頭虫

 私は一人になるために、川沿いのコンクリートに一人腰かけました。膝を抱えながら、川面を見ると私の姿が映ります。私の頭の上には無数の小さな黒いものが蠢いていて浮かんでいます。

 春から夏にかけて、川沿いの道を歩いていて、ふと気づくと、頭の上に蚊柱ができていることがあります。正体はユスリカの雄の群れで、その中にメスが一匹飛び込んで交尾相手を探すのだそうです。なぜか人の頭の上を好み、ついて回るので、それを子供のころ、私は「頭虫」と呼んでいました。

 今、私の頭上には常にこれがあります。一年ほど前から発生し始めました。外にいても、建物の中にいてもそれが消えないのです。家では私と、母の頭の上に出来ています。母は家の中に閉じこもりで、買い物は私と父とで分担していました。近所の人の目を気にして、母は人前に出ようとはしません。近所の人は母を揶揄して「蚊柱さん」と陰で呼んでいるからです。

 私のクラスで、私の頭の上のことはもはや誰も触れてきません。慣れもあるのでしょうが、おそらく禁忌タブーになっているのだと思います。新任の教師がいじろうとすると、どこからともなく生じた咳ばらいがそれを遮るのです。異様な光景だろうと自分でも自覚しているので、私は身をすくめるばかりです。ほんとは私も人前に出たくないのです。

 放課後、周囲の視線を気にしながらも、私は買い物を終え、少し寄り道しました。独りになりたいとき、私はいつもこの川辺に行くのです。私はそこで想像をめぐららすのです。楽しい学生生活。みんなと遊んだり、恋の話をしたり…。しかし、川面に映る自分の姿を見て、

 (畜生、これさえなければ)

 と、頭虫が浮かんでいる自分の姿に向かって、石を投げるのでした。

 あーあ、と私は一つため息をついて、腰を上げました。家に帰ると、母が出迎えました。

「お帰り、遅かったね」

 私は無言で買い物袋を差し出しました。母はそれを受け取ると夕食の準備をするために台所に向かいました。私は着替えをするために自分の部屋に向かいました。途中台所をふと見ると、頭の上に大量の頭虫が浮かんでいる母がまな板で野菜を刻んでいました。

(まったく! 食欲が落ちるじゃない)

 私は自分の不機嫌さを示すべく、階段を、わざと音を立てて登りました。わたしの憂鬱はこの家にいるかぎり晴れません。もっとも、どこにいたって同じですが、とにかく母の姿を見ると、自分の鏡に映った姿を見るようで、落ち込むのです。

「ご飯、できたよ」

 と、母の呼ぶ声が階下から聞こえてきたので、私は無言で階段を降りて行きました。別に母に罪はないのです。いじけている自分に自己嫌悪しながらも、決して明るく振る舞えない現状を嘆きました。

 こんな私にも、友達が一人だけいます。彼女は割と大雑把な性格で、タブーになっている私の存在に気兼ねしないで近寄ってきたのです。彼女は私の頭虫に視線を送ることなく私と会話をしてくれています。それが気遣いなのか、天然なのかはわかりかねますが…。

 夕食後、その友達から電話が来ました。彼女と夜に話し込むのが私にとっての息抜きでした。話す内容は大したことないのです。要するに女子高生同士の会話です。長電話の終わりごろ、彼女が提案してきました。

「ねえ、明日、放課後、一緒に行ってほしいところがあるの」

 そこは私が落ち込んだ時によくいく河原でした。私は訝りました。何の話だろう? なんかいやだな。でも、私は明るく電話口に答えました。

「いいよ」

 翌日、私はその子と連れ立って河原に行きました。着くなり、彼女は私に面と向かって言いました。

「あんたのそれ、それってさあ…」

と、私の頭虫を指して言いました。来た、と私は思いました。彼女は深刻な表情を作っています。やがて意を決したポーズを見せてから、こう続けました。

「私、思うの。あんたのそれって、川岸でよく出るあれでしょ? ここに来て、ダッシュすれば離れると思うの。だってこいつらのもとの居場所なんだし」

(うわ、最悪。こいつ天然のばかだ。あーあ、こんなのと友達付き合いしてたのか)

 と、私は表情や態度を一切変えることなく、心の中で頭を抱えました。もういいや、と思って、私は投げやりな気持ちになりました。私は彼女の両肩をつかんで言いました。

「よく見て」

 私は少し屈んで、彼女の目の前に私の頭虫の群れが迫るようにしました。彼女は咄嗟に避けようと後ろに下がろうとしました。私はなおのこと力を込めてさらに言いました。

「見ろってんだろ、このばか!」

「ヒッ」

 彼女は微動だにしなくなりました。固まっています。私はそれを確認すると、手を放してやりました。それでもまだバカみたいに突っ立っていました。

 彼女は私の頭虫の正体を知ったのです。私の頭の上を飛んでいるものは虫ではなくて、亡者の群れなのです。大量の人の形をしたものが私の頭の上を飛び交っているのでした。なぜ亡者とわかるか、というと、その中に知った顔があるからです。私の祖父母や近所のおじいちゃん、おばあちゃん、小学校の担任、遠い親戚等々…。

「ギャー」

 と、叫び声をあげて、彼女は腰から崩れ落ちました。顔から血の気が引いていて、目を見開いています。さすがに薬が効きすぎた、と思い、少し気の毒になりました。

「さおり…ごめんね驚かしちゃったね。でもこれが真相なの」

「わわわ」

 と、意味不明な音を発しながら、さおりは不恰好に四つん這いになって逃げて行きました。私はそれ見て思わず吹き出しました。さおりはおそらく明日から学校を休むだろう。もしかしたらそれっきりかも…。

 あーあ、また一人ぼっちだ、と私は思いました。それからちょうど良いので、またいつものように膝を抱えて水面を見つめ始めました。しばらく見つめていると、私は気づくことがあって、すぐに家に帰らねばなりませんでした。

「お母さん、お母さん!」

 私は母を呼びながら、家に入りました。急いで伝えなければいけないことがあったからです。

「なに?」

「お父さん、戻ってきたよ」

 私は頭上を指さしました。父は生活に嫌気がさしてこの前出て行ってしまったのです。それ以来この家は私と母の二人きりでした。母は近づいてきて頭虫の群れの中に父の姿を確認すると、つぶやきました。

「あら、なんでわたしじゃないんだろうね」


 大量の亡者が私の頭上で蠢いている。こいつらは次の転生を狙って虎視眈々と私が身籠るのを狙っているのです。

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