第136話 俺、今、女子週末勤務中

 ——なんとか週末まで耐えきった!


 そう思いながら深くベットに沈み込めば、あっという間に意識が遠くなりそうな夕方であった。


 今日は、土曜日。学校的には休みの日だが、午前中は三年生の補講をして、午後からは、幹事をやってる教職員飲み会の店の予約や案内の作成。それも終わって、月曜の授業のプリント準備なんかも終えて、そろそろ帰ろうかなって思ったら、何代か前のもう退職した教頭先生が突然訪ねて来たというので、その時職員室にいた若手教師ということで俺=稲田先生が学校内を案内することになって……。


 夕方からのPTA会合と飲み会に出ることだけは用事があるからとなんとか固辞して学校から脱出し、稲田先生のワンルームマンションに帰りつけたのは、もう巣に帰る前に鳴くカラスも現れるかなって頃のことであった。


 そして、


「はあ……」


 深く嘆息する俺であった。


 ああ、このまま寝てしまいたい。


 眠い。疲れた。


 疲労はんぱない。


 稲田先生と入れ替わってからの一週間。仕事にプライベートに、アラサーの人生がこんなものだったとはまるで想像していなかった俺は、やっとのことでやってきた週末、何万年にも感じるような、この、たかだか数日間の出来事を思い返しながら、あらためて心の中で弱音を吐きまくるのであった。


 いや、ほんと、稲田先生の年代があんな大変なものとは思わなかった。

 若いと言って済まされる立場でもなく、ベテランとして尊敬されるほどの経験もない。


 何をするにも中途半端で、悩みが絶えない。


 もっと歳をとれば今度はその責任に応じた悩みがあるのかもしれないが、なんというか、立場や立ち位置があやふやな、不安になるようなストレスに満ちている年頃。

 おまけに仕事の方だけでもいい加減ストレスフルなのに、ましてや先生は婚活中。そっちの方の立場の曖昧さ、世間様に求められていることができてない申しわけ無さというか、焦燥感、いやお母様のプレッシャーありゃありえんだろほんとに。この間の週末まで、異世界で女騎士やってた俺が向こう・・・で遭遇したドラゴンもかくや……。


 ——まったく異世界のほうがよっぽど居心地よかったよ。その異世界が、やりこんだゲームの中であったというのもあったけどな。


 ともかく、異世界からやっと戻ってきた馴染みの俺の世界に対して、俺が、今、言えることは、


「疲れた……」


 その絶対的な事実を噛み締めながら俺はベットから動けないでいたのだった。


 しかし、


「あ……」


 俺は、スマホの震える音に我に返る。

 着信した通話の相手は……。

 

 ——喜多見美亜あいつだった。


「何? まだこれないの? もう三十分くらい待ってるんだけど」

「あ、待って、思ったより学校長くなって、今帰ってきたとこで……すぐ行くけど」

「わかった。じゃあストレッチしてアップしながら待ってるけど……」

「悪い、すぐ行くよ……」


 と、俺は電話を切ると、嫌がる体を無理やり起こし、約束の場所へと向かうのであった。


 そして割と川に近い住宅地にある稲田先生のマンションからなら、徒歩十分もかからずに、たどり着いたのは多摩川の河原。


「……意外と早かったのね」


 喜多見美亜あいつは、運動用のTシャツと短パン姿でで夕日をバックに颯爽と立ちながら言うのだった。

 そう、俺は、あいつと一緒にジョギングするために川沿いの堤防まで来たのだった。

 体が元に戻った時に、精神力が維持できないと心配だと、俺の体に入れ替わってからも、過激なダイエットを継続し続けた喜多見美亜あいつ

 食事はちょろっとしか食べずに、毎日長距離のジョギングをする。


 ——そんな生活してるから栄養が胸に行かないんだよ!


 と俺は、言えるわけもない言葉をを心の中で叫ぶのだが、


「なに? どうかした?」


 俺がなにか良からぬことを考えているのを察知しなのか、不審そうな顔つきのあいつに向かって、


 ——いえ、何でもございません。


 って顔で、俺は首を横にふると、無言で先に走り始めるのだった。


   *


 そして、俺たちは、一時間弱くらい走って、ジョギングを終了した。


 喜多見美亜あいつはもっと走りたそうだったが、俺が今入れ替わっている稲田先生のアラサー体力ではこの辺が限界。

 それも、いつものあいつと俺が走る時のペースに比べればだいぶゆっくりであったのだが……、もう息も絶え絶え、死にそうな様子であった。

 そもそも、特にジョギングが趣味というわけでもない先生の体をを無理に走らせる必要性は全くなく、特に頼まれたわけでも何でもないのだが、


「あんたも変ったものね。自分から走りたいって言うなんて」


 実は、今日は自主的に走りたくて、俺からあいつを誘ったのだった。


 走りたい、あいつに無理矢理始めさせられたジョギングであったが、俺が走りたい……というか走らないと落ち着かない体質になってしまっていたのだった。

 

「まあな……」


 ストレスフルなこの一週間。ジョギングどころでない多忙な日々を耐えてやっとできた時間にやってみたいことが走ることだなんて……、確かに俺も変わったものだと思うよ。

 だって下さい走ると、嫌なことも忘れてスッキリするのだ。身体の毒と悩みが一気に流れ出したような爽快感。こりゃ、初めてしまうともうやめられない、ーー蠱惑。

 俺はすっかりこの快感の虜なのだった。

 もっとも、


「先生からはジョギングはほどほどにしておいてとは言われているけれど……」

「なんで」


「太るって言ってた」

「はあ? まさか?」


「いや、そうでもないみたいだぞ……」


 先生の言うには、ジョギングは過度に行うと体脂肪率が上がってしまう危険があるそうだ。


 特に食事の制限してダイエットのために走ると、体は走るために、筋肉を溶かしてエネルギーを得たり、必要ない筋肉を削ってなるべく省エネルギーで走れる体質になろうとしたりする。

 すると筋肉量がへって基礎代謝が減った体はなかなか痩せないどころかむしろいくら走っても体脂肪率が上がってしまう悪循環。


 これを打開するためにはさらに長い距離を走らねばとなると、その距離は10キロ、20キロとかどんどんと伸びていき、人によっては50キロ、100キロと一般人としての常軌を逸したマラソンへとシフトしていく……。


「え……」


「なので、走るのが悪いわけじゃないが、筋トレとかやりながら基礎代謝下がらないようにしないといくら頑張ってもなかなか痩せない困った体質になってしまうみたいだぞ」


「…………」


 なんとなく心当たりのありそうなあいつの様子だった。確かに、あいつの指示するジョギングとか食事制限の過激さは稲田先生の注意してくれた悪循環にはまったダイエッターそのものの様子ではあるが……。


「まあ、でもどっちにしても若い高校生のうちはそんなことまだ本気で気にするような歳じゃない……過度にならないように注意は必要だが、しながらしっかりと栄養もとって、ジョギングでも何でもちゃんと運動もして体も頭も心も成長させることが必要。走りたいなら走れば良いんだとは言われたが……」


「あ……」


「アラサーともなるとな……」


 今、俺が入れ替わっている三十路間近の稲田先生としてはそろそろそういう健康増進、将来の成人病対策などにも気を使わないといけなくなる時期であり、


「……大変なのね大人って」

「ああ……」


 運動するのも無邪気にやりたいことだけやってれば良いというわけではないそんな面倒くささ、歳をとることとはどういうものなのかということの一端を垣間見た俺たち二人なのであった。


 そして、しばし無言になった俺たちは、夕闇が迫る……、というかかなり暗くと、足元さえよくみえなくなり始めた多摩川の河原で、未来に対する漠然とした不安にかられ、あとから思い返してみれば、若者特有と思える、青臭いとうかいの情を込めたため息を同時につき、


「そろそろ帰ろうか」


 という俺の言葉に、まだまだ走りたりなさそうなあいつも、今日は素直に首肯するのであった。

 ただ、


「帰る前にちょっと聞きたいことがあるんだけど」


「……? 何?」


 俺は、今日あいつと二人きりになった時に聞こうと思っていた疑問を口に出す。


「おまえ、何でもいきなり片瀬セリナとあんな仲が良いの?」


「え……?」


 その、キョトンとした顔。虚をつかれたかのような間抜け面は、俺の思った通り。

 ——あいつが、そんなことは微塵も考えていなかったことを証明していたのであった。

 月曜日に転校してきたばかりの片瀬セリナと、なぜ自分が親しくしているのか? 

 その、理由も、きっかけも覚えていないのに、全く疑問に思っていない。

 そんな者の顔。

 ——俺は、あいつの態度にますますの確信を深める


 あの子を——片瀬セリナを——もっと俺は注意しなければならないのではないかと……。

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る