皇都セントレアへ
暫くすると階下から足取りも軽くアイシュが階段を昇って来た。
その手にはトレーがあり、パンと果物がそれぞれよそおった皿と、瓶に入った飲み物が乗っていた。
ともすれば鼻歌を歌いだしそうなほどアイシュは上機嫌だった。
二階フロアーに到達したアイシュは、そこから見えるマサトの部屋の前で立ち尽くすユファを見止めた。
彼女は感情の伴わない表情で、ただ部屋のドアをじっと見つめて立っていた。
「ユファ…」
彼女に声を掛けるアイシュ。「どうしたの?」とは聞かなかった。何故なら何となく理由を察する事が出来たからだ。
「アイシュか。ご苦労だな」
ユファもアイシュを見止めて微笑みながら返答した。しかしその顔は何処か寂しそうな、悲しそうなものだった。その声にアイシュは首を振って答えた。
ドアの前に立つ二人の少女。傍から見れば少しおかしな光景だった。この時このフロアーの廊下を誰も使わなかったのは幸いだった。
「私達これからどうしよう?」
暫し無言でドアを見つめていた二人だったが、その沈黙を破ったのはアイシュだった。
「どうなるの?」ではなく「どうしよう」と言う言葉からアイシュの決意が感じ取れる。
「そうじゃな。とにかく皇都セントレアへ帰還するのが最善ではあるが…容易ではあるまい」
その問い掛けにユファの口にした答えは現状での最終目標だった。
「…そうだね」
しかしアイシュはその返答に異を唱えなかった。
途中の行程がすっぽりと抜けた回答。皇都セントレアへ向かう事はアイシュも承知している事だった。知りたかったのはユファが言葉を濁した近々の行動予定だった。
だがそれも結局、マサトの判断一つだ。彼女達が決定出来る事では無い。
「どのみち我らはマサトの奴と一蓮托生じゃ。あやつの決定に付き従うよりほかは無い」
今のユファはマサトを仮宿としている。容易に離れる事は出来ない状況だ。そしてアイシュもマサトから離れるつもりは毛頭なかった。
「うん」
ユファの言葉に、アイシュは強く頷いた。
「もしマサトが腑抜けておったらアイシュ、お主はどうする?」
続けてユファからアイシュへと、少し意地の悪い質問が投げ掛けられた。
「マー君はそんなヘタレじゃないですよーだ。でもそうね…」
こちらも答えが解り切った質問だった。
「もしマー君がそんな状態だったら、お尻を蹴飛ばしてシャキッとさせるしかないわね」
アイシュが本当にマサトの尻を蹴飛ばす様な女性とは思えなかった。また言葉からはマサトを元気づける事の様に感じられた。
しかしユファは見てしまったのだ…。彼女の少し弛んだ口元を…。
ゴクリッ…
自分から話題を振っておいてとんでもない物を見てしまった様に感じたユファは思わず生唾を呑み込んだ。
「フフフッ…冗談よ」
やや青ざめた表情のユファに、アイシュがいつもの笑顔を向ける。
「私はマー君がどんな状態でも、ずっと一緒に歩んでいくって決めてるの。他の道は私には無いわ」
その表情を見て、ユファは軽く溜息を吐きながら微笑んだ。
彼女だけでは無い。ユファ自身もマサトの決定に従うつもりだった。
その結果、もし彼がこの戦乱から目を背けるならば仕方が無いとも感じていた。
そのせいで彼女の守って来たこの世界が崩壊しようともだ。その時はまた最初から造り、見守っていく以外にはない。
千年かけて築き上げた世界は無駄となってしまうのは惜しい気もするが、また千年かけて作り上げれば良い。
何故なら彼女は無限の時間を有しているのだから。
「アイシュ、ユファ、すまない。入って来てくれ」
その時ドアの中からマサトの声が聞こえた。
両手のふさがっているアイシュが目でユファを促し、彼女がドアを開けて二人は仲に入った。
「二人とも、ドアの前で待たせてすまなかったな」
入って来た二人を見止めたマサトから声がかけられた。いつもの声音、そしていつもの笑顔。
だがその目は充血し、少し泣き腫れていた。
カチャッ…。
手に持っていたトレーをテーブルの上へ置いたアイシュがマサトに近づく。
「お…おい、アイシュ…な、何を…」
そして彼の頭をそっと抱きしめた。突然の行為に顔を真っ赤にして慌てふためくマサト。
「マー君。良いんだよ…良いの。無理しなくても良いんだからね」
そんなマサトに、アイシュはそっと呟いた。その言葉を聞いたマサトは、ビクリと体を硬直させて動きを止める。
「…ありがとう、アイシュ」
暫くの間その状態が続いたが、マサトのその言葉にアイシュがそっと彼を解放する。
「だけど今は無理をする時だと思うんだ。この状況の変化に何もしないで置いて行かれる事が一番まずいと思うし…何よりも何かしている方が、気が紛れるんだ」
彼女はマサトの言葉を聞いてゆっくりと数歩離れた。
「うん、そっか」
そして柔らかく優しい笑顔で微笑んだ。
「それよりもアイシュ。お前は大丈夫か?無理してるんじゃないか?」
今度はマサトがアイシュを気遣う言葉を投げ掛ける。あの夜の事件で大切な人を無くしているのは彼だけでは無いのだ。
「ありがとう、マー君。私は大丈夫。お父さんとお母さんにはもうお別れを言ってあったから…」
彼女はそう言って再び笑顔をマサトに向けた。
彼女の言う通り、あの夜、戦禍の最中にマサト達と合流したアイシュはすでに両親と別れを済ませていた。少なくとも彼女はその時そう言っていたのだ。
ただ、理屈ではそうであっても、感情まで納得させられるのは難しい。
「お前こそ無理するんじゃないぞ」
それが解るマサトだから、殊更彼女を気遣ったのだ。
そんな二人のやり取りを、微笑ましそうにユファは見つめていた。
軽い食事を終えたマサトは、改めて二人に向かい合う。食事が終えるのを彼女達はマサトの傍らで待って居たのだ。
「まず確認したいんだが」
神妙な顔になったマサトがまず顔を向けたのはアイシュだった。
「今のお前はどんな状態なんだ?確かあの夜…その…体は…」
本人を目の前にしてはマサトも言い辛そうだった。
あの夜の戦闘で、アイシュの体はチェニーのエクストラ魔法に呑み込まれ消え去ってしまった。
しかしノーマン家の秘術、魂と精神と魔力を自ら切り離し結晶化させる『魔魂石化』を行使してこの世に生を繋ぎ止めている筈だった。だがその後彼女がどういう状況で存在しているのかマサトは知らなかった。
「マー君が寝ている間に『聖霊化』は済ませてる。この体も含めてだいたいユファと同じ様な状態だと思って貰って構わないよ。マー君の精神に潜り込む事も出来るし、ガイストを出す事も出来るわ。だけど彼女と違って私の本体は…これなの」
そう言って彼女はポケットから深紅の宝石を取り出してマサトに渡した。
掌に収まる程の美しい宝石は、常にキラキラと煌きを放っている。
「これが…アイシュ…?」
その宝石を眺めて、マサトはポツリと呟いた。俄かに信じられない事だ。
「ユファはマー君と繋がって魔力の回復をしてるけど、本体は別の所にあるらしいの。私はマー君じゃなくてその宝石と繋がっていて、魔力の回復は普通の人と同じ様に行えるわ。だけどその宝石が消滅しちゃったら私の存在も無くなるの。だから肌身離さず持っていてね」
神妙な面持ちで頷くマサト。両手で包み込んだ宝石を大事そうに見つめた。
「ほんとに…ごめんな…アイシュ…」
マサトは項垂れて呟いた。彼にしてみれば、あの夜アクティブガーディアンの責務を果たしきれていれば、彼女をこの様な姿にする事も無かったと言う想いがあるのだろう。
「これはそなたの責任では無い。アイシュの判断で行った事だし、そうしなければ間違いなくこやつは消滅しておった。刹那の判断としては最良だったと言わざるを得ん。英断じゃった」
腕を組んで目を瞑りそう話したのはユファだった。確かにエクストラ魔法に晒された瞬間の判断としては、彼女の行動はあの場で取れる最良の物だったのかもしれない。アイシュも頷き彼女の言葉に同意する。
「兎に角この話はここまでじゃ。マサト、お主の気持ちも解らぬではないが、今は話さねばならない事、決めねばならぬ事がまだあるのだしな」
アイシュの魔魂石を見せられて気落ちするマサトの思考を切り替える様にユファがやや大きな声でそう言った。
「ああ、そうだな」
この言葉にマサトは顔を上げて同意した。
マサトが眠っていた二日と言う時間は決して短い物では無い。すでに十分出遅れていると言って良かった。
彼が後悔や悲哀の念を噛みしめるのは今では無いとユファの言葉が物語っていたのだ。
「まずお主が倒れてからの事を簡単に説明する。イストを除くこのオストレサル大陸にある十の自治領はイスト消滅と共に侵攻を受け全て占領下に置かれた。このスツルト自治領を除き、全ての自治領はその統制下に置かれておるらしい。そしてその日の正午、ガルア自治領は名称をガルガントス魔導帝国と改名しそれらの事実を全世界へ向けて公表したのじゃ」
そこまで一気に話したユファは、ここで一旦一息入れる。
マサトにしてみれば初めて聞く事実であったが、それほど衝撃を受ける物では無かった。
何故なら、ある程度の事はガルガントス魔導帝国十二聖天、チェニーピクシスの口から聞かされていたからだ。
ガルア自治領がガルガントス魔導帝国を名乗りセントレア魔導皇国に宣戦を布告する。
しかし同時にこの大陸にある自治領を攻略していたと言う事実には驚かされていた。しかも即日占領する等、ガルガントスの計略は想像を超える物だった。
「他の自治領に被害は出てないのか?イストの様に…その…」
消滅させられた自治領は無いのか?と問いたかったが、その言葉を発する事が躊躇われた。目の前でイスト消滅の場面を見せられたマサトにしては一種のトラウマなのだろう。
「全く出ておらぬ。恐らく、いや間違いなくイスト自治領の消滅を見せつけてからの侵攻で被害を最小限に抑える目論見だったのじゃろう。そしてそれは最高の効果を上げた様じゃ。イスト自治領は他の自治領を攻略する為の『見せしめ』じゃったのだろうな」
「見せしめだと!」
淡々と話すユファの話をマサトの怒声が遮った。膝元にシーツを握った拳が怒りで震えている。
「落ち着け、マサトよ。お主の怒りも良く解るが、戦争とはこの様な理不尽が当たり前にまかり通る物なのじゃ。その事について考えを囚われてもどうしようもない事じゃぞ」
怒り心頭のマサトをユファの冷静な言葉が宥める。
「あ、ああ…そうだな…すまない」
マサトも全てを納得した訳では無い。ともすれば怒りの矛先はこの話を淡々と続けるユファに向きかねなかった。だが今彼がすべき事は、この場で喚き散らす事では無い事も理解していた。
大きく息を吐き自身の感情を強制的に抑え込むマサト。
それを見てユファは話を続ける。
「占領された十自治領の内、このスツルト自治領のみが自治を認められておる。今日一日を見る限りでは生活レベルに支障は起こっていない様じゃな」
そしてこの事実にもマサトは驚きを隠せなかった。スツルト自治領はイスト自治領と同じく、最もガルア自治領、現ガルガントス魔導帝国に近い自治領だ。イストがあの様な結果になったにも拘らず、一方のスツルト自治領には全く被害が出ていないのだ。
「自治だって?ガルガントス兵の駐留もないのか?」
このオストレサル大陸で、まったく手つかずの自治領があると言う事が意外だった。
「見渡した限りでは確認出来ておらぬ。その件で詳しい発表はされておらぬからあくまでも推測じゃが、恐らく何らかの取引を持ち掛けたと考えるのが妥当じゃな。以前からこのスツルト自治領領主カムラン=エンフィールドは頭の切れる人物じゃった。彼の提案をガルガントスが受け入れたのは事実じゃろう。もっとも、連絡要員や管理官位は置いておるじゃろうがな」
ユファは目を瞑り、両手を体の前で組んで思い出す様に語った。
「じゃあここに居る限りは安全なのか?」
ユファの推測を是とすれば、少なくともこの自治領にガルガントス魔導帝国の手が入る事はすぐにはなさそうだった。
「そうね。あれから二日経ってるけど、このホテル内にも不穏な空気は流れてないわ。ここは安全地帯だって思えるわね。今は…だけど」
最後にそう注釈してアイシュが話を受け継いだ。その言葉に頷いて、ユファが更に話を続ける。
「ただし自治領への出入りはしっかりと検閲されておる。他の自治領への往来は厳しく制限されている状況じゃな。今はガルガントスもオストレサル大陸の掌握に労力を割かれておりこの自治領に目を向ける可能性も少ないが、落ち着いたら事態が動くやもしれぬ。いつまでもここに留まる事が良策とは言えぬな、それと…」
ここで言葉を切ったユファは、次の言葉を切り出すのに
そんな彼女の手を取って、アイシュが言葉を受け継ぐ意を示した。ユファの目を見つめ頷くアイシュ。その合図にユファも頷いて返した。
「あのね、マー君。今までにイスト自治領方面から逃れて来た人は…いないの」
アイシュは顔を曇らせて絞り出す様に呟いた。イスト自治領で生まれ、暮らして来た彼女にとっても言い難い事実の筈だった。
「そうか…」
だからマサトの返答もそれ以上続かなかった。
それにエクストラ魔法によるあれほどの爆発から逃れる等到底無理な様に思われた。
それが解るだけに、アイシュの言葉は驚くほど受け入れる事が出来たのだ。
「して、これからの行動じゃが…」
しんみりとしてしまいそうな雰囲気に歯止めをかけたのはユファだった。
「皇都セントレアへ向かおう」
ユファの言葉を受けて、マサトは力強く言い切った。
元より他に選択肢は無い。少なくともこのオストレサル大陸にガルガントス魔導帝国の息がかからない場所は無いのだ。
それにユファを皇都セントレアへ送り届ける必要がある。
現状ユファとマサトは大きく離れて行動出来ない。ならば目指す所は皇都セントレア以外あり得なかった。アイシュもユファも、彼の言葉に大きく頷いた。
「その言葉に異論はない。我としても願ったりじゃ。しかし現実的にどうやってセントレアへ向かうのじゃ?交通の要所は全て押さえられておるぞ」
各自治領を繋ぐ列車、道路はガルガントス魔導帝国によって厳しく監視され制限されている。イスト自治領の生き残りであり、アクティブガーディアンであり、皇女ユファと行動を共にするマサト達が安易に通過出来るとは思えなかった。
「非管理区域を通ろう。道が整備されていないし魔獣も出るけど…他に道は無い」
マサトのこの言葉はある意味予想された物だった。彼女達も異を唱える事無く頷き同意する。
「それには準備が必要ね。出来る限り用意を整えないと」
「それに情報も可能な限り必要じゃな。今の我らは何も知らないに等しいと言える。どうにか有効な情報を得る必要があるの」
そして彼女達から次々と意見が飛び出す。それらを出来うる限り早急に準備しなければならない。
「ただ…あまり現金の手持ちが残ってないの…このホテルにもあと数日しか泊まれないと思う…」
それは
「俺の口座にはある程度の貯金があったと思う。ただ…」
あれから二日。ガルガントスが至る所へ手を回すには十分すぎる時間だ。その中には当然、金銭の動きを制限する物も含まれる。
魔力で個人を特定するATMは各自治領の至る所に設置されている。しかし利用した途端に居場所を特定されるのは得策では無い。だが他に手段が無いのも事実だった。
「ふむ。賭け…じゃな。このスツルト自治領は未だガルガントスの手が入っていない。そのはずじゃ。じゃが結果として居場所が知れるのも前提で動くしかないの」
確かに今、準備不足で動き出すのは危険すぎる行為だった。居場所が特定されるにしても、ある程度準備出来るのならばそれに越した事は無かった。
「私も貯金があるんだけど…この姿でお金引き出せるのかな?」
今までに前例のない状態のアイシュに明確な答えを提示出来る者はいない。
「魔力識別型個人認証システムで必要なのは魔力の波長だけじゃ。恐らくその姿でも問題あるまい」
あくまで可能性だがユファはアイシュにそう告げた。個人の有する魔力は、指紋や網膜と言った物以上に個人を識別するに適している。個々で波長が完全に違うだけでなく、それを模倣する技術は今の所確立されていないのだ。
「じゃあ明日は朝から行動を開始しよう。出来れば明日中にこの自治領を出たいところだな」
そう言ってマサトは話を締めくくる。
「それじゃーマー君はもう少し休んでて。私とユファで必要な物をリストアップしておくから」
目覚めたばかりのマサトは未だ万全の状態とは言い難い。何よりも今はまだ深夜だ。行動しようにも制限が多すぎた。
「それじゃあそうさせて貰うよ」
その申し出を素直に受け取ってマサトは体を横たえた。
目を瞑るマサトだが到底眠れそうにないと思っていた。新たに聞いた事実に驚き、怒り、悲哀した。そして明日から取る行動を思うと気分が高まっている。
しかしベッドの近くで論議している彼女達の声を聞いている内に、マサトの意識は微睡の中に落ちて行った。
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