第31話シフォンケーキ(後編)
「お待たせいたしました」
「! ……早かったわね。これは――」
思いのほか早く戻ってきた少女が差し出した1皿に、私は目をすがめる。
「シフォンケーキ、ね」
「はい、仰るとおりです」
ことり、と。
目の前に皿が置かれる。
職業柄、ケーキの類には見る目が厳しいつもりだ。
その私でも文句のつけようがないくらい、そのシフォンケーキは、まるで重力を感じさせないほどに、高く、ふっくらと膨らんでいた。
その褐色の色彩から、プレーンではなく何かを混ぜ込んでいることがわかる。
添えられたホイップクリームの艶と立ち加減も申し分ない。
盛り付けに使われた皿も、シフォンケーキを引き立てており、クリームと何か褐色のソースの描くコントラストも素晴らしかった。
まずその盛り付けに目を奪われたことには、気付かないふりをして、あえて事務的に問いかけた。
「とにかく、これを食べればいいのよね? ――いただくわ」
「はい、どうぞ」
何かと問われれば、間違いなく義務感の一心で、私はそのケーキにフォークを入れた。
なにがなんだかわからない出来事に遭遇しているが、このケーキを食べれば元の場所に戻れると、この少女は言っている。
今はそれに賭けるしかない。
仕事は山ほどたまっているのだ。そこに戻れると言うなら、ケーキの一つくらい食べてやろう。
その程度の気持ちで、食べにとりかかったのだが――。
「! これ……っ!」
フォークを入れた、その瞬簡に、まずその柔らかさにおどろいた。
力を入れるまでもなく、その重みだけでふわりと、ケーキにフォークが沈んでゆく。
それでいて、程よい弾力も兼ね備えている。
わずかに興味をひかれながら、私は切り取った一切れを口へ運んだ。
「柔らかい……溶けるわ」
そのシフォンケーキは手ごたえ通りの、いえ、その予想以上の柔らかさだった。
頬張ればふわっふわのふくらみ。そして噛めばしっとりとして、なめらかにほどける口どけ。
控えめの甘さは卵と小麦の風味を感じさせ、添えられたクリームも甘過ぎず、適度なコクをプラスすることができる。
そして。
「これは紅茶ね……。なんていい香りなの――」
ケーキに練りこまれたなにか、それは細かく挽かれた紅茶の茶葉だった。
それはひどく香り高く、するりとけた後口に、ふわんと口いっぱいに紅茶の芳香をただよわせる。
私はたまらず、2切れ目を口に運ぶ。
たまらない柔らかさ、そして優しい甘み、芳醇な香り。
その全てが、私の手を動かして止まらない。
1切れ、また1切れと。
(ああ……ふわりとして、しっとりして……)
最初に感じた義務感など、これを食べれば会社に戻れることなど、すっかり忘れていた。
今はただ、このケーキを味わいたかった。
またたく間に、夢中で食べきってしまった。
添えられたクリームもソースも、まとめて拭いきって食べ終え。
ほう、とようやく私は一息ついたのだった。
「いかがでしたか?」
声をかけられ、はっとして少女を見た。
それまで存在を忘れていたのだ。
「――素晴らしかったわ。とても美味しいシフォンケーキだった」
食べ物には厳しい自負があるけれど――このケーキは認めないわけにはいかなかった。
そう言うと、とても嬉しそうに、少女は笑った。
「それは良ろしゅうございました」
食後の紅茶を入れてくれながら――ケーキに使われていたものとはまた違った香りだ――、少女は言う。
「お客様。シフォンケーキの柔らかさは、どうして生まれるのか、ご存知ですか」
「もちろんよ。それは空気を含んでいるからでしょう。卵白を使用したメレンゲ。そのきめ細かい気泡を含んでいることで、柔らかくふわっと仕上がるのだわ」
「仰るとおりです。では――固く角が立ち、ぼそぼその味気ないシフォンケーキがあったら、お客様はどうなさいますか?」
「はあ? 何よそれ。固いシフォンなんて、そんなもの、食べられたものじゃないでしょう。誰も見向きもしないわよ」
「どんな時に、シフォンケーキはそうなってしまうのでしょう?」
「それは、泡立ちが足りなくて、膨らみきっていないからでしょう。もしくは、メレンゲを泡立て過ぎて、逆に泡がつぶれちゃったときね」
これでも食べ物に関しては専門だ。
このくらいは苦もなく答えられる。
そう思って、言葉を継いでいた私だけれど――
「では、お客様もきっと、ふっくらと柔らかくなれるはずですね」
「は!?」
その少女の言葉には唖然となった。
「あなた、いきなり何を言っているの?」
そんな私に、少女はゆったりと笑って語りかける。
「今お客様がおっしゃったとおりです。――私、お客様がいらしたときに思いました。空気をたくさんたくさん、いっぱいに張り詰めて、がむしゃらにふくらんでる、シフォンケーキのような方だって」
「な――!」
いまだかつて、言われたことのない、ほめ言葉なのか、けなし言葉なのかもわからないその言葉に、私はどう反応したらよいかわからず、不覚にも一瞬絶句してしまった。
「でも今のお客様は、失礼ながら、とっても固いです――それこそ、誰も見向きもしないくらいに。泡は充分に立っています。お客様の中には、はちきれるほどの空気を抱き込んでいる――いえ、抱き込もうとしている。でも、きめ細かさが足りず泡が不均一になっているのでしょうか――それとも力を込めて混ぜ過ぎて、泡がつぶれてしまったのでしょうか。……お客様に、お心当たりはありませんか?」
「…………」
私は、今度は別の意味で絶句してしまった。
いつだって成果をだそうと、がむしゃらに張り切っていた自分。
部下達にも、一人ひとりを見ることなく、誰だろうと自分と等しくあれと無理矢理に押し付けていた自分。
自覚していながらも、周りへのいらだちで、そして自分へのプレッシャーで、目を背けていた――気付かないふりをしていた自分。
そんな自分がこの少女の前で、あからさまにさらされていた。
その事実に、返す言葉がなくなる。
「シフォンケーキの魅力は、包み込むようなその柔らかさです。その柔らかさは、内から支える、たくさんの空気があればこそ。――お客様はそうおっしゃいました。それをご存知のお客様なら、そしてその空気をたくさん秘めていらっしゃるお客様なら、きっと魅力的なシフォンケーキになれるはず。そうではありませんか?」
「あ、あなた……なにを、勝手なことを」
言い返すも、いつものように強気に出られない。
だって――今まで自分が言った言葉が、全て自分に跳ね返ってくる。
そして何より、完璧な、少女のシフォンケーキを食べてしまったから。
その魅力的なケーキに憧れを――抱いてしまったから。
「きっと少しの変化で構わないのです。未来のお客様にいつかお会いできることを、楽しみにしています」
***
「――!」
危うく、また声を上げるところだった。
突然、いつものオフィスに切り替わった光景に、私は思わず辺りを見回す。
挙動不審になった私を不思議に思ったのか、隣の席の部下が、
「部長……どうかされましたか?」
おずおずと声をかけてくる。
(うるさいわね!)
――と、とっさに言い返そうとしたところに。
不思議な店で出会った美少女の顔がふっとよぎった。
「…………。なんでもないわ。仕事を続けなさい」
叱責を覚悟していたのか、拍子抜けをしたような顔をして、部下はこちらを見つめていた。
「――部長、企画書の、訂正の件なのですが……」
「見せて」
書類の束を受け取ると、目を通した。
(……相変わらずぱっとしないわね)
ため息をつきそうになる――
が、ぐっとこらえた。
よくよく読んでみれば、最低限、私が指摘した箇所はきちんと直してきている。
思えば、そんなことにも今初めて気付いた。
100点でなければ切り捨てていたけれど――
70点や、80点の回答も、あったのかもしれない。
「……ここと、ここは直して。後もう少し、キーワードを華やかに」
言って、書類を差し戻す。
怒鳴り返されなかったのがよほど意外だったのか、書類を手渡した部下ばかりか、近くに座っていた部下達全員が、驚いたように私を見ていた。
その反応に、
(私をモンスターか何かとでも思っていたのかしら……)
呆れを通り越して、なんだか笑えて来た。
訂正すればきちんと直せるなら、指導していけば使える人材に成長するかもしれない。
そうすることでモチベーションが高まれば、部下からの積極的な働きも期待できるかもしれないのだ。
今の私は、それを待ってもいいかなと、少しだけ思えるようになっていた。
***
「本日のお客様は、コーラルの鱗……ですか。意味は、威厳・成長。……ふふ。あのお客様らしいですね」
綺麗な鱗をゆっくりと眺めてから、私は貯鱗箱にそれを落とし込みます。
「さて、私もあのお客様を見習って――張り切っていきましょう、これからも」
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