一人で幸せに 4/6 ~被告人、悠~
詩織が大食堂で待っていると、黒川君は予定より十分程早く、女の子を一人連れてやってきた。真田ありささんと言って、彫刻の研究室でいつも美紀と一緒に作業をしているそうだ。西園寺さんとの一件で、詩織はすでに顔見知りにはなっている。
彼女によると、美紀は彫刻研究室にいる時も、さらには通常の授業の時でさえも、彼氏から呼び出されているらしい。美紀はその都度大急ぎで彼氏の元に向かい、疲れ切った顔をして帰ってくる。それがこの一か月ほどは特に酷いようだ。美術専攻の友達は美紀の事を心配しているが、本人が何も話してくれないため、手をこまねいているらしい。
詩織が二人に、悠から聞いた岡本食堂での彼氏と美紀の様子を話して聞かせると、真田さんは激しい憤りを見せた。
「昨日?! あの子、昨日も急に呼び出されたの。それで大急ぎで片づけて、ツナギのまま着替えもせずにすっ飛んでったのに、それを馬鹿呼ばわりなんて、ふざけすぎでしょ! しかも食事代まで支払わせるとか、ほんっと何なの?!」
「呼び出されて、何の話したんだろうね。美紀って彼氏に振り回されるタイプにも見えないけど…。垣沼さんは、昔から友達なんですよね? 今までどうでした?」
詩織と美紀とは小学校からずっと一緒だ。詩織が知っている交際は今回を除いて二回。
一回目は中学二年から高校一年の春まで。二回目は高校二年から大学一年の夏までだ。通う高校、大学が別になった事で、上手くいかなくなったらしい。二回とも、美紀の方には気持ちが残っていたのに一方的にフラれ、しばらく引きずっていた。ちなみに、どちらの彼氏にも浮気されている。
大学一年の夏に別れた時には元カレに悪口をふりまかれ、高校時代の多くの友達とは疎遠になってしまった。
「ろくでなしばっかり! そんなダメ男に惹かれちゃうようじゃ、一生幸せになれないでしょ。絶対別れさせるべき!」
真田さんはどんどん語気が強くなっている。それを黒川君がそれとなくなだめながら、テキパキ話を進めていった。
「まあ、まだ彼氏がどんな人かは断片的な情報しかないから、決めてかかるのはよくないよ。でも、授業とか彫刻やってる時に抜け出していく事自体は美紀も本意じゃないだろうから、みんなそれが心配だって事は美紀に伝えておこう。俺も、今の状況は何とかした方がいいと思う。かわいそうだしね。垣沼さん、美紀の話聞くとしたら悠さんも呼べます? 直接彼氏を見てる悠さんがいてくれる方がいいと思うんで。定食屋だと多分、定休日とかありますよね」
「うん。明日。毎週水曜日」
「よかった。明日、私も美紀も彫刻やるって事になってるの。午前中に連れてくる」
「俺も午前中なら何とかなるな。じゃあ垣沼さん、急な話になりますけど、もし悠さん来られるなら、お願いしましょう」
「うん。今日悠に聞いてみる。定休日は基本ヒマみたいだから大丈夫だと思うよきっと」
これで明日美紀と話をする事は決まった。あとは悠に予定を聞くだけだ。
…いや、だけではなかった。その前にやる事がある。
*
悠がアパートに帰ってきたのは昨日と同じ、十時半。詩織が亮太の話を聞いておいてくれているだろう。亮太はもう寝ているはずだから、詩織のアドバイスを聞いて明日亮太にもう一度お説教を…と悠は思っていたのだが、家に入ると、亮太はまだ起きていた。
「お帰り」
亮太の声は何だか無表情と言うか、感情を感じさせないロボットみたいな雰囲気だ。
「お帰り」
詩織も。ただ、なぜか薄ら笑いを浮かべている。
「ただいま…。ねえ、なんでりょうた、まだ起きて…」
「開廷!」
詩織が手を上げてそう言った。すぐさま悠はピンときた。これは厄介事だ!!
「『かいてー』って何? ちょっと…何これ」
「被告人、そこへ!」
「ひ、被告人?! 私が?!」
悠が詩織の指示に従ってミニテーブルのそばに座ると、謎の裁判がスタートした。
「さて、りょうたさん、今朝の事を話してください」
「公園で穂波に水かけたのは、おれが悪いって言って、許さないって言った!」
「なるほど。悠さん、これは事実ですか?」
―― ……なんで敬語なんだ?
「うん。確かに言った。穂波って、結衣ちゃんだよね? だってりょうた、水かけたって…」
「だってそれは、穂波がおれ達の事ガキって言ったから!」
「だぁから…!」
「静粛に!」
詩織は悠と亮太のやり取りを遮ると、悠に質問をし始めた。
「悠さん、あなたは穂波さん達がりょうたさん達の事をガキだと言って馬鹿にした事は御存知だったわけですね?」
「え、うん。でも、だからって水かけるのは…」
「今朝あなたは、りょうたさん達が水をかける事の是非は判断したのに、穂波さん達が馬鹿にする事の是非には触れなかったんですか?」
「いや、もちろん馬鹿にしちゃいけないけど。でも」
「触れなかった!」
詩織は普段からは考えられない勢いで悠の言葉を遮っている。
「う、うん」
「では改めて。本来、馬鹿にすること自体はどうだとお考えですか?」
何だかこちらの旗色が悪い。
「ねえ詩織…裁判長! もっと公平に…」
「私は裁判長ではありません。りょうたさんの弁護人です」
―― な…! なぜそんなことに……?!
「悠さん、馬鹿にするのはよくない事だと?」
「もちろんそう思ってるよ。でも」
亮太が大声で口をはさんだ。
「思ってない! 絶対思ってない!」
「思ってるよ!」
詩織が「パンパン!」と手を叩いた。
「静粛に願います。悠さん、穂波さん達はなぜ、りょうたさん達を馬鹿にしたと思いますか?」
「え…砂場で遊んでたからでしょ? だからガキだって…」
「悠さんは、砂場で遊ぶのはガキ。つまり、砂遊びは小学一年生には不適切な遊びだと思いますか?」
「ふ、不適切? いや、別にそんな事は…」
「という事は悠さんは、穂波さんたちの『砂場で遊ぶというのは、小学一年生として分不相応に幼稚である』というロジックには無理があるとお考えなのですね」
「え……『ロジック』って何?」
「まあそこはレトリックです」
「え?」
「破綻しているロジックで一方的に馬鹿にされた、りょうたさんのお気持ちはどうだったとお考えですか?」
詩織に押され気味だ。何とか踏ん張らないと。まず、気持ちと勢いだけでも強く出さなければ。
「そりゃ、悔しかっただろうけど! だからって水かけるのは」
「水をかける事の是非をりょうたさんに問う前に! あなたは、悔しい思いをしたりょうたさんの気持ちに寄り添うべきだったのではありませんか?」
―― む…!
「悠さん、今朝の事は、あなたにも非があるのではないでしょうか?」
「いや、私は『水をかけた事を謝れ』って言っただけで! 馬鹿にされたのは可愛そうだって思って…」
このセリフを聞いた途端、亮太が激しく糾弾してきた。
「朝、悠そんな事言わなかったじゃん! おれ、穂波が馬鹿にしたって言ったのに、おれが悪いって言った! 許さないって言ったじゃん!」
「水をかけたのが悪いって言ったの!」
「可愛そうって言わなかったじゃん!」
「思ってたけど! だからって」
「悠さん!」と詩織が大きな声で遮った。
「思っているだけでは相手には伝わりませんよ? それは分かりますよね?」
「え…うん」
「それを伝えなかった事が今回のすれ違いの原因ではありませんか? 大人ですし、まずあなたがりょうたさんに一言謝罪をなさるのがよろしいのではないでしょうか。世の中は強い方が謝らないと丸く収まりませんよ」
「おれの事許さないって言った!」
―― あぁっ! こいつら卑怯だよ!!
結局悠が亮太に謝罪し、改めて水をかけた事を話し合い、今度結衣ちゃん達に謝るという事で話がまとまった。亮太は朝、あんなに納得しなかったのに、今回は妙に簡単に納得したものだ。
亮太を寝かしつけると、詩織は実家から持って来た貰い物の日本酒と瓶詰のウニを取り出した。
「え、すごい…これ、私と二人で飲んでいいの?」
「うん、平気。うちの両親お酒飲まないから」
「……ウニは?」
「うん、平気。ばれない。冷蔵庫の奥で眠ってたやつだから」
―― 平気なの? それ…。
二人は詩織が持ってきたとっくりにお酒を注いで飲み始めた。
「あー美味しい! 本当にいいの? 飲んじゃって。これ結構いいやつじゃない?」
「平気平気。だってさ、うちに置いとくと『古い野菜を全部炒めるぞ。あ、料理酒切らしてる。貰い物の日本酒あっただろ』ってなっちゃうからさ」
「えー、それは確かに勿体ない」
詩織は「そうなんだよ!」という風に人差し指を振ると、とっくりのお酒をグイッと飲み干した。
「あ、私注いであげる。ねえ、さっきの裁判一体何なの? 結構びっくりしたんだけど」
「ありがと。あれはさ…だってさ、りょうたの様子見て、納得してくれそうになかったから。何が納得できないのかなって考えながらりょうたの話聞いてたらさ、理由はかなりはっきりしてたからね。悠に悔しい気持ちを認めてもらえなかったからだよきっと。それを悠が認めてあげればさ、多分こっちの話聞いてくれるだろうなって」
「悔しい気持ちを認めるって?」
詩織はまたグイッと飲み干し、悠にとっくりを差し出した。
「受け止めてあげるって事だよ。悔しかったよね。とか、辛かったよね。とか、悲しかったよね、痛かったよね。ネガティブな感情は受け止めてあげて、安心させるというかさ…」
「ああ…なるほど。でも、あんな裁判にする必要は…」
詩織は舌でウニを口の中に広げながら答えた。
「だってさ、りょうたがあんまり悔しがってたからね。悠が受け止めるだけじゃ足りないかなって思ったんだよ。だからさ、私と二人で言い負かして、少し気持ちをスカッとさせてやる事にしたんだよ」
「スカッとって…人を憂さ晴らしの道具にして! 覚悟しときな。必ずお返ししてやるから」
詩織はまたグイッととっくりのお酒を飲み干して大声で言った。
「いつでも来いっ、返り討ちにしてくれるわ! シュッシュッシュッ! あっは! Ah Hah!!」
―― ……え? まさかこいつ、もう……
後に悠が流しを確認すると、裁判の前に詩織が使ったらしいコップが転がっていた。
詩織は少しすると「ぐでん」と寝てしまった。酔っぱらった状態で家に帰そうとするとふざけて騒ぐので、少し寝かせてやって、醒めてから家に帰した方がいい。
悠は家から出て通路で夜風に当たっていた。夜風と言っても、この季節は別に涼しくも何ともない。ただ、二人で飲んでいた部屋にはエアコンがなくて蒸し暑いし、エアコンがある部屋は亮太が寝ている。
悠は手すりに頬杖をついて考えていた。最近、詩織に助けてもらう事が多い。ちょっと前までは完全に、悠が詩織を助ける、詩織は助けられる、という構図だったのに。ひょっとしたら自分は、詩織に何かしらいい影響を与えて、それで詩織が成長しているんじゃないか。そう考えると、悠は気分が良かった。
しばらくして悠が部屋に戻って詩織を起こすと、詩織は無言でゆっくり体を起こした。
「少し醒めた? 遅いから今日はもう、水飲んだら帰りな」
詩織は眠そうな顔でこっくりとうなずくと、壁を見つめたまま「はっ」と顔のパーツを広げ、ポツリとつぶやいた。
「分かる…」
「え、何が?」
「分かる…鏡を見ずとも、寝癖が立っているのが分かるぞ!」
言い終わってほんの少し間を置き、詩織は「んっふふふ…」と鼻で笑い出した。確かに詩織の頭には、オーストラリアのオペラハウスみたいな寝癖がついている。詩織の笑い方で悠にはピンときた。詩織の酔いは、さっきよりかなり醒めている。
詩織は悠の家をまさに出ようとする時、思い出したように悠に告げた。
「あのさ、明日の定休日ヒマ? 美紀に会って、例の彼氏の事相談しようって話になってるんだけどさ」
「ああ、ヒマヒマ。行くよ。何時?」
「よかった。ありがと。午前中としか決まってないから、取りあえず朝一緒に大学行こう。あのさ、美術専攻の黒川君と池谷さんも一緒だから」
「うん、分かった。じゃあまた明日ね」
詩織はそのまま、持って来た日本酒やら何やらを置いて帰ってしまった。困った奴だが、詩織が一人で野放図に飲むより、こっちに置いて悠が管理していた方が安全かもしれない。結果オーライだろう。ところで
―― ……池谷さんって誰?
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