第25話 ~記憶物語~忌まわしき過去

 ドクター・Mは、富士山を望む別荘で、施術を控えた依頼者の相手をしていた。

 その応接スペースは、高級ホテルのロビー・フロアーのように広々としており、高い天井から床までの一面はガラスで覆っていて、水族館の大水槽を連想させる。

 敷き詰められた白い玉砂利の所々には芝が植えられ、奥の方は雑木林となった広大な庭が、ガラス窓の向こうに広がっている。錦鯉の泳ぐ庭には、庭石を積んだ頂上から人造の滝が注いでいた。その借景には富士山を見ることが出来た。

 施術前の短い雑談。依頼者は、「この素晴らしい景色の記憶も無くなってしまうんですね」と、窓の外の景色に愛想を言う。

 その時である。庭を見ていた依頼者が眉を顰めた。釣られて、ドクター・Mも庭の方を見る。

 ふらふらとして足取りの危うい女性が1人、雑木林から現れた。

 遠目に見ても、服は土で汚れ、生地の一部は破れて肌が露出している。髪も振り乱し、まるで遭難者のようであった。

 ドクター・Mは、依頼者を連れてきたブローカーに指示すると、その女性を助けさせた。正確には、捕えさせた、と言った方が相応しい。

「御心配なく。彼女の記憶から、あなたと私が会っている場面を消去しますから。 あなたの施術をした後で。

 それでは、あなたを施術室に御案内致しましょう」

 そう言って、革張りのソファーから立ち上がると、依頼者を促して施術室に誘導した。


 記憶の一部を消去された施術者。麻酔で眠った状態の施術者をブローカーが東京に連れ戻った後で、ドクター・Mは、ゲストルームの1室に監禁していた女性を訪れた。

 放心した状態でベッドに腰掛けていた女性は、ガチャリという解錠の音に振り向き、入室してきたドクター・Mを見遣った。

 向かいのツインベッドに腰掛けたドクター・Mが質問を始める。

「あんなところで、何をしていたんだ?」

「自殺しようと思って・・・・・・」

――樹海を彷徨っていたわけか。

――何日も飲まず食わずだったはずだが、死に切れなくて此処に辿り着いたわけか。

――面倒な事を背負いこんでしまった・・・・・・。

 ドクター・Mは、自分の運の悪さに、軽く舌打ちした。

「私は、医者のような仕事をしている。

 君を安楽死させてあげることは可能だが、生憎、自殺を幇助するつもりは無いんでね。

 ・・・・・・さて、どうしたものか」

 ドクター・Mは、そう呟くと、思案顔で彼女の様子を観察した。確かに、自殺しようとする人間の雰囲気だ。

「此処から君を解放するには、1つ・・・・・・条件がある。

 此処に迷い込んだ記憶を、君の頭から消去することだ。これは・・・・・・絶対に譲れない。

 そこで提案なんだが、どうせ君の頭を弄るんだ。

 いっその事、自殺を決心した出来事もツイデに、君の記憶から消去してあげる事は造作も無いのだが・・・・・・、どうするね?」

 彼女はドクター・Mの提案が理解できないようだったが、先程よりも目の焦点は定まってきた感じだった。

「何故、君は自殺を決心したんだね? その理由を私に話してもらえれば、その記憶を消してやると言っているんだ。

 ・・・・・・どうするね?」

 ドクター・Mの提案に乗るというよりは、死ぬ前に自分の心情を吐露しておきたいと考えた風だった。兎に角、彼女は、ぽつり、ぽつりと話し始めた。

 その彼女の語ったところでは、結婚を約束した彼氏と2人で深夜にデートしている際、複数の暴漢に襲われ、彼氏の目の前で彼女は強姦されてしまった。その後、彼氏は、彼女と距離を置くようになり、ついに「結婚の話は無かったことにしてくれ」と言い出したそうだ。

 語っている間に冷静な判断力が少しは戻ってきたのか、

「だから、私の記憶を無いことにしたって・・・・・・状況は何も変わらないんです」

 と最後に言った。そして、窓の外の富士山を見遣った。

「君は・・・・・・暴漢の顔を見たのかね?」

 彼女は「そんな余裕は有りませんでした」と首を振った。そして、「でも、彼は見ていたのでしょう」と付け加えた。

 ドクター・Mとしては、迷い込んだ記憶だけを消去して、樹海に彼女を置き去りにすれば済む話なのだが、それは一種の殺人であり、彼の哲学に合わなかった。

 それに、遭難者が迷い込んでくることを想定せずに、広大な庭に堅牢な囲いを設置していなかったという負い目もあった。

 ドクター・Mは、手間が掛かりそうだ、とウンザリしたが、

「その彼の頭からも事件の記憶を消去しよう。

 彼の頭を覗いた時に暴漢の顔も判明するならば、その暴漢も捕え、同じく記憶を消去しよう。

 そうすれば、事件は無かったことになる。

 ・・・・・・どうするね?」

 と提案した。

 焦点の合わなかった彼女の瞳の奥に、小さな希望の火が灯った。

「ただ、君の頭からも事件の記憶を消去すれば、君は、その薄情な男と予定通りに結婚するだろう。

 君にとってそれが幸せな事なのかは疑問だが、君も記憶を消去するかね? 

 ・・・・・・どうするね?」

 と畳み掛けた。

 彼女の返事は「まずは、彼と暴漢の記憶を消去してください」ということだった。

 予定外の手痛い出費だったが、仕方がない。

 ドクター・Mは、闇社会に依頼し、彼女の婚約者だった男を拉致させた。帰宅途中の彼氏を背後から襲い、麻酔薬を含んだ布で鼻と口を覆って気を失わせると、バンタイプの車に引き摺りこんだ。そして、ドクター・Mの別荘まで移送する。

 彼氏は、事件の記憶と彼女に婚約破棄を通告した記憶を消去され、翌朝、麻酔の掛かった状態で自宅近くの路上に放置された。ドクター・Mは前夜に梯子酒した疑似記憶を植え付けておいたので、本人は目を覚ました時に自分が泥酔して路上で眠りこんだと勘違いすることだろう。

 ちなみに、ドクター・Mが卓越しているのは、疑似記憶の植え込み施術において、である。

 続いて、彼氏の記憶から暴漢の顔の映像を取り出していたドクター・Mは、またもや闇社会に依頼し、暴漢を拉致させた。暴漢は総勢で5人だったが、早くに拉致できた2人を対象とした。

 そして、彼らの記憶を弄った。

 最後に彼女である。

「どうするね? 強姦された記憶を消して彼と縁りを戻すか、そのままにしておくか?」

「そのままにしておきたいと思います。彼と縁りを戻すつもりは有りません。

 ですが、1つだけ教えてください。私は、あなたに会った記憶を消されるのでしょう?

 男達の記憶が消えたことを、どうやって私は憶えていけるのでしょうか?」

「私が消去したい記憶は、依頼者と会っている私を目撃した記憶と、この場所が特定されるための情報となる記憶だ。

 だから、君は樹海で死に切れずに自宅に戻ったし、その後に、男達の記憶を消去する施術を私に依頼したという、別の記憶を私は植え付ける。君の心配には及ばない。

 ・・・・・・どうするね?」

「あなたの言った通りにしてください。宜しくお願いします」

 彼女は、監禁され続けたゲストルームのベッドの上で、ドクター・Mに回答した。


 施術後、彼女は独り暮らしをしていた自宅アパートの畳の上で、麻酔から醒めた。

 ドクター・Mの別荘に監禁されていた間に、擦傷は癒え、三度の食事も摂っていたので健康体そのものである。服装も、監禁中に手渡された新しいものに着替えていた。彼女の記憶では、その服装で施術を受けたことになっている。

 麻酔を嗅がされて移送されたので、施術者も施術場所も全く分からない。記憶しているのは、この部屋を訪れた、サングラスを掛けて黒ずくめの格好をしたブローカーの姿のみである。

 彼女は自分の事を運が良かったと思った。暴漢に襲われたことは忌まわしき過去だったが、その直後に何故か宝くじを買い、それが当ったので、施術料の3千万円を準備できたのだ。しかも、その夜に突然ブローカーが訪ねてきて、今回の提案を口にしたのだ。まるで彼女の運命を知っていたかのように。

 不思議な話だった。


 男達の方はと言えば、婚約者の男は、突然、彼女から婚約破棄を通告された。面食らって「何故?」と聞いても、彼女は答えない。「あなたを信じられなくなった」の1点ばりだった。

 暴漢の方は、5人中2人だけが記憶を弄られている。その2人は、暴行した記憶を消されていなかった。消去ではなく、修正を施されたのだった。

 抵抗する彼女に手を焼いた彼らは激高し、彼女に殴る蹴るの暴行を加えた挙句に、彼女を死なせてしまった。それを目撃していた彼氏も口封じのために絞殺した。死体は富士山中に埋めた。

 そういう記憶に改竄されていた。

 酔った勢いで得意げに暴行の話をする残る3人を見る度に、施術された2人は「殺人がバレないように口を噤んでいる約束だろ!」と内心で毒づいた。

 そして、自衛のためだと信じ込んで、残る3人を次々と殺害したのだ。2人の記憶では、自分達が都合5人を殺した重罪人であった。

 彼らには警察の陰に怯えて暮らす人生が残ったのだ。

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