敗北 6/12 ~事件のはじまり~

 月曜、そして本日火曜の朝も、亮太はおねしょをした。明日もおねしょだったとしても、良かれ悪かれ、それが最後だ。

 いつもと同じように、シーツをはがして、亮太のパジャマとパンツを脱がせて洗濯機に放り込み、布団を干して、亮太をシャワーに送り込む。そしてギリギリの時間で一緒に家を出た。


 悠は一日中、妙な気分だった。もう亮太と一緒にいられる時間は殆どない。時間が早く過ぎて欲しくない。でも仕事は早く終わって欲しい。でも帰るころには夜遅くになっていて、明日がもっと近づいている。どんどん寂しくなる。でも早く会いたい。

 結局仕事はあっという間だった。きっと時間が早く過ぎて欲しくないって気持ちの方が強かったからだろう。これで亮太に会えるのに、悠の気分はちっとも明るくならなかった。


 家に帰ると詩織が亮太の面倒を見ていた。いつも通り。でも今日が最後。

「……お帰り」

 亮太は工作教室以来、なんとなく悠に冷たい。

「悠、お帰り。あのさ、今日泊まってもいい?」

「うん。いいよ」

 三人で一緒に過ごす最後の夜だ。悠はカバンを降ろして、手を洗って、髪留めのゴムを取り外した。

「あ、りょうた、そういえば、明日お母さん何時に来るんだっけ?」

 悠はそう言いながら亮太のそばに腰を下ろした。「そういえば」なんて言ったが、本当は今まで怖くてずっと聞けなかった。もうこの時間になったら、聞くしかない。

 亮太はぶっきらぼうに返してきた。

「夜」

 夜か。少しでも一緒にいられる時間があるならよかった。そう思うと同時に、悠は急に胸騒ぎがし始めた。何だろう? この胸騒ぎは。

「……夜って、何時?」

 詩織は黙って二人の会話を聞いている。実は、悠と同じタイミングで胸騒ぎがし始めていた。

「知らない」

「え? お母さん何て言ってたの?」

「知らない」

 亮太は悠の方を向きもせずに、体育座りのまま、あごを膝に乗せて足の指をいじっている。

「知らないってどういう事? 何かしら言ってたでしょ?」

「言ってない。だって朝起きたらもういなかった」

「りょうたへのお手紙とかなかったの?」

「ない」

「お母さん何も言わないで急にいなくなったの?」

「うん」

「……いつ帰ってくるの?」

「そんなの知らないよ」

 静まり返った。悠も詩織も、今どんな状況か頭では分かっている。でも、割と冷静……いや、頭はからっぽで真っ白だ。沈黙の後、先に悠が立ち上がった。

「警察……家出人捜索願とか出さないと。えっと、電話より直接行った方がいいかな」

 続いて詩織も立ち上がった。

「児童相談所にも通報しないとダメだよ。だってさ、育児放棄だよこれ。立派な虐待だもん。実際三か月音沙汰なしだったんだから。それにさ、お母さんいつ見つかるか分かんないのに、悠と私でこの先ずっと面倒見るのなんて無理……」

「ドガチャン!」と大きな音を立ててミニテーブルが悠のすねに打ち当たると同時に、上に乗っかっていたコップやお皿が転がり落ちて、床に飲み物やサラダがぶちまかれた。亮太が思い切り蹴り飛ばしたからだ。それとほぼ同時に亮太は玄関へと走り出した。

 悠も詩織も、自分達のデリカシーの無さを一瞬にして思い知った。

「あ、あ、りょうた、待ちな待ちな!」

「りょうた、ごめん! ねえちょっと待って!」

 二人は亮太を必死で追いかけて引き止めた。振りほどこうとする亮太を悠が後ろから抱きかかえて言って聞かせた。

「大丈夫。お母さん帰ってくるまで一緒にいよう。ここにいていいから」

 詩織は後ろから悠の肩に手を置いた。「そんなの無理だよ」なんて口には出せない。それに、悠だって言われなくても分かっているはずだ。



                  *



 悠は、やっと目を覚ました。もう昼だ。一人暮らしだから、起こしてくれる人なんて、いない。でも、今日は人が来ている。隣の和室にいるはずだ。立ち上がって、そっちへ向かう。


―― あ、いた。「こっちにおいで」って手招いている。知らない女の人だけどすごく美人。でもこの人、私のお母さんなんだよな。ちょっと甘えちゃおう。


 悠は、座っているお母さんの膝に、頭を乗せた。撫でてもらって、気持ちを落ち着けて、少しの間、目を閉じる。遠くで、鐘が鳴っている。


―― もう鳴り始めた…。行かなくちゃ。いつまでもこうしてるなんて、ダメなやつだから。……もう二十五なのに…私子供だな。


 悠は家を出た。アパートの庭に降りると、ジャン坊はいつもみたいに、川で遊んでいる。二階の通路から、怒鳴り声が聴こえる。詩織だ。ものすごい剣幕で、怒っている。ずっと悠に対して、不満を貯めていたらしい。それは、前から知っていた。怖くて、振り返れない。


―― あんなに怒る事ないのに。なんだよ。でも、本当は悪いのは全部私。それでも謝れない。私、ダメなやつだ。


 詩織を無視して、川まで来て足を水につけた。冷たくて、涼しくて気持ちいい。川に飛び込んでしまおうか。ジャン坊は、悠の周りをぐるぐると、犬かきで泳いでいる。


―― 楽しそう。ボート漕いでる人のオールにぶつかるなよ。死んじゃうから。


 そういえば、家を出る時、鍵をしただろうか。していない気がする。亮太が一人でいるのに、危ない。早く帰らないと、このあたりに最近出る、銀髪の人さらいのお爺さんに、さらわれてしまう。ニューカッスルに連れていかれたら、もう死ぬまで二度と会えない。それに、火口に投げ込まれてしまう。

 悠は、抱えていた鮭を川に投げ返した。


―― せっかく捕まえたのに。岩田さんがっかりするだろうな。私の準備が悪かったからだ。大将にも迷惑かけちゃう…。


 ずいぶん遠くまで来てしまったから、家に戻るには、三十分はかかるだろう。でも悠の足なら、間に合う。

 ところが、走り出そうとした瞬間、体中の骨がスマホのバイブみたいに、振動しだした。倒れ、立ち上がれない。いくらもがいても。


―― 早くしないとりょうたが……連れて行かれる!



 悠は本当に目を覚ました。部屋は真っ暗。自分は汗びっしょり。こっちの部屋にはエアコンがないからだ。背中が凝って痛い。伸びをすると、ポキポキと音がした。

 時計を見ると、もう深夜零時を回っている。詩織は悠の隣の布団で寝息を立てていた。隣の部屋のベッドで亮太が寝ているはずだ。

 亮太はあの後一度も泣かなかった。お母さんといつ会えるか分からないのに。強いって事なんだろうか。

 台所でコップ一杯の水を飲むと、悠は奥の部屋のベッドを覗き込んだ。当然、亮太は眠っている。でも何だか、タオルケットが妙に大きく盛り上がっている。うずくまっているらしい。ひょっとして、今悠達に隠れて泣いているのだろうか。

 慰めてやりたい。そう思って悠はベッドのそばまでやってきた。暗いから何かを踏んづけないように気をつけないと。そこで、ふと異変に気付いた。


 ランドセルがない。


 タオルケットをめくると、亮太ではなく、ポケットティッシュを貯めていた段ボールだった。悠は部屋の明かりをつけ、詩織を起こした。

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