夢を描く
横浜伊勢佐木町の商店街の隅に、小さな立て看板がある。それには『あなたの今朝の夢、描きます』と書いてあった。明け方の夢は起きた途端に雲散霧消してしまって記憶に残らない。ただ雰囲気だけが残る。時には涙を流すこともある。でも思い出せない。なんとなく悔しい思いがする。それを絵として具現化してくれるのだ。料金も税込五百円とリーズナブルだ。だから店はいつも盛況だ。
「では次の方、どーぞ」
絵を描くのはフランスから流れてきて十五年。日本語ペラペラのフランス人、クロワッサンだ。
「まずはあなたのおでこを見せてください」
客が髪の毛をあげ、おでこを見せる。
「ちょっと失礼」
クロワッサンはおでこに触れる。
「うん、分かった」
クロワッサンはA4のケント紙にさらさらと絵を描く。
「できました」
クロワッサンは絵を見せる。
「あなたは天国に行った愛犬のポチに会いました。けれどもポチには新しい飼い主がいて、あなたに飼ってもらうことができません。ポチは人間の言葉で『ごめんね』と言いました。ポチと新しい飼い主はロケットに乗って宇宙の彼方に消えました」
客は、
「そうそう、そうだった。だから私、悲しくて泣いたんだわ。枕がびしょびしょだった」
と言って満足そうに絵をもらって帰って行った。
次の客は見るからに悪そうでした。
「おでこを見せてください」
とクロワッサンが言うと、
「わしはパンチパーマや。でこなんぞ最初から出てるわ」
と威嚇しました。
「怖いことするならば出て行ってもらいます」
クロワッサンは気丈に言った。
「スマンスマン、これが本業だからな。ついでてしまう。あんたには何もしないよ」
顔に傷をつける格好をして男が言った。
「ではおでこに触れます」
男は今度は我慢した。
「分かりました。今、絵にします」
クロワッサンは熱心に絵を描く。そして、
「あなたは中学時代の初恋の人に会いました。彼女は中学生のままでしたが、あなたは今のあなたでした。だから声もかけられず、青春の終わりを感じて涙したのです」
「そうだ。そんな夢だった。あの頃は純粋だったな」
男は涙しました。クロワッサンは男におしぼりを渡した。そういう客が多いので常備しているのだ。
「ありがとう」
男は涙を拭いて、修羅の道に戻って行った。
最後の客は不意に現れた。
「いらっしゃいませ」
「実は不思議なことなんだがね。わしの見た夢は現実になる。だが今日に限って夢を忘れてしまった。一つ思い出させてくれ」
「かしこまりました。ではおでこを触らせてください」
「ああ、どうぞ」
クロワッサンはおでこを触った。そして言った。
「この夢は思い出さないほうがいい。お帰りください」
「そうか、そんなにひどい夢か?」
「口に出しては言えないものです」
「すまなかったな」
そう言って客は出て行った。
それからすぐ、クロワッサンは病気で死んでしまった。彼は一体、何を見たのだろうか。今となっては分からない。
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