敗北 2/12 ~詩織、悠の異変に気付く~

 夕方五時。詩織は黒川君、美紀、その他の何人かの美術専攻の学生達と話し合いをしていた。今度の日曜日、学内で小学生と保護者を対象にした工作教室を、学生の主催で催す事になっていて、最後の詰めの話し合いだった。

 美術専攻ではない詩織を企画に誘ってくれたのは、この教室で責任者を務める黒川君。ずっと前から詩織の事を高く評価してくれていて、今回は工作を教える役ではなく、工作教室当日の進行や、子供同士、保護者同士のコミュニケーションを促す、当日リーダーを任せてくれた。

 「くれた」とは言っても、当初詩織は自分にできるはずがないと全力で断っていた。それを黒川君が美紀との連携プレーで説得、口説き落としたのだ。


「いそべえ!」


 話し合いが終わった直後、詩織の隣に座った美紀が黒川君を呼びつけた。

「ねえ、詩織メッチャ緊張してんだよ。もう当日まで全員では集まんないし、お前が何か言ってやってくんない?」

 美紀の言う通り、詩織はガチガチになっていた。シャーペンを持っている手が軽く震えてしまう。なにしろ詩織だけ国語専攻で、四日後の当日まで他のメンバーと合う機会はもうない。悠は工作教室の事は何も分からないし、後は詩織が自分一人で、工作教室に向けて心の準備をする事になる。


 黒川君はゆっくり詩織と美紀の向かいに座った。

「大丈夫。いつも通りのしー坊でいれば。君は別に特別な事なんかしなくても、いつも子供の事よく見てるんだからね」

 しー坊というのは最近出来た詩織のあだ名だ。工作教室のメンバーは美紀以外全員、詩織の事をしー坊と呼んでいる。

「道具の使い方とか、そういう事聞かれたら、誰か他のメンバーを呼べばいいよ。出来ない事は手伝ってもらえばいいし、子供への声掛けとかはしー坊が一番だから。だから子供には全員声かけてあげてね」

「うん。ありがとう」と、詩織は笑って答えたが、緊張は全然消えなかった。でも別にそれでいい。詩織にとって今は、心待ちにしているイベントの直前。こんな心地よい緊張は久しぶりだ。



                  *



 六時頃、詩織がアパートに帰ってくると、悠の家のドアの下に、靴が挟まって少し開いたままになっていた。不用心であまり悠らしくない。「悠?」と呼びながら中に入ると奥の部屋から「んん?」と、寝起きのような悠の声が上がった。

「どうしたの? 玄関、靴挟まって開いてたよ?」

 悠はけだるそうに体を起こすと、あぐらをかいて手のひらで自分の顔を撫でた。

「えマジ? ……りょうただな……」

 顔が赤い上に、ビールの匂いがする。詩織が脇のミニテーブルに目をやると、ビールの空き缶と、肉が乗っていたらしい皿、そして袋が開いていないクレープが乗っかっていた。今日の昼食であろう事はすぐ分かるが、ビールは気にかかる。普段ほとんどお酒を飲まないのに、これも悠らしくない。

「ビール飲んだの?」

 悠はあぐらに頬杖の体勢で何も言わずにうなずいた。まだ眠そうだ。

「りょうたは遊びに行ったの? もう六時まわってるよ?」

「え? ……あぁホントだ。翔聖君ちに行ってるんだよ。この時間だと迎えに行かなきゃだよね。平日のこんな時間からビールの匂いさせて、体裁悪いな…。するよね? 匂い」

「うん。あのさ、何かあったの?」

「ビール? 何もないよ。何となく、久しぶりに飲もうかなって」

 悠は精一杯の伸びをして立ち上がると、食器を下げに台所に行った。詩織がもう一度ミニテーブルに目を向けると、開いた封筒が置いてあった。さっきは食器の陰で見えなかった。

「これも捨てなきゃ」

 台所から戻ってきた悠が封筒をぐしゃっと鷲掴みにすると、ゴミ箱に押し込んだ。何となく様子がおかしい。今の封筒になにか事情があるような気がする。だが、ゴミ箱に捨てた物を「見せて」なんて言うのは、ちょっとおかしい。詩織は不安を感じながらも黙っていた。

「あ、詩織、そのクレープあげる」

「え、私に? でもさ、これ、りょうたのじゃないの?」

「ううん。私がお昼に買ったやつ。思ったよりお腹いっぱいになっちゃって」

「そう……りょうたは同じやつ食べたの?」

「いや、あの子が帰って来た時に『ずるい』って騒いだから、とっさに詩織のだって言い訳したんだ。だからいいよ。あげる」

 詩織は「ありがと」と言ってクレープをカバンに入れた。今のやり取りも、はっきりここがとは言えないが何かおかしい。やっぱり悠らしくない感じがする。

「詩織、今日バイトないなら、うちで夕飯食べてく?」

「あ、うん。ありがと」

「おっけ。私、りょうた迎えがてら、夕飯の買い出しに行ってくる。もう冷蔵庫ほとんど空だから。そんなに時間かからないと思うから、うちにいて」

 悠はそう言うと靴を履いて出て行った。今なら誰も見ていない。詩織はすぐにゴミ箱に手を伸ばした。「プライバシーの侵害!」と叫ぶもう一人の自分は無視。封筒を引っ張り出し、中身をさっと読み、すぐに封筒をゴミ箱に戻した。


 悠の様子がおかしかったのは、やっぱりこの封筒が理由だ。

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