第160話 俺、今、女子同乗中

 また突然現れた武蔵さんであった。

 車で。

 稲田先生の家の前に。

 朝に出待ちであった。

 ちょうどマンションを出た時、その前に武蔵さんが車の窓を開けながらいうのであった。


「……乗らないですか?」


 ひっ!

 俺——つまり入れ替わった稲田先生の顔——は、かなり引いた感じになっていただろう。それに気づいた武蔵さんは、ちょっと不安そうに言う。

 確かに、女性の家の前に朝に男が待ち構えていて、……車乗らない?

 ——って、ありえんよな。

 普通、乗らないよ。怖くて。

 いったい平日朝に何してんだ? この人。

 会社はどうしてんだ?

 多分都内の会社のはずだから、これから行ったら確実に遅刻だろうが……。

 なんでそんな時間に稲田先生の家の前にいるんだ?

 いろいろ疑問は尽きないのだが、

「乗ります。ありがとうございます」

 とりあえず、そう言って俺は武蔵さんの車の助手席に乗る。

 すると、

「ちょうどこの辺を移動するので……稲田先生の家のあたりを通ってみるかと思って……」

 少し、いいわけがましく相手が思うんじゃないかなって戸惑いながら言ってるのが明らかな武蔵さんの口調。

「……この辺になにか用事が?」

 俺は、多分武蔵さんは嘘をいってない——ただ稲田先生のマンションの前で出待ちするためだけに、住んでいる松戸から多摩川のこっちにやってきたのではないだろうなと、武蔵さんの雰囲気から思いながら——言う。

「今日ちょうど会社休み取ってたので……多摩のあたりの公園や里山でも散策するかと思ってて、それで……その途中で、ちょうど通りかかかったら、偶然、初美さんがマンションのエントランスから出て来るのを見かけてびっくりして声をかけました。すごい偶然ですね……いつもこの時間ぐらいに出勤なんですか」

「いえ……いつもは、もう少し早いのですが……今日はたまたま遅くて……」

 やはり、武蔵さんは、流石さすがに早朝からここに待ち構えていたわけではないようだ。俺が謎の幼女セナのマンションから、早朝の電車で稲田先生のマンションに帰って来たところからずっと見られていたと言うわけではない。

 もしかしたら、帰ってきた時は、こっそり隠れていて、俺が気づかなかっただけということもあるが……、今、武蔵さんの言葉に嘘をついていそうな様子はない。結構良い感じに慕っているはずの女性が朝帰りしているのを目撃していたら、少し動揺したり、緊張した感じが声色に出ていてもおかしくないが、……そんな感じはまるでない。

 どうやら、別の用事で通りかかって、ものすごいジャストなタイイングで俺——稲田先生と鉢合わせたと言うことが本当のようだが、それはそれで、どうにもむず痒い感じというか、不気味というか……。

 普通、こんな偶然ないよね。秒単位でぴったりと合わないとこうはならない。少し前なら、武蔵さんの車がいなくなった後に俺が出てくることになるし、少し後なら、俺がもう駅にダッシュで向かったあとの道を武蔵さんが通り過ぎることになる。

 こんなことありえない——偶然では。そう言うしかない状況であるが、


「また、夢に現れたんですよね……」

「……?」

「なんか幼い子供の女神が言うんです。今日の朝何時何分に出発しろって。その言う通りに車を発車させてみたら、ちょうどマンションの前で初美さんを見かけて」


 ああ、やっぱりセナあいつか!

 それで車を慌てて止めて声をかけたと言うことのようである。

「それって、前に聞いた、夢になんども出てきた幼女……」

「はい。同じ……この数日なんども夢に出てきて出発の時間を指示してくるんです。今日の朝は『今起きないと、あなたの一族郎等にまで神罰が下りますよ』って脅かされて冷や汗を書きながらハッとして起きたら夢でした……って」

 松戸辺りに住む武蔵さんが、このあいだの週末にわざわざ俺らの地元駅あたりをずっとぶらぶらしていたのも、どういうことかわからないが、セナが何度も夢に出てきたせいでやってきたらしいし……。

 今日の朝、セナのマンションを出る時にはスヤスヤと寝息を立てながら眠っていると思った怪しさ満点の幼女は、夢の世界の中でどうも武蔵さんを恫喝していたようだ。

 ——って。こんな馬鹿げた話はちょっと信じられないけれど、この前に聞いた夢の中に出てくる幼女女神の容姿は、やはりセナのようであった。

「……夢に出てきた女神はまた、この間、初美さんと一緒に歩いていた可愛い子供にそっくりでした」

「……セナちゃんですね」

 その後、地元駅前で武蔵さんとばったり遭遇した時に、一緒にいた子供が夢に出てきた女神にそっくりでびっくりした——とは、後で聞いた話であるが、それはたまたまのことではなく、なにか裏があるようなことをセナの「お母さん」こと片瀬セリナが話していて、


「すごい偶然……なのですかね?」


 多分、偶然ではなく必然なのだろう。

 武蔵さんが、車で出発する時間を夢で指定して、ちょうどこの時間に稲田先生のマンション前を通りかかるようにしたのだろう。

 しかし、それって、夢に自由に現れるなんて言う非現実的なことが本当にセナにできるのかは無視をしても、——ものすごい精度を要求される話だ。

 出発時間を定めれば、だいたい松戸からここまでの行程でかかる時間というのは算定できるのかもしれないが、今回は秒単位で稲田先生のマンション前の通過時間が合わなけれならい。

 そうなると、途中の不確定要因が多すぎる。

 道は混んでいるのか空いているのか? 車を何kmで走らせるのか? 黄信号で通過するのか車を止めるのか? 

 へたしたら、アクセルの踏み方一つ、ブレキーキの掛け方一つでタイミングがずれる。

 そんな条件の中で、出発時間を指定するだけで、秒単位でぴったりタイミングを合わせることができるなんて、まさしく、神のごとき所業なのであった。

 まあ、本人が女神だと言って夢に出てきてるのだから矛盾がないといえばないが、


「初美さん……それでは出発しますか?」

「あ、すみません……ぼうっとして——はい、すみませんが……学校近くまでお願いできますか」


 おっと、まずいまずい。

 先生の出勤時間は、学生と違って、授業の始まる8時半までに行けば良いというものではないから、車で送ってもらってぐっと時間短縮するにしてもそろそろ出発しないと危ない。


 それに、


「……あまり、学校に近づきすぎてもダメですよね?」

「?」

「朝、結婚前の女性が男の車で送られてきたって噂がたつのもまずいかと思って……」

 確かにそうだな。学校横付けはもってのほか、近くの生徒が通るような道の途中で車を止めるのもまずい。

 となるとちょっと離れた路地みたいな所に止めるしかなく、——すると、そこから歩く時間もいれると結構もう、遅刻ではないが学園主任に怒られそうな時間での到着になりそうだな。

 俺は、あの強面スキンヘッドの数学教師の顔を思い出して、背筋にちょっと寒気が走るのを感じる。

 なら、途中の道路が混んでいる可能性もあるし、なら、むしろ武蔵さんには、近くの駅までだけ送ってもらってそこから電車で行った方が確実かもしれないが……。

 ——でも、良く考えたら、これってチャンスだよな。

 稲田先生から攻略を命令されている、奥さんと別居中の武蔵さん。学生時代からの想い人を略奪愛でもものにすると修羅の道に立つことを洗濯した先生の決断からすれば、この車の中での時間は大切なものである。

 なんだかんだで、ばたばたで、まだそんなちゃんとはなせていない武蔵さんと、車の中で二人きりというのは貴重な時間なのかもしれない。

 数分もかからないような最寄駅ではなく、せめて学校に行くまでの十数分くらいは一緒に……。


 ——いや、待てよ。


 おれは、どうせならと、ある考えを思いつく。


「あの、武蔵さん……」

「はい?」

「今日は……この先の多摩の自然の中を散策するんでしょうか?」

「はい。会社の年次休暇を消化しないといけないので、リフレッシュに……あまり遠い所に行っても疲れてしまいますし……地味な過ごし方ですが」

「いえ、羨ましいです。こんな天気の良い日に、爽やかな林の中を歩いて過ごすなんて……ああ、そうだ」

「?」

「私も一緒して良いでしょうか?」


 俺は、武蔵さんの休日に、今日一日、一緒にくっついて行こうと思い立ったのであった。

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