第161話 俺、今、女子ズル休み中

 俺が、武蔵さんの車に同乗したら思いついたこと、学校を休んで武蔵さんのドライブについて行く。

 ——そんなことをして良いのだろうか?

 言ってはみたものの、俺は不安になった。

 俺が入れ替わったアラサー女性教師——稲田先生。教師という職業がなかなかに大変なものだと知った、この二週間ほどを振り返れば、果たして思いつきで今日いきなり休んでしまったりして大丈夫なのかと思うのだった。

 ……学校って、授業って、生徒指導とかその他の諸々のめんどくさい業務って——当日に気楽に休んで良いものだろうかって。先生と体が入れ替わって、わずかの時間しかたっていない俺では、そのへんの勘所がまるで検討がつかなかったのだった。

 いや、もちろん……そんな(実質)新米教師の俺でも、「気楽に」とか言うのな答えは違うのだろうなということはわかる。

 稲田先生が休んだ授業は自習と言うわけにも行かず代講の先生が立たないといけないし、生徒指導もその他の授業準備とか庶務とかもさぼればさぼっただけ後で自分にはねかえってくるだけだ。

 体が入れ替わった後の、この短い間での体験ででもすぐにわかる——毎日がかつかつの状態の多忙な高校教師である。そこで一日さぼることは、そのまま別の日にそのまましわ寄せがやってくることになる。

 深夜まで居残りで仕事、休日出勤で穴埋めしないといけない。

 それでも、大した部活指導のない稲田先生はまだましな方ではあるが、その分いろんな総括業務とか懇親会監事とかとかをやらされていて、結局多忙なことには変わりない。

 ともかく、今日いきなり休むということは同僚の先生達にいろいろ迷惑をかけるだけでなく、自分にも多大な迷惑をかけることになるのであった。

 ……と思って、今日は休んで武蔵さんのドライブについて行くと言ったものの、不安になった俺は稲田先生に事後承認をとるべくSNSのメッセージをとばすのだったが、


『いいよ』


 ほぼノータイムで返ってきた返信であった。

 その後、追加で学年主任の尻手先生には、こう言え、ああ言え。若干、稲田先生、随分と仮病慣れしてるなというのが気になるところであったが……。

 ともかく、急病の際に学校に連絡する場合の的確なスクリプトを、長文のメッセージであっという間に追加で返信もらった俺は、そのまま車を一度降りると、路上の音を拾わないようにマンションのエントランスに戻ると、すぐに学校に電話をするのであった。

 そして……。

 学年主任の反応は、

『具合悪いときには無理に出てこなくて良いから』

『みんなで何とかするから』

『心配しないでゆっくり休め』

 とか、微塵も仮病など疑わない、心から心配してくれているのがわかるもので、後ろめたいこっちが恐縮することしきりであった。

 この先生との入れ替わり騒ぎが終わった後で聞いたところによれば、この学年主任の尻手先生は、昔無理をして体を壊した事があるし、稲田先生当人も新米教師時代に過労で倒れて一週間くらい入院したことがあったとのこと。だから、鬼の学年主任は体の不調には一気に仏の人の良いおじさんに様変わりするとのことであった。

 ……今日は、仮病だけど。

 と、いつもは人一倍厳しい強面スキンヘッド先生の深い人間性の一旦にふれて、恐縮する事しきりの俺なのであった。電話を切りながら、申し訳なさに体が重くドヨーンとなってしまうような……。


 だが、——今はそんなことで心を乱している場合じゃない。


「お待たせしました」


 電話をすませた俺は車に戻る。

 今日は武蔵さんとドライブに行くことに決めたのである。奥さんと別居中の武蔵さんを略奪愛せよ。そう、入れ替わった稲田先生から指示を受けた俺はこれが千載一遇のチャンスと判断したのだった。

 ここが攻め時と判断したのだった。

 稲田先生と武蔵さんをくっつけて——俺はアラサー女性教師の体から脱出するのだった。

 もちろん、これがちょっと危険なこと……迂闊なことであることは気づいていた。

 奥さんと別居中の武蔵さんと二人きりでドライブ。

 明らかに密会——と思われてもしょうがない行動であった。

 この後、場合によっては離婚の裁判も始まるだろう、そんなとき今日のこれが見つかれば、浮気とされて武蔵さんの不利に働くかもしれない。

 今の所、傍目には奥さんの方がほぼ悪く聞こえる夫婦のトラブルだが、今日が逢瀬とされて、一気に裁判で武蔵さんを追い込むことになるかもしれない。

 ただ……それでも、ここで決めないと……このまま決まらない。

 稲田先生は、また結婚できない。良い人で終わってしまう。

 そんな気がしてならなかったのだ。

 少々危険でも、今日は一緒にいて、ぐっと武蔵さんの心の中に踏み込まないといけないのだ。

 別に、本当に浮気に類する何かするということは——ありえない!

 だって俺、そういう趣味ないからね。

 今、稲田先生の中の人は、男子高校生たる俺なんだから。

 なんで、三十からみの男の人とそんな……。って三十じゃなくて若けりゃ良いわけではなくて。

 ——ともかくありえないから。

 それに、思いつきで東京挟んで反対側の松戸から多摩川越えて車でやってきた、武蔵さんの、平日の里山散策で、見られてはまずい人に会うなんてことはあまり考えられないのでは?

 武蔵さんに探偵でもつけられていれば別だが、探偵にしたってちょっと今日の武蔵さんを追いかけるのは難しいだろ。

 

 ——とかとか。


 まあ、色々考えながらも、そもそも、このドライブが片瀬セナの夢に出てきてのお告げによるものならば……。


 ここはこの流れに乗るしかないだろって思う俺なのであった。


「初美さん……大丈夫ですか……仕事とか……」


 もちろん、武蔵さんも仕事「とか」の他のことも考えているのだろう。


 しかし、


「はい、大丈夫でした。今日は、無理をいってごめんなさい」

「いえ……」

「一緒に行ってご迷惑じゃないですか?」

「いえ……」

 

 ちょっと戸惑いながらも、満更ではないような表情の稲田先生の想い人。


「では、出発しましょう……」


 俺は、今日はちょっと強引にでも、先生の気持ちを武蔵さんに伝える日なのだと考えていたのだった。


 ……この時は。


   *


 そして始まったドライブ。平日朝の郊外の道はすいていて快適であった。

 稲田先生のマンション前から、多摩川沿いの道に出て、通勤時間に重なっているので多少混雑することはあったものの、渋滞というほどのものでもなく、その後幹線道路に戻ってからは、逆に、まだ会社が始まる前のせいか、営業の車やトラックなんかも少なく、武蔵さんの車は、よく晴れた絶好の天気の中、快適ににスイスイと進むのだった。


「今日はどの辺に行こうと思ってるのですか?」


 俺は、左側に自然と住宅地が交互に広がる、良い感じの丘を眺めながら言う。


「はい。時に絶対ここに行かなきゃと思ってる所はないのですが……この辺の自然のなかブラブラできたら良いかなって……。とはいえそんな里山とか詳しいわけではないので、適当な公園とかかなって思ってます。芸がないですけど」

「……そんなことないですよ。流石に藪の中かき分けて行くとか言われたら私も困ってましたから」

「ああ、そういや初美さんの格好……」

 学校に行くパンツスーツ姿で、そのまま車に乗ることになっちゃったからね。

 正直、里山散策という格好ではない。先生はハイヒール派でなく、パンプス派でおまけに実用重視でゴムクッション底を履いているので、公園歩くくらいは問題ない。

「私の格好は、あまり気にしなくても大丈夫ですよ。普段の教師稼業のせいでボロボロになった服ですから」

 先生って、ただ座っていれば良いわけでなく、全校集会だ学園際だって会場準備を手伝ったり、具合悪い生徒を保健室に連れて行ったり、黒板のチョークの粉が飛んできたり、床板の剥がれかけているところに足を引っ掛けけて転んでしまったり……は稲田先生のどんくささのせいかもしれないが、ともかく高級なスーツを着てデスクに座って書類を作っていれば良いとかそういう類の職業ではない。

 今日来ている服も、稲田先生が通販で安く買った実用重視の女性用スーツな上にもう二、三年着込んだかなりくたびれたものだ。ならば、それは、今日を武蔵さんとのデートと考えれば、もうちょっとパッとした服の方がよかったのだが——。

 公園の林の中を歩くとかいうのであれば、むしろ相手に気を使わせなくてよいのではと思う。

「どちらにしても……今日は突然付いてきてもらうことになってすみません」

 いや、突然付いていく言い出したのは俺だがな。

 そこは人の良すぎる武蔵さん。もう自分が悪かったことに本気で脳内変換されてそうだ。

「でも、どこに行きましょうかね……」

「そうですね」

 俺は勿体つけるよう言うが、

「あっ、そうだ!」

「はい?」

「聖蹟桜ヶ丘とかはどうでしょうか?」

 実は、もう出発した時からその行き先は決めていたのであった。

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