#007-濡レ雑巾ノマス秤

濡レ雑巾ノマス秤 第1話

 また深夜残業だよ。


 いい加減うんざりだ。世の中は不景気だ。ボーナスだって貰えない。そのくせ公務員様は、普通の企業の三倍も四倍ももらっていやがる。赤字を抱えたって誰一人クビにならないし、我々庶民に何を言われたって下っ端は無視するわけだし、上の連中はそれこそ神様気取りでの椅子にふんぞりかえっている。


 一方で私たちは、どんなに頑張ったって評価されない。言葉で何と言われようと給料は上がらない、ボーナスは貰えない。そのくせ、意味のわからない人事で他の連中は昇進していく。私より五年も遅く入社したチャラ男が、いまや上司だ。私は毎日遅くまで仕事してるのに、のあいつは定時でいなくなる。炎天下の中這い回るように営業したって、この不景気じゃ契約なんて取れやしない。そのくせあの課長様は成績が悪いと突き上げては、あてつけのように大口の契約を取ってくる。コネがあるからできるのだ、そんなこと。


 窓の外を足早に遠ざかっていく夜景を眺めながら、ラブホテルの横を通り過ぎながら、私は溜息をつく。あの中では暢気のんきにイチャついてる奴らがいるんだろうな。このご時世に本当に暢気なモノだ。


「あ、そこのコンビニで止めてくれ」


 恭しく差し出された二十円のお釣りを無言で受け取って、私はコンビニに入る。成人誌を立ち読みしているガキが目障りだった。んなもん、買って家で読めよ。舌打ちでもしてやりたい気分だったが、物騒なこの世の中だ。そんな事をして絡まれても面倒だ。無関心を装うのが一番賢い。


 特に買いたいものなどなかったが、何となくペットボトルのお茶を手に取っていた。どうせ帰ったらすぐに寝るのに。


 こうして無駄遣いが増えるんだよなぁ。


 無愛想な店員に無愛想に応じて、私は今度こそ家へと向かう。


 どうせ誰も待っていない真っ暗な家だ。敷きっぱなしの布団だけが道具本来の役割を果している。冷蔵庫さえ、まともに使っちゃいない。


 歯を磨くのもだるいなぁと歩いていると、いつもの帰り道に阿呆なガキどもがたむろしているのが見えた。勉強もしないでチャラチャラ遊んでいる阿呆だ。高校さえ卒業できないか、していないだろう。いや、あんな高卒がいたらいたで迷惑だ。実際に今もそれで迷惑を被っている。


 私は高卒だ。大学は経済的事情で諦めた。社会経験は長い。長いのに、高卒であるというだけで昇進さえできない。学歴なんて関係ないとはよく言うが、だったらこの差別待遇は何だ。たいした能力もない大卒の連中の方が、明らかに優遇されているじゃないか。


 私はそんなことを考えながら、仕方なく別の道を通ることにした。あんなのに絡んで刺されでもしたら死にきれない。


 一本違う通りに出ると、なんだか違和感を覚えた。視界の隅に立方体の建物が見えた。どこか薄汚れた印象の玄関フードの中に、赤い看板のようなものが立てかけられている。神経質に明滅する玄関燈が、赤い看板をじれったく照らしている。


 通りを渡って近付いてみると、黒々と踊る『美味兎屋』という四文字が見えた。


「びみ……うさぎや?」

「ミミトヤだ」


 突如耳元で聞えた男の声に、私は飛び上がらんばかりに驚いた。心拍数が数倍に跳ね上がったかのようだ。


「なんだ、あんた、いつのまに」

「WHAT、WHO、WHEN、どれから訊きたい」


 痩身で背の高い、眼鏡をかけた男が私の真後ろに立っていた。こんな夜中に何故か白衣を着ていた。手には何も持っておらず、コンビニ帰りというわけでもなさそうである。


「ど、どれでもいい。こんな夜中に驚かすな」

「他人の領域を覗き込んでおいてよく言う」


 男は無表情に言った。ここはこいつの家なのか。奇妙で不気味な立方体。


「まぁいい。興味があるなら入れ」


 男は全くトーンを変えずに、半ば強制的な口調でそう言った。


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