第14話 一番したい事

 長い夏の夕暮れもいつの間にか終わって、空は夜の色。窓からそっと離れて、花奈子かなこは壁際に並んだ椅子の一つに腰を下ろし、携帯を取り出した。ひろしちゃんからの着信履歴が三回、メッセージが二回。

 いくら立ち読みしても大丈夫な本屋さんなんて、冗談かと思っていたのに、東京には本当にあるのだった。美蘭みらんからここで待つように言われて、かれこれ2時間ちかく。さっき「駐車場いっぱい!もう少し待ってね」と連絡してきたけれど、こんなに車が多そうな場所での運転、大丈夫なんだろうか。

 漫画、動物、東京のガイドブックと手芸に画集と写真集。あれこれ立ち読みして、途中で喉が渇いたので外の自販機でジュースを飲んで、拓夢が好きそうな絵本を探して。

 手にした絵本を膝に置いてめくりながら、美術部で文化祭に絵本を作ってみるのはどうかな、と考える。さすがにお話を作るのは難しいから、好きなのを選んで絵だけ描くとして、何がいいだろう。

「気に入ったのある?」

 ふいに聞き覚えのある声がして、顔を上げると目の前に美蘭が立っていた。

「びっくりした!ていうか、そのドレスすごく似合ってる」

 今までショートパンツとかジーンズ姿しか見たことがなかったのに、今日の美蘭は青い花をモチーフにした、鮮やかなプリントのサマードレスを着ている。胸元の大きくあいたフレンチスリーブで、白い肌が眩しいほどだ。首には銀のペンダントが光り、しなやかな手首には同じく銀色の、ブレスレットみたいに細い腕時計が輝いていた。足元はドレスに合わせた青いストラップが涼しげなサンダルだ。

「ありがと。長々とお待たせしてごめんね」

「ううん、私こそ、急に連絡したりして」

「それは全然大丈夫。さて、じゃあいったん戻るとしましょうか」

「え?戻るって?」

「おじさまのところ」


 要するに、美蘭としてはまず寛ちゃんに会って、今夜花奈子を自分のところに泊まらせる許可をとりたいらしい。

「家出みたいなことしちゃうと、大人って心配するじゃない?だからこそ礼儀正しくご挨拶したいのよ」

 勢いよく飛び出してきたのに舞い戻るっていうのも、何だか格好がつかないなあと思いながら、花奈子は車の助手席に身を沈めていた。

「今日は亜蘭、一緒じゃないの?」

「そう。せいせいしてる」と言いながらも、美蘭はカーナビを見ながら運転するのは少し面倒みたいだ。何より、寛ちゃんが住むあたりの道ときたら、美蘭の車で走るには狭すぎる。ようやくマンションのそばにあるコインパーキングまでたどり着いて、そこから夜道を歩いてゆく。

 電話だけはしておいたから、寛ちゃんは家で待っている筈だけれど、怒ってるだろうか。そんな心配をしながらマンションの入口まで来ると、郵便受けの下に例の黒猫が尻尾をくるりと身体に巻きつけて座っていた。

「おーう、豆炭まめたん、久しぶり」

 美蘭はドレスの裾も気にせず腰をかがめると、指先でその頭を軽く撫でた。

「やっぱりこれ、かどや旅館の豆炭だと思う?」

「うん」

「でも、なんで東京にいるのかな」

「遊びに来たかったんじゃない?」と、平然とした顔で言うと、美蘭は立ち上がり、足音もたてずに階段を上がってゆく。花奈子も何となくその言葉に納得して後に続いたけれど、その足元をかすめるように豆炭もついてくる。

「203号室だよ」と、声をかけなくてもわかっているみたいに、美蘭は寛ちゃんの部屋の前まで行くとインターホンを押した。


「おじさま、お久しぶりです。そのせつは花奈子ちゃんにすっかりお世話になりまして」と、美蘭は仕事モードの笑顔と声で挨拶した。寛ちゃんは何だかしどろもどろで「あっ、どうも、この前は」なんて、まるで大人の女の人としゃべってるみたいに落ち着きがない。その後ろでは葛西かさいさんが、これまた呆気にとられた感じで二人を見比べていた。

「まあ、狭苦しいところだけど、ちょっと上がってお茶でもどうぞ」

「それには及びません。私、このまま花奈子ちゃんを家にお連れして、泊まっていただこうと思ってるんです。でも、おじさまもたぶんご心配でしょうから、どうでしょう、一緒に来ていただいて、どんなところかご覧いただくのは」

 そう言って美蘭がにっこりしただけで、魔法にでもかかったみたいに寛ちゃんと、何故だか葛西さんまで、車に乗って彼女の家に行くことになってしまった。


 大人っぽいとはいえ、美蘭はまだ高校生だし、寛ちゃんのとこと変わらない感じのマンションかと予想していたのに、大間違いだった。駐車場が地下、というのでまず驚いて、そこから直接エレベータで上がれる、というのにまたびっくりして、二十七階という高さに感心し、ドアから一歩中に入るとその広さに呆然とした。

「うわあ、なんか、ドラマに出てくる部屋みたい」

 天井が広くて、照明は高級ホテルみたいに落ち着いている。テーブルやなんかの家具は、美蘭に似つかわしい、すっきりと無駄のないデザインのものばかりだ。そしてベランダに続くリビングの窓からは、息を呑むように美しい夜景が見渡せるのだった。

 寛ちゃんはただただ「いやあ、すっごいねえ」と唸っていた。そりゃたしかに、裏が墓地という自分の部屋に比べたら言葉も出ないだろう。

「大して広くもないですけど、お客様用の部屋もありますので、花奈子ちゃんに使っていただければ」

 寛ちゃんは「あ、はあ」とか言っていたけれど、ようやく思い出したように「そういえば、弟さんがいたよね?彼もここに住んでるの?」と尋ねた。

「あの子はもう、売り払いました」

「えっ!」と、声を上げたのは花奈子だ。美蘭はちらっと目配せすると「というのは冗談ですけど、お互いもう十八ですし、別のところに住んでいるんです」と説明した。

「じゃあ、ここに一人なんだあ」

 葛西さんはまだ信じられない、という感じで夜景に見とれている。

「よろしかったら、お食事召し上がって行かれますか?簡単なものでよければ作りますから」

「いやあ、とんでもない」と、寛ちゃんは即座に断り、花奈子に向かって「じゃあ、せっかくご招待いただいてるんだし、今回は特別に一晩だけ外泊許可するけど、失礼のないようにな」と念を押して帰っていった。美蘭はもちろん「車でお送りします」と申し出たけれど、寛ちゃんはこれも辞退した。


「美蘭、ほんとにありがとう」

 ようやく二人だけになって、花奈子はあらためてお礼を言った。美蘭もそれまでの営業モードから普段の自分に戻った感じで、軽く息を吐いてから「あれじゃ花奈子も大変だね」と言った。

「え?何が?」

「あの女の人よ、葛西さんだっけ。おじさまにターゲットロックオンしちゃって、ずっとくっついて来てるんでしょ?」

「まあ、たしかに、昨日から一緒だけど」

「わかるけどね。おじさま優良物件だし、花奈子とも仲良くなって、がっちり食い込むつもりでいるんだ」

「優良物件?寛ちゃんが?」

「高学歴で、いい所にお勤めで、三十代で、性格が良くて、悪い遊びもしないし、適度に鈍感。葛西さんは同僚でしょ?職場恋愛は初動の速さが基本だけど、ちょっとがっつき過ぎてバレバレかな」

「それって、葛西さんが寛ちゃんのこと好きって意味?」

「私の見立てだけど。だからってぐいぐい割り込んでこられても、花奈子が迷惑だよね」

 驚いた。何も言っていないのに、美蘭はあっという間にこの二日間のもやもやした感じを整理してしまった。

「別に悪い人とかじゃないんだよ」

「悪気ないのが、一番たちが悪いの」と断言すると、美蘭はテーブルに置いていたバッグから携帯を取りだし、ぶっきらぼうに「帰ってきていいよ。晩ごはん忘れないでね」と告げた。


 エビチリソースと焼きビーフンと、麻婆茄子に春巻きに鳥の唐揚げ、セロリとイカの炒め物、それから杏仁豆腐。亜蘭あらんが提げて来た袋から次々に取り出してテーブルに並べながら、美蘭は「近所だと、ここのが一番おいしいんだよね。出前やってくれれば言うことないんだけど」と言った。そして「早くお皿出して、飲み物準備して」と命令する。

「あ、私がやるから、どこにあるか言って」花奈子は慌てて立ち上がったけれど、美蘭は「お客様は座ってればいいの」としか言わない。代わりに亜蘭がキッチンから食器を運んでくる。

「お茶はジャスミンティーの温かいのいれてね」と、また命令して、美蘭は「先に食べよう」と割り箸を花奈子に手渡した。

「でも、買ってきてくれたの亜蘭だし、待ってようよ」

「甘やかさなくてもいいの」

「だって、急に私が来ることになって、お部屋の掃除したのも亜蘭なんでしょ?」

「まあ、かなりとっ散らかってたけど。でも私はおじさまにお目にかかるのに、ちゃんとしたドレスがないから買いに行くという、大事な用があったの」

「いつもの服で大丈夫なのに」

「それは私の勝手。素敵な殿方にお目にかかるのに、ジーンズなんてありえないし」

「寛ちゃんは殿方なんてのじゃないよ。ただのおじさん」

 美蘭はそれには何も言わず、口元に笑みを浮かべてみせた。ようやく亜蘭がジャスミンティーの入ったポットを片手に戻ってきて、花奈子はあらためて「いただきます」と言った。

「でも亜蘭もやっぱりここに住んでたんだね。さっき売り払ったなんて言ったから、驚いたよ」

「まあ、人畜無害だけど、おじさまが心配なさらないようにね。でも、今日は食事の後片付けがすんだら出てってもらうから、安心して」

 美蘭は平然とそう言って、セロリをシャキシャキと噛み砕いた。

「え?よそに泊まるってこと?」

「そう。だってむさ苦しいじゃない、乙女だけで過ごした方が空気も清らかだし」

「でもそれじゃ亜蘭に悪いよ。私が急に泊まりに来たからでしょ?」

 別に同じ部屋に泊めてもらうわけじゃないし、これだけ広ければ亜蘭がいても平気だと思えた。

「僕は、構わないから」

 今日はじめて、亜蘭の声を聞いたような気がした。花奈子が思わず「でも」と言うと、彼は「外で泊まるのなんてしょっちゅうだし、どこででも寝られるから」と続けた。

「この人ね、花奈子が想像してるのよりずっと下等生物だから。どっかに閉じ込められて三度三度同じ食事を出されても、監禁されてることに気づかないタイプよ」

 さすがにそれは冗談だよね、と思いながら、花奈子は大きな海老を頬張った。本当に亜蘭って無口というか、彼の分のおしゃべりを、美蘭が全部奪い取って生まれてきた程に思える。

 それだけじゃない、笑ったり楽しんだりといった気持ちまで美蘭が担当して、まるで二人は日なたと日陰みたいだ。逆に彼が美蘭より多く持っているものって何だろう。

「花奈子、明日はどこ遊びに行こうか。新宿二丁目とか行ってみる?」

「え?新宿二丁目?って何があるの?」

「いやまあ、それは冗談だけど、おじさまとは行かないような場所がいいかしらと思って。すっごく可愛い下着のお店だとか、コスプレでメイクから撮影までやってくれるスタジオとか。それとも、マイナス二十度の北極カフェなんかどう?爬虫類カフェもあるけど、あそこの白いニシキヘビ、冷たくて気持ちいいわよ。あと、オーラの色見てくれる人がいるけど、彼女シンガポールから帰ってるかな。代わりに手相みるのでも構わない?」

「ええと、どうかな」と、花奈子は何だか目が回るような気分で考えていた。美蘭の住む世界はやっぱり自分の世界とずれていて、しかも奇妙に魅力的だ。

「でも…まだ拓夢のおみやげ買ってないんだった。東日テレビの夏フェスタでしか買えない、限定モデルのハイパーポリスFXっていう、戦隊ヒーローのミニカーを買いたいんだけど、なんか朝から並んで整理券貰わないといけないらしくて」

「はいはいはい、期間限定夏フェス商法って奴ね。でも大丈夫、亜蘭に行かせるから」

「えっ、なんで?!」

「だって花奈子は他にも行きたいところがあるし、亜蘭なんかどうせ暇だもん。いまの、メモったよね」と、美蘭が指を立てると、「東日テレビの夏フェスタで売ってる限定モデルのハイパーポリスFXミニカー」と即座に返ってきた。

「すごい、憶えてる」

 亜蘭は二人の会話なんてまるで聞いてないという感じだったのに、答えは完璧だ。

「でもやっぱり、悪いよ」

「私がいいって言ったらいいの。で、どうする?別に国会議事堂でも構わないよ」

 正直、考えれば考えるほど判らなくなる。美蘭とだったら、どこでも楽しいだろうし、結局いつもの花奈子のくせで、本当のところ自分が何をしたいんだか、よく判らないのだ。いっそ決めてもらった方が楽かもしれない。今、一番したいこと。東京でしか、できないこと。

「そうだ!」

 自分でもびっくりするほど大きな声が出た。

「東京都人並区に行きたい。なんか、そんな名前のNPOっていう、団体みたいなところ」

 美蘭は別に驚くでもなく、涼しい目で花奈子の方をまっすぐ見ると「わかった」と答えた。

「で、そこに行って何をするの?」

「お兄ちゃんが来てないか、きいてみるの」


 本当にこれ、夢みたい。

 両手で泡をすくって勢いよく吹いてみると、雪みたいに宙に舞った。甘いピーチの香りがする泡に首まで埋まったまま、花奈子はバスタブの中で足を思い切り伸ばした。

 食事をすませて一息つくと、美蘭は「先にお風呂に入ってね。その間に亜蘭を追い出しとくから。すっごい泡の出る入浴剤があるの、面白いよ」と、準備を始めた。花奈子の家に比べると倍ほどの広さがあるバスルームは、正面に天井から床までの大きな窓があって、夜景を楽しめるようになっていた。

「明かりは消しとくのがお勧め。ちょっと宇宙船気分が味わえるから。私、このマンションなんか別にどうって事ないと思うけど、お風呂だけは好きなのよね」

 その言葉通り、暗くしたバスルームで泡にもぐって煌めく夜景を眺めていると、地球を離れたどこか別の場所にいるような気分になる。少しぬるめのお湯は心地よくて、このまま眠ってしまいそう。でもまばたきするのさえ勿体ないほど外の景色は美しく、月見峠が六千円の夜景なら、ここにはどれ程の値段をつければいいのか見当もつかない。

 これで流れ星が見えたりしたら最高なんだけど。でもそれは贅沢というもので、空は晴れているけれど、街が明るすぎて星はほとんど見えない。でも、半月よりもうすこし太った月が、あまり高くない場所に輝いていた。

 まるであの、黒い獣の眼みたいだ。本当は漆黒の空に身を隠していて、月だと思わせるために片目を閉じて、こちらをじっと眺めているんじゃないだろうか。そう考えるとだんだん本当に思えてきて、花奈子は月をよく見るために身体の向きを変えた。静かなバスルームにちゃぷん、と水の波打つ音が響いて、その後に泡の弾ける囁きが続く。

 あまりにも静か過ぎて、世界に自分一人しかいないような寂しさすら感じて、花奈子は大急ぎで地上の光に目をこらした。大丈夫、みんないる。車だって走ってるし、電車も動いてる。そう言い聞かせてまた空を見上げると、月は二つに増えていた。いや、そうじゃない。あれは、レモンイエローに光る一対の眼だ。

「ツゴモリ」

 思わず名を呼ぶと、彼は空中から、そこに螺旋階段があるような弧を描いて一歩また一歩と降りてきた。そして窓ガラスを通り抜けると、花奈子の目の前の何もない空間を踏みしめて歩き、音もなくバスルームの床に降り立った。

「どうしたの?」

 何故だか、前ほど怖くはなくて、花奈子は自分を見下ろしている黒い獣、ツゴモリにそう話しかけていた。

「どうもしない。お前が私のいることに気づいたのだ」

「じゃあ、ずっとあそこにいたって事?」

 だったらお風呂に入るところから丸見えじゃん。そう思うと何だか腹立たしくなってくる。

「私はいつも存在するし、いつも真実を見ている。お前が服を着ているかどうかなど、意味のない話だ」

 花奈子の考えなんかお見通し、といった感じで彼はそう答えると、何かを確かめるように太い首を廻らせた。

「いい匂いがするでしょ?入浴剤だよ」たぶんこの、ピーチの香りがどこからくるのか不思議なんだろうと思って、花奈子はそう説明した。ツゴモリは小さなくしゃみのような音をたてて鼻を鳴らすと、「これは作り物の匂いだ。お前は本当の桃の香りをよくは知らないだろう」と言った。

「本物の桃だって知ってるよ。あんまり食べないけど」

「お前の住まいからしばらく川を上ったところに、南向きの丘がある。今は皆が家を建てて暮らしているが、あそこには昔、桃の木がたくさん生えていた」

 うちから見て川上にある丘っていえば、ちょうどキリちゃんの家のあたりだろうか。でもあそこはずっと前から住宅地のはずだ。

「春になると主人は私を伴って桃の林へ出かけ、咲きこぼれている花を手折ると髪に挿し、雲雀の声を追いかけてどこまでも歩いた。夏になり、桃の実が熟れるとそれを摘んで籠に盛り、父母に食べさせようと持ち帰った。両の腕で抱えてもまだ重いので、彼女は時折、籠を私の背にあずけた。桃の香りに誘われた蝶や蜂が私の周りを飛び回ると、彼女は声をあげて笑ったものだ」

 いったい、いつの話をしているんだろう。もし美蘭の言う通り、ツゴモリが古墳に埋められていたとしたら、千年以上前のことだろうか。

「その、主人、って誰のこと?女の人なの?」

「そうだ。私は彼女が幼い頃から仕え、十五の年に身罷るとそれに殉じて地に眠った」

「みまかる、って?」

 ツゴモリの銀色のヒゲがかすかに震えて「亡くなる、ということだ」と、答えがある。

「彼女は定められた相手の妻にならず、密かに心を通わせた男と結ばれた。そのため罰を受けて命を召されたのだ」

「それは、殺されたっていうこと?十五って私と同い年だけど、もう結婚したの?」

「別に早すぎるという年でもない」

「まあ、子供じゃないけど」

でもやっぱり早いよ、と思いながら、花奈子は泡の中で膝を抱えた。

「若い娘というものは臆病そうに振舞うが、そのくせ途方もなく向こう見ずだ。この館に住むあの娘にしても、まるで恐れを知らない」

 ツゴモリは首を伸ばし、中の様子を窺うように耳を何度か動かした。

「美蘭なら、あっちにいるけど、今は会わない方がいいんじゃないかな」

 実のところ今夜、花奈子は車の中で美蘭に「ね、約束していた事、わかったよ。名前はツゴモリだって」と教えていたのだ。約束は約束だし、それを隠して彼女に会うのはずるいと思ったから、正直に話した。でもツゴモリにしてみれば、それは迷惑な事なのかもしれない。いずれにせよ、二人が顔を合わせれば、美蘭がまた刃物を振り回すような気がして怖かった。

「あの娘に、用などない」

 ツゴモリはまるで興味がなさそうにそう言うと、長い尻尾を左右に振った。花奈子はその、鞭のようにしなやかな動きを目で追いながら、美蘭の言った事を考えていた。

 あいつには力がある。あいつは花奈子にだけ力を貸してくれる。

「ツゴモリ、お願いがあるんだけど」

 バスタブの中で背筋を正し、思い切って尋ねてみる。

「何だ」

「もしあなたに特別な力があるなら、拓夢たくむの、弟の病気を治してあげてほしいの」

 いいだろう、その願いは聞き入れられた。

 いつか耳にした、その答えを期待しながら、花奈子は泡の中で両手を握りしめていた。

「私はもちろん、お前の弟にとりついた病のことを知っている。だが、お前は病というものについてよくは知らない。一言で病と呼ぶにも、弱いものから強いものまで様々だ。人の命を揺るがすものもあれば、通り雨のように過ぎ去るものもある。およそ人間というものは病を忌み嫌うが、実のところ、病を得ることによってその強さを増す命があるということについては、考えが及ばないようだな。故に、病を得たものから徒にこれを取り去るという事が、却って命を細くするという結果にも思い至らない。お前の弟に関して言うなら、今はまだその時ではない」

 その、とても長い答えが正確に何を意味するのか、花奈子には判らなかった。ただ、自分の願いが聞き入れられなかった事だけは、わかった。

「どうしても駄目なの?代わりに私が病気になるのは?」

「人にはそれぞれが負うべき病がある。お前は弟の病を引き受けることはできない。だがいいか、待つこともまた、病を退けるために必要なのだと知るがよい。大いなるものが動く時、人の目にはとりわけ緩やかに映るものだ」

 それだけ言うと、ツゴモリは一歩前へと足を踏み出した。その前足は冷たいバスルームの床に音もなく沈み、続いて出されたもう片方の前足はもっと深く沈んだ。そうやって、彼の黒い大きな身体はバスルームの床に呑みこまれて消えてしまった。

 一人取り残された花奈子は、急に冷めてしまった感じのするお湯に首までつかり、ツゴモリの言葉を考え続ける。待つことも必要、という事は、拓夢の病気はすぐではないにしても、いつか良くなるに違いない。だったらやっぱりお兄ちゃんに会って、病院の近くに引っ越すことを相談しなくては。


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