一人で幸せに 2/6 ~なんだか怒っている人達~

 夕方六時頃、これくらいからだんだん岡本食堂は忙しくなってくる。授業が終わった大学生達がこのあたりに集まってくるからだ。


 今日もいつも通り、ちらほらと学生がやって来始めた。この店に来るのは基本男子学生達。女の子が来るのは、サークルか何かの集まりくらいで、女の子だけで来ることはまずないし、カップルが来ることはもっとない。ところが、六時すぎに一人でやってきた男子学生は悠にこう言って席に着いた。


「後から女の子一人来るんで」


 彼女かもしれない。カップルで来ることは珍しいが、悠は他の理由で男子学生が気になった。彼の着ているヨレヨレのシャツはいかにも部屋着。履いているのもジャージ。足にはゴム製のつっかけ。顔にも枕の跡がついていて、いかにも寝起きだ。しかもそれだけではない。

 カバンやリュックもないどころか、チラリと見た感じではジャージのポケットにも何も入っていない。片手にスマホを持っているが、どうやら持ち物はそれだけだ。


 普通だったらそんな男を学生だとは思わないだろうが、彼はたまにサークルの仲間らしき学生達と一緒にこの店に来ていた。何度も来ているので悠は顔を覚えていたのだ。だが、こんな格好で来たのは初めてだし、彼女と来ているのも見たことがない。取りあえず、無銭飲食の可能性を考えて悠は彼をマークしていた。


 彼は九百八十円のエビフライ定食を注文すると、テーブルに突っ伏して寝始めた。「無気力」と言う言葉を完璧に体現している。ただ寝ているだけで、怪しいしぐさはしていない。

 悠が定食を運んで「お待たせしました」と声をかけると彼はけだるそうに顔を上げた。ちらりと見えたが、よだれを垂らしている。熟睡していたようだ。注文から定食が運ばれる十数分の間にここまでぐっすり眠れるとは、一体どんな生活をしているのだろう。


 彼は定食を少し食べると箸を止め、スマホで電話をかけた。悠がそれとなく聞き耳を立てると、何やらきつい口調で相手を叱りつけている。声の音量はさほどないため内容は聞き取れないが「馬鹿かよ」「頭おかしいだろ」といった言葉を使って相手を罵倒しているようだ。かなり感じが悪い。もういっその事、無銭飲食してくれないか。無銭飲食してくれれば、とっ捕まえてどさくさ紛れに腕でも何でもひねりあげて、警察呼んで突き出してやれるのに。


 彼の電話から十分程経った頃、お店に女の子がやってきた。扉を開ける音に反応して「いらっしゃいませ」と悠が挨拶しながら目をやると、その女の子は美紀だった。いつもと違って、汚れたツナギを着ている。如何にも美術専攻の学生といった見てくれだが、本来これは大学の外でする格好ではないはずだ。

 表情や、切らせた息も合わせて察するに、大学から直接大急ぎでやってきたのだろう。


 悠は「あ、美紀ちゃん」と声をかけたが、美紀は気付かなかった。真っ直ぐに彼の所に向かうと、テーブルの向かいに腰を下ろした。ひょっとして、この男子学生は美紀の彼氏だろうか? 悠が注文を聞きに行ったところで美紀はようやく気付き「あ、悠さん…んちは…」と気まずそうに挨拶してくれた。


 そこから先、彼氏の方はますます感じが悪くなっていった。悠は話の内容にまで聞き耳は立てなかったが、美紀が小さい声で何か言うたびに彼氏がそれを遮って、電話の時と同じ言葉使いで罵倒する。

 さっきの電話の相手は恐らく美紀だろう。急に呼び出されて、大学から飛んで来たのかもしれない。美紀が彼に何をしたかは知らないが、馬鹿とか頭おかしいとか、とにかく彼氏の言葉はきつい。美紀は彼氏に罵倒されては口ごもり、少ししてまたしゃべるとまた罵倒されて口ごもり…と、ひたすらそれを繰り返していた。

 彼氏は自分の定食を食べ終わると、悠に向かって「あっちが払いますから」と言って美紀を指さし、さっさと帰ってしまった。


 美紀は自分のチキン南蛮定食を一人で食べている。悠の目には、何となく寂しそうに、悲しそうに映った。そういえば、美紀が一人でいる所を見るのはこれが初めてだ。ひょっとして、昨日彼氏に呼び出された時もこんなだったんだろうか。悠が彼氏の使った食器を片づけながら「お疲れさま」と笑顔で一声かけると、美紀は顔を上げて気まずそうに笑顔を返してくれた。


 美紀は三十分近くかけてやっと食べ終わると、伝票を持ってレジにやってきた。悠は表情が暗い美紀に、軽い雰囲気で探りを入れてみた。

「あれ彼氏?」

 美紀は苦笑いを浮かべて首を縦に振った。

「そうです。あいつ、こん時間寝てっこと多いんですよ。今日は起きてたみたいで」

「なんか…怒ってた?」

「あー、あたし会う約束忘ってずっと研究室で彫ってたんで、怒られました」

 悠にはピンときた。これは嘘だ。悠の中の印象が悪くならないように彼氏をかばっているんだろう。

「そんな事で怒るやつなんか別れちゃえよ」

「いやあ…ま、あたしが悪いんで。ホントはいいヤツなんですよ。じゃ、ごっそさました」

 美紀は支払いを済ませると、悠との会話をさっさと切り上げて帰ってしまった。


 仕事が終わってアパートへの帰り道、悠の頭の中には一人で定食を食べる美紀の後ろ姿がチラついた。美紀とは詩織を通じての知り合い程度の間柄だ。それでも、あんな姿を見るとやっぱり可愛そうに思えてくる。美紀と仲良しの詩織に話せば、何かしてあげてくれるかもしれない。


 自転車をこぎながらアパートを視界に捉えた悠は、三号室の浦浜宅に目を引かれた。人影が見える。アパートの庭まで入って見ると、大人の男の人と、亮太と同じ年頃の女の子だった。庭には、乗って来たらしい四人乗りの乗用車が停めてある。腕時計を見るともう十時半を過ぎていた。こんな時間に何をしに来たのだろう。

「あの…浦浜さんにご用事ですか?」

 悠が二人に近づいて声をかけると、男の人が振り向いた。

「ああ、はい。ちょっとね…」

「浦浜さん、今お家空けてらっしゃって、しばらくいませんよ」

「ええっ、そうなの? おい結衣、学校には亮太君来てるんだよな?」

 脇にいる女の子がこくりとうなずいた。

「あ、りょうたは私が預かってるんです」

 悠がそう言った途端、男の人の態度が変わった。

「まずさ、あなた誰?」

「上の階に住んでる木村です」

「亮太君はあなたが預かってんのね?」

「はい」

「浦浜さんは今家を空けてると」

「はい……」

 同じことを繰り返し確認され、悠は(誰でもだろうが)ピンときた。これは何か厄介事だ。

「今、亮太君あなたの家にいるの?」

「そのはずですけど…」

「『はず』?!」

「います」

「ちょっと会わせてくれるかな」

 男の人は何だかイライラしている。片や連れられている結衣ちゃんは、申し訳なさそうな顔で悠を見ている。

「あの…どちら様ですか?」

「同じクラスの穂波ですよ。何となく分かるでしょ? 保護者だって」

「どういった御用件で…」

「本人と話しますから!」

 だんだん声が大きくなってきた。

「いや、りょうたは……もう夜遅いですし」

「それはお互い様でしょう! 俺だって仕事で疲れてるし、うちの結衣だって、本当はもう寝てるはずの時間なんですよ!」

 自分で勝手に来てるんでしょうが。なんて言ったら話がこじれそうだ。

「あの、取りあえずここで私にお話して頂けませんか?」

「本人と話すって言ってんだよ! 二度手間だろ!」

 穂波さんの態度に悠もイライラしてきた。

「ざっとでいいので、聞かせてください。でないと会わせられません」

 きっぱりそう言うと、穂波さんは舌打ちをかまして言い放った。

「話になんねぇな! 何号室だ!」

 教える義理なんてない。悠は「つん」とシカトを決め込んだ。

「何号室だよ?!」

「パパ、もう帰ろう…」

 穂波さんはそう言う結衣ちゃんの手を引っ張った。

「お前のために来たんだろ! 一緒に来なさい!」

 悠は、階段に向かおうとした穂波さんを走って追い抜いて、階段の前に立ちふさがった。

「邪魔だどけよ!」

「まずはお話聞かせてください」

 穂波さんはまた思い切り舌打ちをかますと、やっと話し始めた。

「うちの子が公園で、そっちの子に水ぶっかけられたんだよ! それも仲間四人も引き連れてだぞ! 他の三人の所もさっき回ってきたけど、会わせねぇなんて言いやがったのお前だけだよ!」

 それは可愛そうな話だが、相手の言い分をいきなり鵜呑みにするのは危険だ。

「本人に確認して言い聞かせておきます」

「会わせろって言ってんだよ!」

 穂波さんが大声を上げると同時に、二階から声が聴こえてきた。

「どうしたの?」

 詩織だ。階段の上からこちらを見ている。この状況は一言では説明できない。取りあえず悠はうんうんとうなずいて、大丈夫だとシグナルを送った。穂波さんの方は部外者の登場で若干戸惑ったらしく、話の方向を変えた。

「そもそもあんたさ、歳いくつ?」

「二十五ですけど」

「どおりで世間知らずなはずだ! 年上の人間に対してその態度何なんだオイ!! まともな社会でそんなの通用しねえぞ! よくそんなで人様の子供なんか預かろうと思ったな。身の程考えろよ! ちょっと考えりゃ分かんだろ! お前、今帰ってきたばっかだよな? こんな時間まで家に帰らねえで、どうやって子供の面倒見んだよ。まさか遊んでたんじゃねえだろうな?! 常識考えろ!」

 水をぶっかけられた結衣ちゃんの話はもう一切出てこない。ただの悠への難癖、いちゃもん、見当外れでとんちんかんで、独善的で幼稚な言葉の羅列だ。

「もうお帰りください。本人には伝えておきますから」

「帰るかどうかは俺が決めんだよ! お前のせいで時間かかってんだろ! 何時だと思ってんだ!」

 はぁあ? なんだそりゃ。と悠は顔全体で表現して見せた。

「あぁ? 何だよその顔。ケンカ売ってんのかお前…」

 穂波さんは悠に詰め寄ってきた。まさか乱暴するつもりだろうか。もしそうなら…


―― かかってこいやコラァ!!


「ねぇもう帰りたい!」

 結衣ちゃんが繋いだお父さんの手を引っ張りながら泣き出してしまった。娘の泣き顔を見て、穂波さんはようやく方向を変え、車に向けて歩き出した。

「オイ! 明日中に本人に電話で謝らせろよ!」

 最後にそう吐き捨てると、穂波さんは結衣ちゃんを連れて車に乗り込んだ。悠が黙って見送る中、車は乱暴な運転で砂利の音を立てながらアパートを出ると、坂を登っていった。

 階段の上を見ると、詩織も車を見送っている。詩織は悠をチラリと見た後、車に向けて舌を出し、親指を下に突き立てて見せた。

「こらっ」

 そう注意する悠の顔は、軽く笑っていた。

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