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#008-パラレル妄想インタラクティヴ

パラレル妄想インタラクティヴ 第1話

 あれはもうだいぶ昔の事で、記憶も定かではない。けれど、と出会ったのは、確かこの辺りだった気がする。


 私はスマートフォンの画面と、薄暗くなってきた周囲の風景を見比べていた。確か、近くにはコンビニがあって、周りは一戸建てと二階建てのアパートがたくさんあった。高い建物はそんなに記憶にない。私は眼鏡を外して、ポケットティシュを一枚取り出してレンズを拭いた。これは考える時にしてしまう癖だ。でも悪い癖ではないはずので、かれこれ何年間も放っておいている。


 そもそもこの地域だったのかどうかも確信がない。おぼろげに覚えているのは、だいたいこのくらいの暗さであったことと、春を目前にしたこの寒い時期であったことと、コンビニと、片側一車線の不気味な道路くらいだ。


 そもそもなんでこんな所に来ようと思ったのかすら、判然としない。


 二十年も昔の記憶を辿ってやって来たのはいいけれど――。


 私がに会ったのは、こんな風景の中だった。お父さんが何故かひどく汗をかいていたのも良く覚えている。そして逃げるように私を連れ帰り、それ以来、一言もこの話をしようとしなかった。今に至ってはしたくてもできないという状態だったから、今私が頼れるのは、この劣化していく私自身の記憶だけだった。


 私は無事に大学を卒業して、いまや知らぬ者のいない「漸近認識研究所」に勤めている。私が研究しているのは、「統合認識理論」と呼ばれる新しい学問である。それは、人間の認識や精神、思考というものが一体どこで生み出されて何に支配されているのかを研究する学問で、ゲシュタルト心理学の単位をより拡張した学問であると言えばおおよそそれなりに正確だろう。


 私は、「そもそも精神はより大きな集合の中に存在していて、それが個々の人格というはこの中に適宜振り分けられているのではないか」という命題を解き明かそうとしている。ユングによる集合的無意識についても、この命題が正しければ証明できるということになる。


 私がこんな学問に目覚めたのは、まさにに出会ったことがきっかけだったと言っても良い。そしてお父さんがあんな状態になってから、私は自分の考えが間違えていないということを強く感じるようになった。


 私はお父さんを助けたい。


 お母さんが事故で死に、それ以来ずっと苦労して私を育ててくれたお父さんが、ああなってしまったのは本当に悲しい。弟も遠くない未来に、お父さんと同じようになるに違いない。


 ため息をついて、私はスマートフォンをポケットにしまった。


 太陽はすっかりと落ちていて、西の空がほんのわずかに赤く燃えて抵抗を続けていた。陽炎のように揺らぐ空は、近くの建物さえも黒ずんだ卒塔婆ソトバに変えてしまう。


 また溜め息をつき、ふと視線を南に転じた。街灯は三個に二個が切れていて、道路はとても暗い。時々思い出したように、何百メートルも彼方で車が曲がっていくのが見えた。ヘッドライトの無駄な明るさが、そのたびに私の目を刺した。


 寒いこの地方では、いわゆる春のこの時期でも桜はまだまだ咲かない。五月の連休に咲いていれば御の字だ。花見というイベントは、咲いてもいない桜の木の下で、カラスと炭火焼肉ジンギスカンを奪い合うために開催されるものだと、私は思っている。


 私はそろそろ諦めるかと、その薄暗い道の方へ歩を進めた。駅にはこっちから行った方が近い気がしたのだ。一番近い曲がり角に差し掛かった時、私はと足を止めた。目の前には薄汚れた立方体の建物があった。さっきまで見えなかった建物だが、ではそこには何があったのか、或いは何も無かったのか、考えてみても全く思い出せない。


「これだ……」


 私はポケットの中をまさぐって、スマートフォンを取り出した。しかし、画面が明るくならない。


「あれ?」


 十分に電池は残っていたはずだ。電源も切ってはいない。


 気が付けば、私はその建物の前に立っていた。玄関フードの中には、赤い看板が適当に置かれていた。そこには、黒々とこれでもかと言わんばかりに『美味兎屋』と書かれていた。


「みみとや……?」


 そうだ。


 その瞬間、あの時の記憶が鮮明に蘇った。

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