンティレスは、彼の示した場所へと回りこんで、椅子の上にすとんと腰を下ろした。


「よろしくお願いします」

「あっ、はい。よろしく……」


 彼もジェンティレスに倣って、気恥しそうに頭を下げた。


 早速青年はジェンティレスの顔の輪郭から描き始めたが、モデルとなった当の本人は、所在なさげに少し左右に揺れている。

 イノンは以前に絵のモデルになったことがあると話していた、悪魔のレン・カフカ・アシュタロトの言葉を思い出して、ジェンティレスに声をかけた。


「ジェン、あまり動かない方が描きやすいそうだ。喋るのも慎んだ方がいいよ」

「うん。分かった」


 一度大きく頷いたきり、ジェンティレスはぴたりと動きを止めた。顔も真顔になってしまっている。


「あと、顔は笑っていた方が、メデューサも喜ぶと思うぞ。あまり無理しない方がいいけど」

「そうだね」


 イノンの指摘を受けて、ジェンティレスは口角を持ち上げた。非常に不自然な笑みだったが、真顔よりもずっとましになっている。


 しばらく、二人の様子を見守っていたイノンだったが、似顔絵が完成するまでに時間が掛かると睨んで、その場を離れることにした。


「ジェン、俺はちょっと他の土産を探してくる」

「分かった。ぼくはここで待ってるよ」


 出来るだけ小さく頷いたジェンティレスから背を向けて、イノンは他の土産になりそうな店を探し始めた。


 それからしばらくは、黙ったまま青年はジェンティレスの顔を描き取っていた。しかし、ずっと気になっていることがあって、我慢出来ずにキャンバスの横からジェンティレスの方を伺った。


「あの……一つ聞きたいんですけど……」

「お兄さん、何?」


 ジェンティレスが小首を傾げると、青年は一瞬躊躇して下を向いたが、遠慮がちにもう一度相手の目を見た。


「さっき、その、お土産に絵を、贈りたいって言っていたけれど……」

「うん。メデューサへのお土産にするんだ」

「……なんで、似顔絵を贈りたいの?」

「うーん。そうだねー」


 青年からの質問に、ジェンティレスはどう答えるかしばし思案した。メデューサの事をそのまま話してしまえば、彼女が怪物だと気づかれてしまうのかもしれない。しかし、それらしい嘘も思いつかずに、ジェンティレスは大切な所をぼかしながら話した。


「えっとね、僕が似顔絵を上げたい相手は、いつも目隠しをして暮らしているから、僕の顔を見たことないんだ。でも、似顔絵を渡せば、自分の部屋で目隠しを取った時に、それを見ることが出来るんじゃないかなって思ったんだよ」

「えっ……、その人は、目が見えないわけでは、無いんだよね?」

「うん。そうだよ」


 あっけらかんと何でもないように、ジェンティレスが頷いたので、青年もそれ以上追及出来ずに、目を泳がしていた。


「そっか……。……あと、君にとってその人は、どんな人なの?」

「僕は、赤ちゃんの時からメデューサに優しくしてもらったから、多分お母さんみたいに思えるんだ」


 そういったジェンティレスは、青年に屈託のない笑顔を見せた。

 青年は、目の前の少年には母親がいないのか、目隠しをした状態でも子育ては出来るのかなど、効きたいことが沢山あったが、「……そう」とだけ言って、キャンバスの前に戻っていった。


 その後は、二人とも一言も発せずに、青年は絵に集中し、ジェンティレスは膝の上に手をのせてじっと座っていた。太陽は完全に沈んでしまい、青年の真横に立っていたガス灯に火を灯されたころに、似顔絵は完成した。


「……これで、出来上がったよ」

「ほんとに!?」


 ジェンティレスは勢い良く立ち上がると、イーゼルからキャンパスを取り外した青年の元に駆け寄った。

 そして、青年と共に絵を覗き込む。そこには、屈託のない笑顔を浮かべる、鉛筆で描かれた自分の絵があった。


 ジェンティレスは息を呑んだ。自分が自然に笑ったのは、メデューサの印象を話していたあの一瞬だけだった。

 それを青年は切り取り、生き生きとした似顔絵にしてくれたのだ。


「ありがとう! えーと……」


 絵の作者の名前は、キャンバスの隅の方に書いてあると聞いたことのあったジェンティレスは、青年の名前を確認すると、彼の方を見上げた。


「グアッシュさん!」

「あ、いや……どうもいたしまして」


 青年はぼさぼさの頭を下げて、ジェンティレスに絵を手渡した。


「おーい、ジェーン」

「あ、イノン!」


 そこに丁度土産の入った袋を大量に抱えたイノンが戻ってきた。ジェンティレスはすぐに彼の元へと走っていく。


「見て、イノン! 絵が完成したよ!」

「おお。そっくりだな。……ありがとうございます」


 似顔絵を見て関していたイノンは、青年の方に顔を向けて、頭を下げた。


「あっ、いえ……」


 青年も気恥しそうに顔の前で手を振る。


「じゃあ、ジェン、そろそろ帰ろうか」

「そうだね。もう暗くなってきちゃったね」


 二人は会話を交わすと、そのまま踵を返した。


「……え、あれ……」


 ゆっくりと歩を進める二人の背を見て、ようやく青年は彼らから口頭の礼しか言われていなかったことに気が付いた。


「……あの、お金……」


 確かに最初から、無料か有料かは相談していなかったのだが、そう簡単には納得できずに、画家・グアッシュは消え入りそうな声で呟いた。






   ☆






 夜もすっかり更けたころ、ホテル・トロイメライのホールにはいくつかの円卓が出されて、怪物たちそれぞれ好きなようにそれを囲んでいた。

 しかし、いつものように怪物たちのどんちゃん騒ぎは行われず、皆静かで妙に大人しい雰囲気が漂っている。


 この時間は台所に入りっぱなしのホテルのコック、ゴブリンのギギ・ローム、ググ・ローム、ゲゲ・ロームの三つ子は、料理を作る気力が起きずに、暗い顔で椅子に座っていた。


 同じ席にいる人造人間のライオット・ダイナモも口数が少なく、視線は下を向いている。


 幽霊のルージクト・カドリールも不安そうな笑顔でふわふわと円卓の周りと飛び、時折玄関の方まで行ったり来たりしている。


 吸血鬼のユーシー・ゲネラルプローべと死神のクレセンチ・レイジアと悪魔のレンガ、一つの円卓を囲んでポーカーをしているが、今一つ盛り上がりに欠けている。


 今日はジェンティレスとイノンがいないから仕方ないと、メデューサはぽつぽつと話声が聞こえてくるだけのホールを見回す。

 同じ円卓に座っている狼人間のウルル・トロイデも、普段はラム酒を開けている時間の筈なのに、今日は大人しく椅子に座り、円卓の上に顔を伏せている。


「……ジェンとイノン、遅くない?」

「そうねェ」


 テーブルの縁から聞こえてきた、低いウルルの声に、メデューサも頷いて出入り口の扉を見た。


 彼らは朝から人間たちの暮らす街へと出かけた、ジェンティレスとイノンとの帰りを待ち侘びていた。

 一度、レンが扉を開けて入ってきた時は、二人が帰ってきたのかと全員立ち上がったほどである。その直後、顔を出したレンに皆落胆し、深い溜息を吐きながら席に着いた。


 レンは全く悪くなかったけれど、間が良くなかったのだと、メデューサは斜め前の円卓で、肩身の狭そうにワインを飲むレンの方を見た。


「なあ、あいつらはまだ帰ってこないのか?」


 不貞腐れた顔を上げたウルルがメデューサに尋ねる。それに対して彼女は溜め息を吐いた。


「もう少し我慢しなさいよォ。その質問、さっき言ったばっかりじゃないのォ」

「そう言ってもさー。なんか、そわそわするんだよ」

「……その気持ち、分からなくはないけれどねェ」


 眉を顰めたウルルの言葉に、メデューサも肯定する。


 ジェンティレスが人間の町に行ってみたいという願望を口にした時から、怪物たちにはある不安が付き纏っていた。

 それは乱暴に一言でまとめてしまえば、町に行ったことがきっかけでジェンティレスがこのホテルから出て行ってしまうのではないかという危惧だった。


「そういや、オーナーは今日の事、知ってるのか?」


 ふと、ウルルは今日も自室にこもったままのオーナーの事を思い出して尋ねた。


「もちろん知ってるわァ。イノンが話したら、『そうか、いいじゃないか?』って言ったらしいけれど、あまりいい顔していなかったようねェ」


 メデューサの話に、ウルルも大きく頷く。


「きっと、オーナーはジェンよりもイノンが町に行くことが、気になるんだろうな」

「ワタシもそう思うわァ」


 このホテル中で誰よりも人間を恨んでいるオーナーだったが、ジェンティレスの事はあっさり受け入れてくれていた。

 しかし、その一方で、ジェンティレスがきっかけで、他の怪物たちが人間と関わりを持つようになっていることを快く思っていないようだった。


 それからしばらく、二人とも黙り込んでしまったが、頬杖をついたウルルが再び静かに語りかけてきた。


「なあ、メデューサ」

「なあにィ」

「もしも、ジェンが町で暮らしたいって言ったら、どうする?」

「……」


 少しでも彼女の気分を明るくさせようと微笑んでいたメデューサの口元が、一瞬で真顔に戻った。


 この問題を、メデューサは出来るだけ考えないようにしていた。しかし、実際にジェンティレスが町に行ってしまった今、もう避けることは出来ないのだろう。少し考えて、彼女は口を開いた。


「ワタシは……きっと、ジェンの背中を押して、満面の笑みで送り出すわァ。でも、部屋に戻ったら、目隠しを取って大声で泣くと思うのよォ」


 それは、いつものらりくらりと冗談で物事を躱してきたメデューサの、珍しい本心であり弱音であった。


 赤ん坊の頃から、一番ジェンティレスに接してきたのはメデューサであるため、彼に対しては実の息子のような愛情を持っていた。

 よって、ジェンティレスが深く考えた上での決断ならば、文句なしに彼を応援しようと、ジェンティレスが町に息たちと言い出したあの夜に、無意識で決意していた。たとえそれが、彼女が一番望んでいない未来だとしても。


「そうか。あたしなら、きっと泣き叫びながら、ジェンの足にしがみついていると思うよ」


 ウルルはそう語って、にっと歯を見せて笑った。

 メデューサもつられて笑みを浮かべた。しかし、その反面、自分にいつも正直なウルルの強さが、羨ましくもあった。


 その時、扉のノブがガチャリと動き、ホールにいた全員が一斉にそちらの方を見た。


「みんな、ただいまー」


 入ってきたのは、たくさんの荷物を抱えて無邪気な笑顔を見せるジェンティレスと、少し疲れた顔で同じくジェンティレスよりも多くの荷物を持ったイノンの二人だった。


「おかえり、ジェン!」


 椅子を倒す勢いで立ち上がったウルルは、真っ直ぐジェンティレスに向かって飛んできて、抱き着いた。


「わわっ、ウルル危ないよ」

「こっちにおかえりはなしか」


 驚いて荷物を落としそうになっているジェンと、その隣でイノンは呆れたような声で言う。


 それまで生気のない表情をしていた他の怪物たちも、それぞれ立ち上がって、皆笑顔で三人の元へと集まってきた。


「おかえり、ジェン、イノン、結構、遅かったね」

「悪かったな。本当は帰りも箒を使いたかったが、荷物が多くて、歩いて来たから遅くなった」

「はいライオット、お土産の革靴と、新しい鋸。丁度欲しいって言ってたよね?」

「ありがとう、イノン」

「帰ってきた!」「待ってました!」「舞い戻った!」

「ただいま、ギギ、ググ、ゲゲ! 新しいレシピの本を持ってきたよ!」

「それから、食材もいろいろ持ってきたから、遠慮せずに使ってくれ」

「感謝!」「ありがたや!」「恩に着る!」

「おかえり。町はどうだったか?」

「すごく楽しかったよ! ユーシー、色々準備してくれてありがとう。この灰皿、使ってね」

「大事に使えよ。煙草もあるから」

「おお、俺の好きな銘柄、覚えてくれたんだな。ありがとう」

「おかえり。なあ、ジェン、町に行って、良かったか?」

「そうだね、クレセ。……うん、良かった、と思うよ。まだ、よく分からないけれど」

「色々あり過ぎて、一言では言い表せないよな。それより、土産の飴だ」

「それもそうだな。いや、何でもない。ありがとう」

「おかえり。広場には行ったか?」

「レン……広場には行ったけど、すぐ出ちゃった、ごめんね」

「あれは仕方なかったからな。それより、上質なワイン持って来たんだが、どうだ?」

「これは産地も年代も申し分ない。礼を言う」

「…………」

「ただいま、ルージクト。ルージクトにも、お土産があるよ」

「この花、後で部屋に飾っておくよ」

「……」

「ああー! ずるいぞ、みんな! あたしへの土産は!?」

「ウルル、遅くなってごめん。もちろんあるよ!」

「ほれ、ラム酒。いつものよりも高い奴だから、大事に呑めよ」

「おうおう、分かってんじゃねーか。ありがとよ」


 騒がしい怪物たちは、自然と好きなように散っていった。二人の帰宅にほっとしたら、空腹を感じてきたようで、土産を大切に抱えながら夕食にしようかと話している。


 ずっとジェンティレスの隣にいたイノンも、ウルルに連れられて、その場から離れていった。

 そして、扉の前には、最後に現れたメデューサと、イノンだけになっていた。


「ジェン、おかえりなさいねェ」

「ただいま、メデューサ。遅くなって、心配かけちゃって、ごめんなさい」

「それはもういいのよォ」

「それから、これ、メデューサへのお土産」


 ジェンは、最後まで小脇に抱えていたキャンバスをメデューサに手渡した。

 メデューサはそれが絵だということは分かったが、平面を読み取れずに小首を傾げた。


「ありがとう……でも、これは、何の絵かしらァ」

「これはね、ぼくの似顔絵だよ。町の画家さんに書いてもらったんだ」

「……」


 笑顔のジェンティレスからの説明に、メデューサは言葉を失った。ジェンティレスは、自分が彼の顔を決してみることが出来ないという孤独を、いつの間に感じ取っていたのだろう。


 メデューサは、ゆっくりとキャンバスを抱きしめた。彼女が「ジェンティレス」という名前に込めた願いを、静かに思い出していた。


「ジェン、本当にありがとうねェ。いつまでも大切にするわァ」

「うん!」


 「優しい」少年は、力強い笑みで頷いた。

 騒がしさを取り戻したホテルのホールの中で、メデューサとジェンティレスの二人だけが、心地よい沈黙を守っていた。








 明け方、ホテルの怪物たちがここの部屋で眠りにつく頃、メデューサだけは目隠しを取った自分の瞳で、ジェンティレスの似顔絵を飽きることなく見つめ続けていた。
















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