第七話 納豆仙人
納豆仙人 1/5 ~巨大犬~
「吾輩は犬である。名前はまだない。……ごめん、嘘。名前はジャン。でも、みんな吾輩の事ジャン坊って呼ぶんだよね。吾輩が『ぼうっ』って鳴くからという説と、ちょっと太り気味で、坊やって感じだからと言う説がある。幼児体型という事か。人間で言うともう、還暦くらいなのに。若々しいと言えば聞こえはいいけど……吾輩、なんか複雑」
りょうたと悠はジャン坊の前でくすくす笑っている。
ジャン坊は大家さんが飼っているミックス犬(雑種)だ。アパートの庭にある犬小屋に住んでいて、エサは大家さんがやりにくるが、散歩はアパートの住人が交代で行っている。
「あぁーあ。最近ダイエットとか言って、ご主人、吾輩のごはん減らし始めたからな。吾輩、もっと食べたいのに。食べ応えのある大きなお肉、脂質、炭水化物がいいんだよね。という事は、家系ラーメンとかになるのかな」
悠が「あっはは!」と大声で笑った。
「い、家系ラーメン?! 詩織、もういいって! 出てきな」
ジャン坊のセリフをアフレコしていた詩織が犬小屋の裏から出てきた。亮太はまだけらけらと笑っている。
「さあ、行こう。散歩」
悠はリードをジャン坊につけ、もともとつないであった鎖を外した。
悠と詩織は近くの公園へ行ってすぐ帰ってくるつもりだったが、亮太が「駅まで行きたい」と言ったため、それに従っていつもよりだいぶ長いコースを散歩する事になった。
亮太はジャン坊と散歩するのが好きだ。ジャン坊はジャーマン・シェパードのような顔立ちで、体高八十センチ、体長九十センチというとてつもない巨体だから、どうしてもみんなの注目を集める。
人が多い所に連れて行って、色んな人がこちらを見るたびに亮太は何だか得意な気持ちになるのだった。
※体高=足先から肩までの高さ 体長=胸からお尻までの長さ
ジャン坊はとてもおとなしい奴だ。小さい頃からそうだったが、歳をとってさらに拍車がかかった。散歩中も人を引っ張らないし、他の犬にも吠えない。
大好きなゴムボールで遊んでいるときに突然それを取り上げられても、相手の前でお座りして「ちょうだい」と目で訴えるだけで、咬みつくどころかひと吠えもしない。
だから、初めて見る人からすれば怖いだろうが、散歩させる方はわりと気が楽だ。
亮太の要望通り、駅近くを一回りして人々の視線を集めたあと、四人(ジャン坊含む)は公園までやってきた。ここはジャン坊も十分運動できる広い公園なので、悠はジャン坊が大好きなゴムボールを持って来ていた。
悠は合言葉を叫びながらボールを投げた。
「飛んでけぇっ!!」
「ぼうっ!」
ジャン坊はボールを取りに走って行った。「飛んでけ」はボールを取ってくる合言葉で、「取ってこい」のような適した合言葉を教える前に、ジャン坊が自分で勝手に覚えてしまったのだ。
ジャン坊はボールを咥えて悠のところに戻ってきた。
「よしよしよし!」
悠がボールを受け取ってジャン坊の顔を両手でこすると、ジャン坊は舌を出してぺろぺろ手を舐めてきた。気持ちいいらしい。亮太が悠のズボンを引っ張った。
「ね、おれもやらせて」
亮太はその後散々ジャン坊とボールで遊んだ。悠も一緒になってジャン坊とじゃれ合い、先回りしてジャン坊より先にボールを取ったり、亮太には出来ないほど高くボールを投げあげたりして一緒に楽しんだ。犬があまり好きではない詩織は一人、楽しそうに遊ぶ三人(ジャン坊含む)を少し離れて眺めていた。
遊び疲れて家に帰ってくると、亮太は悠に「夕飯までに!」と指示されて渋々宿題を始めた。悠がこう言っておかないと亮太はギリギリまで宿題をさぼり、朝急に悠に泣きつく事になる。
亮太が宿題をやっている間、悠は外に干してあった洗濯物を取り込んでいた。以前は一人分だった洗濯物が、亮太が来てからは二倍に増えた。しかも亮太の着るものは小さくて、特に靴下なんかは片っぽ無くなると見つけるのに大変苦労する。
靴下がそろっている事を確認し、洗濯物をたたみ、一気に抱えて立ち上がる。その時、すぐそばの机で宿題をしている亮太の方から、妙な音が聴こえてきた。
「プッ!」
悠が覗き込むと、亮太はノートにつばを吐きかけて、指でこすっている。
「えっ、何やってんの?」
「ん? 消してんの」
亮太は間違えた所をつばでこすって消していたのだ。
「汚いな! 消しゴム使いな!」
「学校に忘れた」
ノートの脇に目をやると、筆箱はちゃんとある。消しゴムだけ忘れるとは何とも器用なヤツだ。
「向こうの棚の上から二番目の引き出しに、私のが入ってるから。それ使いな」
亮太は棚から悠の消しゴムを持ってくると、それを使って、眉間にしわを寄せながら黙々と宿題を続けた。公園で気のすむまでジャン坊と遊んだせいか、今日は妙に素直だ。結構結構。
*
次の日の朝、悠は早めに起きた。今日はいつもより早くから仕事がある。朝食はいつも通り、ちぎったレタスにゆで卵、そしてトーストだ。それといちごジャムをテーブルに乗せると、悠は亮太を起こした。
いつもより早く起こされた亮太は、悠に引っ張られて嫌々顔を洗って歯を磨き、テーブルに着いた。
「そこに食パンあるから。ジャム塗って食べな。八時十五分までには出発すんだよ」
「んー」
亮太はパジャマの上から脇の下をかきながら、イエスだかノーだか分からない返事をした。まあ、ノーでもこっちの要求は変わらないし、譲歩するつもりもない。それに時間もない。勝手にイエスと受け取って、亮太を残して悠は仕事へと向かった。
*
詩織は大学に行こうと家から出た。昨日夜更かししていたため、詩織の頭は沼にはまったように動けず働けず、ぼんやりしている。通路を二歩ほど歩いた所でこけそうになった。
―― やっぱりヒールの無い靴にしようかな。でも戻って履き替える時間あったっけ? ん? 今何時? あれ、授業何時から? やばい、頭が回らない…。
「ぼうっ!」という大きな鳴き声がアパートの庭から聴こえてきて、詩織の頭は沼から吹き飛ばされた。
下を見下ろすと、アパートの庭で亮太がランドセルを背負ったまま、ジャン坊とボールで遊んでいる。腕時計を確認すると、もう九時を回っている。詩織は二階の通路から亮太に声をかけた。
「りょうた、おはよう。学校行かないの?」
「うん。もう行く」
亮太は詩織の方を向かずにそう言って立ち上がり、ランドセルを背負い直して歩き出した。こんな時間になるまでジャン坊と遊んでいるなんて。少し気にかかるが今は時間に余裕がない。授業とバイトが終わったら悠の家に遊びに行って様子を見よう。詩織はそう決めて大学へ向かった。
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