第三章 ホテルの怪物たちと退魔師
その一
ある、凍てつくような寒さの、新月の冬の夜だった。
ホテル・トロイメライのホールのドアを、開ける者がいた。
その者は、ランプを片手に持ち、一筋の光もない真っ暗なホールの中を微かに照らし出した。
その、ランプを持った者は、一人の少女だった。真っ白い騎士のような服装に身を包み、ベルトの左側には、ハチの針ように細い聖剣を吊るしている。
黒く長い髪を揺らして、深い緑の瞳を鋭く光らせながら、辺りを見渡した。
一見何もいないようだが、邪悪な気配がそこかしこから漂ってくる。油断ならない状況に、少女は緊張の面持ちで、一歩一歩足を踏み出して行った。
少女の名は、リム・サクラメントと言った。若干十四歳の、退魔師である。
この日、リムは退魔師として認められてからの初仕事で、このホテルに潜むという噂の怪物たちを一網打尽にしようとやって来た。
しかし、想像以上の数と力を持つ怪物たちのようだ……リムは、真冬だというのに流れ出た汗を拭った。
リムが足を踏み出すたびに、かちゃかちゃと腰の剣が音を鳴らし、ホールの中で反響する。
ホールの真ん中に辿り着くと、彼女は立ち止まった。耳を澄ませても、何も聞こえない。
だが、何かが確実に息を殺して、この中にいる。痺れを切らしたリムは、天井に向かって叫んだ。
「いつまでこそこそ隠れているんだ! いい加減、姿を表せ!」
「そうか。じゃあ、お言葉に甘えて」
リムの背後、すぐ耳元で、男の声が囁いた。
リムはとっさに剣を抜くが、振り返るよりも早く、男がリムの首筋に噛みついていた。
血が男の口に流れ出ていくと同時に、リムの体から力が抜けていった。
最後に、自分の手から剣が落ちる音を聞いて、リムは意識を失った。
☆
「……だから、ほんとに…この子が……」
「……しかし、聖剣は……本物だ……」
「……ちゃんと……銀でできて…た……」
「……見たことが無いほど……立派な聖剣で……」
すぐ近くで、誰かが会話している。ぼんやりとそう思いながら、椅子に座っていたリムは目を開けた。
「お? 目を覚ましたか?」
目の前に座る黒いスーツの男が、気軽にそう話し掛けてきた。彼の口には、二本の鋭い牙が覗いている。
いつの間にか準備されていた男とリムの間にある円卓や、他の円卓の上には火のついた蝋燭が立てられていたが、それ以外の明かりはなく、まだ薄暗かった。
靄がかったような思考がはっきりしてくると、リムはやっと男の後ろに怪物たちが勢ぞろいしていることに気が付いた。
「お、お前ら!」
リムは立ち上がり、剣を引き抜こうとしたが、
「あ、あれ?」
腰には何もなかった。
「おい! 私の聖剣はどうしたんだ!」
「ああ、それは危ないから取り上げた」
「と、取り上げた……?」
目の前の男が軽々しい調子でそう言ったので、リムは体中の力が抜け、元いた椅子の上に座り込んだ。
あの聖剣は、リムにとっては無くてはならない、相棒と呼ぶべき存在だった。他の退魔師と比べるとずっと腕力の劣るリムのために、細くしなやかに、しかし聖なる力を持った銀でできた、刺突用の特別な聖剣だ。
これが無いと、リムは怪物たちを倒すことができない。
彼らの様子を見ると、聖水や聖灰などの武器も取られてしまったのだろう。どうやって怪物を倒せばいいのか、そもそもここから逃げることもできるのか……絶望のあまり、リムは頭を抱えた。
そんな彼女の様子など気にせずに、男はわざとらしい明るい声で話しだした。
「そういえば、まだ名乗っていなかったな。俺は、ユーシー・ゲネラルプローベ。吸血鬼だ。君の名は?」
「……お前たちに名乗る義務などない」
「ふーん。リム・サクラメントっていうんだ。可愛らしい名前だな」
ユーシーという吸血鬼は、いつの間にかリムが本物の退魔師ということを証明する羊皮紙を持っていった。
「返せっ!」
リムはカードを奪い返そうと跳びかかったが、円卓の縁にぶつかって、その上に倒れこんだ。
ユーシーは呆れ顔で、痛みのためしばらく動けずにいるリムを見下ろしていた。
「あんま無茶すんなよ。危ないぞ? ……えーと、歳は十四か。まだまだ子供じゃないか。おい、ジェン、お前と同い年だぞ!」
「ほんとに! やったー!」
ユーシーが振り返って声を掛けると、奥の暗闇から少年の声がした。
その邪気のない声に、リムは驚いた。
「まさか、人間がいるのか!」
「ああ、そうだ。なあ、ジェン、そうだよな!」
「うん、ぼくは人間だよ! ジェンティレスっていうんだ。ジェンって呼んで! リムちゃん、友達になろうよ!」
ジェンティレスと名乗った少年の、怯えを全く見せない言葉にリムは目を丸くした。そして、ユーシーを鋭く睨んだ。
「お前ら、少年を誘拐してきたのか……」
「いや、ジェンは赤ん坊の時にこのホテルの前に捨てられていたんだ。それから、このホテルで育てられた」
「うん、そうだよー」
「嘘をつくな! 魔法や催眠術によってそのように錯覚させているのだろ!」
「えー。本当のことなのに……」
ジェンティレスが落胆した様子で言うと、ユーシーは再び後ろを向いた。
「ジェン、話がややこしくなりそうだから、しばらく静かにしておこう」
「はーい」
二人の会話を聞きながら、新たな仕事が増えたとリムは感じていた。ここから脱出する際に、あの少年も一緒に連れ出そうと、リムは決意を固めた。
しかしまだ、どうやって脱出すればいいのか、見当もついていない。
ユーシーはリムの方へと向き直ると、怪しく笑いかけた。
蝋燭の火が、彼の吐息で微かに揺れる。
「さあ、そろそろ本題に入ろうか……なぜ、このホテルに来た?」
「問わなくても分かっているだろ? お前たちを、退治するためだ」
「どうして退治しようとする? 俺たちはここで平和に暮らしているだけで、何もしていないぞ?」
ユーシーはおどけたような顔になり、大きく肩をすくめた。
リムは彼のわざとらしく空とぼけた表情に、冷笑を漏らす。
「ふっ、平和に暮らしてる? 笑わせるな。お前たちはこのホテルにやって来た旅人達を、一人残らず虐殺し、食っているのだろ?」
「まーた、そんな根も葉もない噂が出て来たな」
ユーシーは顔をしかめて腕を組むと、椅子の背もたれに持たれた。
「確かに、俺たちは迷い込んで来た旅人を脅かしている。だけど、それ以上のことはしていない。殺すことはもちろん、傷付けたることもしていない。食べるなんてもってのほかだ」
「本当にそうなのか?」
リムは、まだ疑いの目を向けてくる。
むきになったユーシーは、身を乗り出して円卓の上に両手を置いた。
「じゃあ、なんでそんな噂が流れているんだ? 一人残らず殺して食べているのなら、誰も証人なんていなくて、そういう噂も流れないんじゃないのか?」
「そ、それは……」
リムは言葉に窮した。
それでも構わずに、ユーシーは早口で続ける。
「リムはどうやってその噂を知った? 旅人から聞いたんじゃないのか? その旅人は、俺たちが脅かした旅人から、ホテルのことを聞いたんじゃないのか?」
「しっ、しかし、退魔師の協会の中でも、このホテルのことは有名になっているぞ」
「なら、余計に俺たちが何もしていないことになるな。退魔師の間で有名でも、実際に退魔師が来たのは今日が初めてだ。俺たちが人を傷つけたり殺したりしていないのを知っているから、退魔師たちは今までホテルのことを放っておいたんじゃないのか?」
揚げ足を取ったユーシーは、意地悪く笑いながら椅子に座り直した。
リムは悔しさのあまり、ぐぐぅと歯ぎしりをする。
「なら、先輩の退魔師たちは、ここの怪物たちを恐れて、何も手出しできなかったのではないのか?」
「なるほど、その可能性は十分にある。そんな先輩の腰抜け退魔師に代わって、新人のリムは怪物退治にやって来た。そして、見事に返り討ちにあった。そういう訳だな」
ユーシーは右手で、リムの証明書をひらひらと揺らした。
他の退魔師たちがこのホテルに手を出さない理由を話していたつもりが、いつの間にか自分に屈辱を与えられていて、リムは黙ったまま顔を真っ赤にさせた。
「私を……私を一体、どうする気だ……」
リムは強く唇を噛んだまま、改めて辺りを見渡した。
ユーシーの右には、中肉中背で白いシャツに布ネクタイを締めた赤毛の男が立っていた。彼は人間と変わらない見た目をしていたが、流れ出る強い魔力を隠そうとしない。
ユーシーの左には、タキシードにシルクハット姿の長身の男が立っていた。その真っ赤な瞳が、彼が悪魔である事を物語っている。
その後ろには、黒いマントに黒いフードで顔の半分を隠し、大鎌を背負った死神が立っていた。その顔はリムの方へ向けられ、その口元はずっと笑みの形を保っている。
反対側には、薄手のドレスを着た髪の毛が蛇の女が、目隠しを付けた顔をこちらに向けている。彼女はテーブルの上に座り、すらりとした足を優雅に組んでいた。
その後ろ、三人のゴブリンが、テーブルの上に横に並んで座っていた。なぜだかコックの格好をした彼らは、灰色の痩せ細った手足で体を支え、黒い小さな目でじっとリムから視線を逸らさない。
死神の背後には、淡く白い光に包まれた、透けるような白髪の幽霊の少女が円卓の周りを漂っていた。力がとても弱いように見えるが、満面の笑みを絶えず浮かべていて、何やら余裕を感じ取れる。
ゴブリンと幽霊の間、吸血鬼の真後ろには、体中がつぎだらけの、片目が白目で、両手両足の長さの違う歪な形をした大男が立っていた。彼が何者だが分からないが、そのがっしりとした体つきは伊達ではなさそうだ。
そのまた後ろの右側には、灰色の癖毛に金色の目をした背の高いメイド服の女性が不自然なまでに背筋を伸ばして座っており、反対には先程のジェンティレスという少年が、人懐っこい瞳を向けていた。
ただ、静かにそこにいるだけなのに、肌がひりひりと痛むような迫力が、彼らにはあった。聖剣も武器も何もない状態で、この怪物たちに勝てるはずがないと、リムは固い表情で息を呑んだ。
「俺たちは、人間を傷つけたり殺したりしないことを、信条や美学としている。たとえ相手が退魔師でもな。だが、そのままお前を解放しても、また出直してくるだろう。だから、お前がこのホテルの連中に対する敵意が消えるまで、このホテルに置くことにした」
「正気なのか?」
リムは上擦った声で聞き返した。ユーシーは苦笑を浮かべる。
「ああ、正気さ。けど、嘘をついても無駄だぞ。この魔術師が見破ってしまうからな」
ユーシーは、自分の後ろに立つ赤毛の魔術師を親指で示した。
リムは、あえて余裕があるように、鼻で笑ってみせる。
「その程度の脅しでいいのか? 私がお前たちの隙をついて逃げ出して、助けを求めることも可能なんだぞ」
それを見て、ユーシーは口元を押さえて、くつくつと低い声で笑った。
「おや? リムは忘れてしまったのか? ……さっき、俺に首を噛まれたことを」
リムははっとして、自分の首筋を触った。確かに、二つの傷跡が縦に並んでいる。
「吸血鬼に噛まれたものは……どうなるかは、退魔師ならよく分かっているよな?」
口元は笑ったまま、ユーシーの目が、鋭く冷たい光を放った。
リムの顔から、段々と血の気が失われていく。
「だけどまだ、お前は吸血鬼になっていない。ああ、安心するのは早いぞ? 逆に言えば、俺が今、吸血鬼にするのを止めている、つまり、俺がいつでもお前を吸血鬼にすることができるということだ」
リムは青白い顔のままで、何も言い返せなかった。退魔師である自分が、彼らと同じ怪物に仲間入りしてしまう。恐怖や侮辱を通り越して、頭が真っ白になった。
ユーシーは円卓の上に、リムの羊皮紙とホテルの部屋の鍵を無造作に置いた。
「リムの部屋は二一〇号室だ。疲れているんなら、ベッドで寝てくるといい。丁度、ジェンが隣の二一一号室だからな、もし何かあれば相談しても構わない」
リムが円卓の上に手を伸ばした時、ユーシーが「ただし」と声を掛け、彼女の手はぴたりと静止した。
「もし俺たちに歯向かおうとしたならば……俺たちは容赦しない」
ユーシーが蝋燭の火を握りしめて消した。
ホールが完全な闇に包まれたわけではないというのに、リムは奈落の底に落ちていくような心持がした。
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