第6話 帰宅後何していますか?
「よし、本日の業務はこれにて終了」
『退勤打刻中……完了。
明日は掃除当番だ、ちゃんと起きろよ~』
「わかってますよ……それじゃあネ子さん、また明日」
『お疲れ様』
退勤時刻を記録してPCの電源を落とし帰宅準備にとりかかる。
といっても、記録やPCの終了作業はネ子さんとのやり取りをトリガーに自動化されているので、私が操作することはほとんどない。
帰宅準備も机の上の書類をキャビネットに押し込むだけでの単純作業だ。
片付けを終え、周囲に視線を彷徨わせる。
誰か晩御飯に誘えるメンバーがいるか確認するためだ。
「いないか」
既にチームメンバーの席はすべて空になっていた。
私は遅刻した分ワンテンポ遅れての業務終了だったのだが、その間に皆退勤してしまったようだ。
これ以上会社に長居する理由はないのでさっさと出口に向かう。
あの場に残り続けて面倒ごとに巻き込まれるのは御免だ。
特に退勤後はタダ働きになってしまう……無報酬労働は社会人の敵だ。
(今日のご飯は……ええい面倒だ、コンビニ飯にしよう)
ビルを脱出して最寄りのコンビニへ向かい、迷いなくから揚げ弁当と炭酸飲料を手に取って会計、そのまま自宅に帰還する。
今回の所要時間は10分少々、コースレコードは9分なのでまずまずといったところか。
「ただいまー……誰もいないけど」
我が家はよくある6畳1Kの賃貸だ。
もう少し家賃を増やせば同じ距離で広い部屋を確保できたが、さすがに新卒社員が払うには厳しい家賃だったので現在の部屋に落ち着いた。
とはいえ、今のところ6畳1間でも特に支障なく暮らすことができている。
(荷物といっても生活必需品にPCやゲーム、それに本くらいだからなぁ)
PCの電源をつけながらぼんやりとそんなことを考える。
別にこれといった趣味があるわけでもないため、そこまでスペースを必要としないのだ。
「さて、面白そうな情報はっと」
自作したツールを起動させ、ソーシャルサービスでフォローしているユーザが今日発言したURL一覧を取得し目を通す。
こういった簡単なツールを自力で作れるようになったことに関してはプログラミングを学んで良かったなと思える点だ。
「たいした収穫はなし、と」
情報収集を終え、弁当を報張りながらこれから何に手を出すか考える。
数時間で切り上げられそうなものとしては仕事とは関係ない分野のプログラミングか、積まれた技術書や論文と格闘するか、あるいは漫画や小説だろうか。
ゲームに興じても良いのだが、私は一度ゲームを始めてしまうと夜通しプレーしてしまう質なので翌日の生活に影響してしまう恐れがある。
そのリスクを回避するために平日のゲームプレーを自粛しているのだ。
(鉈さんにこれ以上突っ込まれるのも良くないものな)
鉈さんがソーシャルサービスで良く書き込んでいる言葉は「寝ろ」「起きろ」「はたらけ」だ。
これらの言葉を投げかける相手は決まって生活破綻者一歩手前の面々なので、言われないように気を付ける必要がある。
なお「はたらけ」は職につけという話ではなく、就業者が遅刻しているパターンで用いるようにしている、と鉈さんは語っていた。
「書く気力があるわけでもなければ、娯楽に精を出す気分でもないよなぁ」
そこでふと、SNSの通知欄に自作BOTからメッセージが届いていることに気付いた。
どうやら、日々チェックしているとあるプロジェクトのソースコードに変更が入ったらしい。
プログラムを書きたいでもなければ遊びたいわけでもない今の心情には丁度良い題材なので、残りの時間はソースコードリーディングに費やすことを決める。
ソースコード管理用のツールを立ち上げて先ほど変更が通知されていたプロジェクトの変更履歴と差分を取得する。
現代はソースコードやその変更履歴を簡単に公開、共有する技術やサービスが普及しているのでそこそこ便利な時代だ。
自分が欲しいと思った機能はそれなりの確率で公開されているし、バグや不満点、要望があれば問い合わせられる。
自らコードを変更してパッチを送ることで貢献も可能だ。
何より、著名な人物が書いた質の良いコードを読んで勉強する機会が簡単に得られる。
とはいえ、気を付けるべき点がないわけではない。
公開の敷居が下がることは、秘匿すべき情報を間違って公開してしまうという可能性の増大を意味する。
気付かないうちに重要なファイルをアップロードしてしまい、他者にアカウントを乗っ取られる事案が何度も業界をにぎわせているのが良い証拠だ。
著作権──ライセンスの問題もある。
多くのプログラムでは、多くの人に使ってもらい貢献を容易にするために緩めのライセンスを適用している。
しかし物によっては、利用者は作ったプログラムを利用したプログラムと同じライセンスにしなければならない……などといったライセンスも世の中には存在するので利用には注意が必要だ。
しかもライセンスだけで両手で数えられる以上存在し、人によって解釈が変わりかねない条文になっているものあり、理解するのも一苦労することがある。
権利を侵害してしまい法廷論争にまで及ぶ……というところまで行きつくことは稀だが、ユーザや開発者間の関係が悪化してしまうことがあるため気を付けるべきだろう。
「さて変更範囲はっと……うへ、こんなに変更があるのか」
プログラムのバージョン変更方針は大雑把に言えば3種類に分類できる。
全バージョンから互換性を崩さずにバグ修正を行うバグフィックスリリース、互換性を崩さずに機能を追加するマイナーリリース、互換性のないメジャーリリースだ。
前者二つは基本的に利用側のプログラムに影響を与えないのに対し、メジャーリリースは利用者側のコードに影響を与えることが多い。
今見ているコードは、変更量や修正度合いを見るにメジャーバージョンを上げる方向性のようだ。
私もこのプログラムの利用者なので依存しているコードを修正する必要がある。
「さすがにこの分量だと読んだだけではわからない箇所もでてくる、か」
こういった場合は実際に自分で動かしてみるのが一番だ。
サンプルプログラムを動かしてみる方法も方針の一つだが、今回は変更範囲に絞って調査したいのでその部分だけを動かすためのテスト用コードを書くことに決める。
「ふんふんふふふーん……っと、typoがあるな」
単純ミスなのでその場でさっさと修正し、”Fix typo.”とコメントをつけてパッチを送る。
相手は英語圏の人なので会話に使用するのはもちろん英語だ。
とはいえ、このくらい簡単な英語であれば英語が大の苦手な私にもできるので問題ない。
難しい英語を必要とする場合はどうかだって?
数時間考えて文章を書き、英語が得意な知り合いにお願いしてレビューしてもらっている。
きちんと英語を習得すべきなのだろうが……これがまたなかなか難しい。
「よし、テストに戻ろう」
そこからはひたすら挙動確認用のテストコードを書く作業だ。
プログラムの動きと実際のコードを見比べ、わからなければ別のデータで再度挙動を追い、時には本体付属のサンプルコードやテストコードを読み込みながら理解を深めてゆく。
そうしてようやく7割ほどまで進んだとき、SNSツールの通知欄が点滅し始める。
誰からかメッセージが届いたようだ。
「これは鉈さんのスリーピングコール……もうそんな時間か!」
ディスプレイの片隅に『寝ろ』とだけ書かれたメッセージが表示される。
あまりに就寝時刻が遅い私を何とかしようと、鉈さんによって導入された儀式だ。
実際、このスリーピングコールが始まってからは激減しているので効果は絶大である。
「むむむ、中途半端だけど仕方ない」
最後まで作業してしまいたい衝動をぐっとこらえる。
明日は掃除当番なので遅刻するわけにはいかないのだ。
「寝るか」
作業中のコードを履歴に登録してからPCの電源を落とし、風呂に入ってから布団に潜り込む。
「明日は帰ったらアニメを見て……今日の続きを……」
布団の中で明日の予定を考えるうちにゆっくりと瞼が閉じていく。
こうして私はまた1日の終わりを迎えたのだった。
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