第3話


深く吐いた息の音が、今度ははっきりと聞こえて。

彼は、倒れたパイプ椅子を引き起こす。


そのまま跪いて、散らばった資料を一枚一枚拾い上げていく。

伏せた額の上で、前髪が揺れているのが見えた。




「嫌だったならごめんね、謝るよ。」




散らばった紙の山が、みるみる彼の手に収まっていく。




嫌とかじゃ、なくて。

気づいてしまった、だけ。



まだ暗い部屋の中、温もりに目を覚ませば、彼の厚い胸の中だった。

少し動けば、ギュッと無意識に私を引き寄せる腕の力を。


幸せだと感じた、自分の恋心に。






“ヤッてしまった”

忽ち、打ちのめされるような後悔が湧き上がった。


岩田さんにとって、“ヤッちゃった”人になるのだけは、嫌だった。

なかったことにするしかないと。重たくないフリをするには、それしかないと。



気怠い身体を引きずるようにして、部屋を逃げ出した。


















四角を綺麗に整えて、彼は立ち上がった。

分厚い紙の束を、片手で差し出す。

昨日生身に感じた彼の香りが舞って、胸が締まった。




『…あ、ありがと』


「過ちなんて言うなよ、傷つくんだけど。」




彼が捨てるだけになった紙を、手放さないから。

私も情けない期待を、まだ手放せない。


力を込めて、紙の束を引くと。

彼はやっと、手を放した。




『…酔ってましたから、仕方ないですよ。』


「澪は酔ってたよね。俺は全然、酔ってなかった。」




“澪”

また呼ばれた、名前に。

彼の革靴の先が、滲んで見えそうになって。




「酔いに任せた、フリをしただけだよ。」




強く強く、唇を噛んだ。




『…なんでもう、そんな期待させることばっか言うんですか。

忘れるから、大丈夫だってば…』


「忘れさせない。」


『忘れさせてよ!』




頭に、柔らかい温もりが降ってきた。




「忘れさせない。」





本当は、ずっと。

この低く響く声も、大きな手の平も。


心苦しくなるほどに、欲しいと思ってた。





「そんな簡単に、忘れるなんて言うなよ。」




負けてしまう。

手の平から通じる、彼の温かさに。


溶けた心は、瞳から溢れ出す。






『なんなのもう…岩田さん、私のこと好きなの?』


「好きだよ。」




きっと、今私グチャグチャだ。

こんな顔で見上げたくなんてないのに、反射的に顎が引き上がった。




『なんて?』


「だから、好きだって。」




なんで泣くんだよ、と。

小さく笑って、私の頬をなぞる。




『か、簡単に好きなんて言わないでよ、しかもこんなところで!』


「だから、朝までいてって言ったじゃん。」




鼓動が跳ねた音が、聞こえた。




「話を聞かずに帰ったのは、澪の方だ。」






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