大森林のエルフ編 第7話

 「森のざわめきが消えた……」



 エルフの里の神殿で、一人祈りを捧げていた森エルフの巫女・アーセリアンは朝から騒がしかった森が静寂を取り戻したことに気づき、その美しい面を上げた。



 (騒ぎの原因は取り除かれたのかしら。それとも、誰かが、取り除いた?)



 森が余りに騒がしいので、神殿で瞑想をしつつその騒ぎの原因を探っていたのだが、もうその必要は無いようだと判断し、彼女はゆっくりと立ち上がる。

 その脳裏に浮かぶのは、幼なじみの美しきエルフ。

 今や、その美貌は失われたが、それでもなお、彼女の心の片隅に常にある存在。



 (シェズェーリア。あなたなの?)



 心の中で、そう問う。だが、同時にそんなはずはないとも思った。

 森エルフであるアーセリアンと違い、シェズは闇エルフ。

 闇エルフの耳は森エルフほど優れておらず、彼らの耳に森の声が明確に届くことはない。

 森の木々の声を正確に聞き取り、理解できるのは森エルフの中でも一部の優秀な者達だけ。

 中でも巫女であるアーセリアンは、特にその能力に長けていた。

 長けていた、はずだった。


 だが、最近、彼女の巫女たらしめんとするその能力に陰りが見え始めていた。

 幼い頃は呼吸をするより簡単に行えていた森の木々との交信が、最近は身の潔斎をし、瞑想をしてやっと、と言うことも多い。

 己のなにがいけなかったのか……最近、以前にも増して落ちてきた己の能力に、そんなことを考えることも多くなった。


 最初に己の能力の衰えを感じた瞬間ーそれはもしかしたらあの瞬間だったかもしれない。

 醜い嫉妬にかられ、己が誰よりも信じていたはずの幼なじみを陥れたその瞬間。


 あの時はまだ、今ほどの衰えは感じなかった。

 ほんの少しの違和感だったから、気のせいだと思おうとした。

 だが、長い年月が積み重なり、僅かな違和感が確かな違和感に変わり、気がつけば明らかに能力を減じた己がいた。



 (どうしましょうね。このままじゃ、そう遠くはない未来、完全に役目を果たせなくなるかもしれないわね)



 そう思いながらも、彼女は自分から役目を退くつもりは毛頭なかった。

 この大森林のエルフの里における巫女の役割とは、すなわち森とエルフの共存の仲立ちをするというもの。

 だが昔はともかく、今やこの役割など、もはや儀礼的なものに等しい。


 だったら、能力があろうと無かろうと、もう関係ありはしない。

 ほかに巫女を継ぐべき能力者がいない今、たとえ力を失ったとしても、自分が退く理由などありはしない、とアーセリアンは思う。


 結局、巫女に一番ふさわしいのは、この里で一番美しい自分。

 己こそが巫女であり続けるべきなのだと。


 神聖なはずの祈りの間で、彼女は清らかな巫女に相応しからぬ、ほの暗い笑みをその口元に浮かべる。

 彼女は気づいていない。

 自分の考えがひどくいびつにゆがんでしまっているということに。

 そのゆがみが、悪を呼び込む温床となりうることを。


 だが、彼女がなにも気づかないまま、事態は最悪の状況を作り出す。


 光にあふれていたはずの場所が不意に暗くなり、彼女は不思議そうに顔を上げた。夜が来たわけでもないのに、どうして、と。

 不安げに周囲を見回し、振り向いた視線のその先に、いつの間に入り込んだのか、一人の男がいた。


 黒い髪に血のように赤い瞳。

 顔立ちは恐ろしく整っているが、その耳の先は丸い。

 どうやらエルフ族ではないらしい。

 まあ、耳を別にしても、彼の持つ色合いは、エルフ族の中で見ることのない色合いではあったが。


 アーリシアンは吸い込まれるようにその男の赤い双眸を見つめ、思う。

 あれは、良くないものだ、と。

 だが、そう感じてもなお感嘆に値するほど、その男は美しかった。



 「いったいどうやって入り込んだのかしら?ここは選ばれた者しか入れない場所。罰を受けたくないなら、早々に立ち去りなさい」



 彼女の忠告の言葉を受けてなお、男はうっすらと口元に笑みを浮かべたまま、ゆったりとした足取りで彼女の方へと近づいてくる。

 本来、この神殿に入れるのは巫女であるアーセリアンと、エルフの長老衆、そして巫女を守るための守人だけ。

 ただ人が入り込めないように見張りも配置されているはずなのに、この男はどうやって入ってきたのか。エルフですらない存在が。


 そんな彼女を見つめ、男がにぃ、と笑う。

 禍々しくも魅力的なその笑みに、アーセリアンは自分の体がぶるりと震えるのを、まるで他人事の様に感じた。


 喰われてしまうーなぜかそんな思いが頭に浮かぶ。

 自分は魂まですべて、この男に喰われてしまうのではないか、と。


 だが、不思議と嫌悪感はなく、気が付けば彼女は恍惚とした眼差しで目の前に立つ男を見上げていた。

 見れば見るほど美しく、危険な香りのする男。

 今まで彼女の周りには、いたことのないタイプだった。



 「巫女よ、気がついているか?」



 低くて艶やかな、官能的とも思える男の声が、巫女の耳朶をくすぐる。



 「気づく……何に?」



 うっとりと男を見上げたまま、巫女は反射的に言葉を発する。

 そんな彼女の頬を、男の長い指がなぞるように撫でた。

 ぞわり、と背筋が震え、巫女は漏れそうになる吐息を堪える。


 そんな彼女は気づかない。

 今の状態がどれだけ異常かと言うことを。


 いつもの彼女なら、見知らぬ相手をここまで近づけることなど決してなかったはずだ。

 美しく魅力的なのに、猜疑心が強く、人を信じない。

 今の彼女に対する評価はおおむねそんなもの。

 昔は素直だったのに、どうしてこうなったのかと年を経たエルフ達がみな首を傾げ、ため息を漏らす中、彼女は周囲を簡単に信じないことで、巫女たる己の地位を盤石なものとしてきた。

 彼女は相手を信じず与えず、だが存分に相手を利用する。


 それでも、若い世代のエルフ達は、彼女の美しさと当たりの柔らかさに誤魔化され、自分がただ利用されているなどとは気づかない者も多かくいた。

 そうした者のほとんどが、彼女の美貌と口当たりのいい言葉の虜となり、彼女の信者がその数を減じることは無い。


 故に、彼女の信者はかなりの数に上り、長老衆の中には、それを危険視する声もたびたび上がってはいた。

 しかし、彼女を巫女から引き下ろそうにも、後継となる人材は無く、支持者が多く隙を見せない彼女をどうにかする手だては、今のところ何もありはしなかったのだが。


 そんな、強い猜疑心を持つ彼女が、初対面の相手が近づくのを許容し、さらには肌さえ許すなど、そんなことは彼女が正気であればとうていあり得ないことであった。


 だが、彼女は気づかない。

 今の自分がどれだけ無防備であるかと言うことに。

 もうすでに、彼女は相手の術中にすっかりはまりこんでいた。



 「気づいてないのか?可哀想に。見せてやろう、裏切り者が、おまえに黙って幸福を得ようとしているぞ?」



 彼は、巫女の腰を力強く抱き寄せ、そしてもう片方の手を宙に滑らせた。

 彼の手が描いた軌跡を追うように、虚空にぼんやりとした映像が映し出されるのを見て、アーセリアンは目を見開く。


 そこには、忘れもしない彼女の幼なじみが映っていた。

 片目を眼帯で覆っていてもなお、香り立つ美しさを失ってはいない、憎くて愛おしい友・シェズェーリア。

 その映像の中で、彼女は嬉しそうに、気恥ずかしそうに微笑んでいる。

 その微笑みの、なんと幸せそうで美しいことか。


 ぎり、とアーセリアンは唇を噛みしめる。


 不幸そうな顔をしているのなら、同情の一つでもしてやれた。

 だが、彼女は不幸どころかむしろ幸せそうに見える。

 その原因はきっと……


 アーセリアンは、かつての友から視線を引きはがし、その傍らへと目を向ける。

 シェズェーリアと手をつなぎ歩く、その人物へと。


 そいつは、まだ幼そうに見えた。背が低く、体が細い。

 さほど背の高い方ではないアーセリアンの傍らに置いたとしても、その背が彼女を超えることはなさそうだった。

 まだ、子供だ。耳も丸く、エルフではない子供。

 だが、その子供は、今までアーセリアンが見た誰よりも美しく、そして生き生きとしていた。


 その少年の色違いの瞳は、色合いこそ違うものの、かつてのシェズェーリアを想わせる。

 並びあい、手を取り共に歩く、まるでつがいの様な二人に、アーセリアンは胸の奥がじりじりと焦げ付くのを感じた。


 ぎりり、唇を噛む。

 すると、ぷつり、と唇が切れ、赤い滴が彼女の唇をぬらした。


 それを見ていた男は目を細め、満足そうに微笑む。

 その指先が彼女の唇をなぞり、血の滴を口紅の代わりとして、彼女の唇を赤く色づかせた。

 可憐でありながら、毒々しくも美しいーそんな彼女を見つめ、



 「うらやましいか?かつての友が」



 その耳元に、毒を吹き込む。



 「うらやましい……?そうなのかしら?よく、わからないわ」



 目の前の映像から目を離すことなく、ぼんやりとアーセリアンは答える。

 うらやましいのか、うらやましくないのか、正直よくわからない。

 だが、胸の奥がちりちりと焦げ付いている。



 「憎いのだろう?その裏切り者が」



 耳に吹き込まれる毒に、彼女は首を傾げる。

 憎いのだろうか、彼女が?よくわからないー再びそう思おうとして、ふと気づく。胸をこがす黒い炎が、先ほどより勢いを増していることに。

 そして思う。もしかしたら……



 「そうね。憎いのかも、しれないわ」



 彼女は呟くように言葉をこぼした。

 憎しみの向こうに、別の感情が何か、ある気もする。

 だが、少しずつ燃え広がる黒い炎は、何かわからないその感情を確かめさせてはくれなかった。

 そんな彼女の視界の隅で、男の手がすっと伸びてある一点を指さす。映像の中で、憎い相手と共に歩く、美しい子供を。



 「アレが、欲しいだろう?」


 「そうね……欲しいわ」



 素直に、そんな言葉がこぼれた。

 彼女をあんなに幸福そうな顔にさせることが出来る存在。

 それならばきっと、己にも幸せを運んでくれるに違いない……彼女は盲目的にそう信じた。

 それが目の前の男に、操られた結果だと気づくこともなく。



 「ならば手に入れろ。お前なら、出来るだろう?」


 「私なら……でも、私には力が足りない」



 男の言葉に、彼女は力なく首を振った。


 日一日と、彼女の能力はその威力を減じていく。

 力はどんどん失われていく。

 指の隙間から、砂がこぼれ落ちていくように。


 そんな自分に何が出来るというのか……彼女のそんな言外の言葉を察したかのように、男が優しげに微笑んで彼女の頬を撫でた。

 そしてそのまま顎を持ち上げ、彼女の艶やかな唇を親指でなぞる。

 官能を呼び起こすようなその仕草に、彼女の瞳がとろりと緩み、最後の理性さえも失われていく。



 「お前の神が力をくれないのなら、俺が与えてやろう。誰にも負けない、万能の力を」


 「万能の、力……」



 どうすれば?と見上げてくる女に、男が答える。ただ、俺を受け入れればいい、と。

 そして、女はそうした。


 男の唇が彼女の唇を覆い、ふうっと吹き込まれる何か。

 その瞬間、アーセリアンの中の黒い炎が燃え上がり、彼女は思わず苦痛の呻き声を上げた。

 だが、その苦痛はすぐに治まり、後に残るのは何とも言えない開放感だけだった。



 「気分はどうだ?」



 問われた彼女はにぃ、と笑う。今までの彼女なら、決してしなかった笑い方。

 僅かな禍々しさすら感じさせるその笑みに、男は満足そうに口元をゆがめた。



 「気分?最高だわ。生まれ変わった気分よ」



 今まで彼女を悩ませていた諸々の悩みはどこにも見あたらず、あるのはただ万能感。

 今の自分になら、何でも出来る気がした。

 唯一、森の声を聞くこと以外は。


 男を受け入れたその瞬間、森は彼女を拒絶した。

 だが、いっさい聞こえなくなった森の囁きになど、もはや未練は無かった。

 なぜなら彼女は、それに勝る強大な力を手に入れたのだから。



 「まずは、手始めに大森林を封鎖してみろ」


 「大森林を?」


 「お前が求めるあの子供は、龍の峰を目指している。おめおめと逃がしたくはないだろう?」


 「そうね。檻の中に閉じこめて、ゆっくりと、捕まえればいいわね」



 男の言葉に頷いて、彼女は口元に笑みを張り付かせたまま、歩み去る。大森林の封鎖を実行するため。

 本来であれば広大な大森林を封鎖するのは容易ではない。

 だが、アーセリアンには、巫女に伝えられた秘伝の宝玉と術があった。


 それは、大森林に悪意ある手が伸びた時のための最終手段。

 実行すれば大森林は、内からは出られず、外からは入り込めない、鉄壁の迷宮と化す。


 彼女はそのまま、男を振り返ることなく、神殿の奥へ消えていった。

 今の彼女の中に、男の面影など欠片も残ってはいない。

 彼女の頭の中にあるもの、それはただ色違いの瞳を持つ輝かんばかりに美しい子供の姿だけだった。



 「……さすがは腐っても太古から大森林を支配するエルフの巫女。一度では羽化させられなかったな」



 そんな彼女の背中を見送って、男がぽつりと呟く。

 実験動物を見つめるような、冷徹な眼差しで。



 「だが、まあいい。あの状態でも、十分に役にたってくれそうだ」



 しかし、すぐに気を取り直したように男は口元に笑みを浮かべ、まだ目の前に映し出されたままの映像を見つめた。

 正確には、そこに映る、希有な美しさの少女だけを。

 焦がれてやまない相手の笑顔を見つめ、男は長い指先をその頬へそっと伸ばした。

 だが、その指先が彼女の頬へ触れる前に、じじっと音を立てて映像は乱れ、彼女の姿はかき消すように消えてしまう。

 その名残を惜しむようにしばし虚空を見つめ、男は伸ばした手を引き寄せると腕に残されたまだ消えぬ傷跡に唇を落とした。

 それはかつて愛しい少女の手によってつけられたもの。彼の体に残された唯一の痕跡だった。



 「……きっとすぐ、会えるよ。雷砂。もう少しの辛抱だ」



 待っててね?と男はつぶやき、うっとりと微笑む。


 その日、大森林に、黒い種がまかれた。

 そのことを、雷砂が知るのはまだ先のことになりそうだった。

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