第22話 メーデー
あと30分で羽田空港に到着するというところで、JAT927便は飛行高度を落とし始めた。機内に、シートベルト着用を促すアナウンスが流れる。キャビン・アテンダントも各自の席に着座した。
JAT927便は、日本空路交通社(JAPAN AIR TRAFIC)が、古い機体をベースに最新鋭の装備にチューンアップした機体だった。
だが、降下を始めて間も無く、コクピット内には「第1エンジンに異常発生」という女性の機械音が流れ、幾つかのアラームが点滅し始めた。
「副操縦士。状況を確認したまえ」
機長の指示で副操縦士が計器を点検する。
機体の要所要所の温度を示す計器の1つが異常な高温を知らせていた。船外カメラで該当箇所の映像を確かめると、確かに第1エンジンから炎が上がり、黒煙が後方に押し流されていた。
副操縦士の報告を受けた機長は、羽田空港の管制塔との通信を始めた。
「メーデー、メーデー。こちらJAT927便。
第1エンジンが被災。まだ航行に支障ありませんが、最優先で滑走路に着陸できるように手配してください」
「こちら管制塔。分かりました。状況を逐一報告してください」
管制官の冷静な受け答えとは違い、管制塔内は蜂の巣を突いたような騒ぎになる。
降下体制に入った他の機体は全て、上空での待機を命じられた。滑走路上の機体は、即座に牽引車に曳かれ、避難していった。緊急車両が、最悪の場合に備え、空けられた滑走路の近くで待機する。
そうしている間に、火災を起こした第1エンジンが破裂し、その破片の幾つかが尾翼にぶつかり、そして、尾翼の一部を吹き飛ばした。衝撃に機体が揺れる。
JAT927便はバランスを崩し、機体制御が益々難しくなった。
「メーデー、メーデー。こちらJAT927便。
尾翼の一部が損傷した模様。機体を制御できません」
「羽田空港までは到達できますか?」
副操縦士が計器を確認していく。
「機長! 燃料が急速に減っていきます。
先ほどの爆発で左翼の燃料タンクに穴が開いたものと思われます」
「管制塔。お聞きの通りです。燃料タンクの穴の大きさ次第では、羽田空港まで辿り着けません」
「こちら管制塔。分かりました。状況を逐一報告してください」
だが、燃料タンクの穴は大きかったようだ。このままでは東京湾に落下しそうである。
しかも、羽田空港の滑走路正面に上手く回りこめるか否か、心元無かった。
機長は決断した。
「キャビン・アテンダント。コード・レッドを宣言する。
直ちに搭乗客の脱出の準備に入ってください。3分後に機内アナウンスを始めます」
既にキャビン・アテンダントは、機体が激しく揺れる状態にも関らず自分の席を離れ、恐怖に悲鳴を上げる搭乗客達を落ち着かせようと懸命な努力をしていた。
何人かのキャビン・アテンダントが、貨物室に繋がる後方の床下連絡通路を開けた。
残りのキャビン・アテンダントは、両肩から腰に伸びる2本のシートベルトと、腰回りを左右から締める1本のシートベルトを、搭乗客がマニュアル通りに装着しているかを確認し始めた。
約束の3分が過ぎた。機長が機内アナウンスを始める。
「機長の藤井です。ご搭乗の皆様には、残念な事をお知らせしなければなりません。
当機JAT927便は飛行不能な状況に陥りつつあります」
客席のあちらこちらから相次いで悲鳴が飛ぶ。或る者は遺書を書き始めた。
「よって、ご搭乗の皆様には、機体から脱出して頂きます。
搭乗時に流した案内ビデオの通りにやって頂ければ、何の心配もありません。
具体的には、キャビン・アテンダントの指示に従ってください。
また、小さなお子様をお連れの御客様は、キャビン・アテンダントの誘導に従い、ビジネスクラスまで移動してください」
機長の機内アナウンスが終了すると、キャビン・アテンダントは「シートベルトをしたまま、立ち上がってください」と大声で、搭乗客に呼び掛けた。
搭乗客が相次いで立ち上がる。すると、座席の背凭れがリュックサックのように搭乗客の背中に貼り付いた。
そうだ。最新装備では、座席の背凭れが、GPS付きの緊急避難用パラシュートとなっているのだ。
キャビン・アテンダントの誘導に従って機体後方まで歩き、床下連絡通路のハシゴを伝って、機体下部に移動する。
ビジネスクラスでは、シートの周辺部分が下から伸びてきて、蚕の繭のような形状になった。
首より上の部分には、先に配布されたヘルメットを被っている。キャビン・アテンダントは、繭の上端円周部とヘルメットの下部が強化ファスナーで繋がっていることを、1人ひとり確認していく。
最後に、キャビン・アテンダント自身がパラシュートを身に着け、機体下部に移動する。コクピットでも、機長と副操縦士が同じことをした。
準備が整ったとの報告を受けて、機長は機体高度を更に下げた。搭乗客を安全に脱出させるためである。
そして、指定高度まで機体が下がると、脱出ボタンを押した。
機体の天井部分と荷物カーゴの区画を除いた機体底部の隔壁が、バッバッバと音を立てると、機体の外側に吹き跳んだ。
全てのビジネスクラスの卵型脱出カプセルと、座席の背凭れを背負ったエコノミークラスの搭乗客は、外の気流に吸い出されていった。
中途半端に穴の開いた機体は忽ちのうちに航行不能になるが、JAT927便は、全ての身を毟られて骨だけになった魚のような状態になっている。
だから、気流の乱れも最小限で済んだし、機長の力量次第ではあるが、飛行の続行が可能であった。
藤井機長は、二次被害の及ばない、漁船の疎らな海域に機体を墜落させるべく、ギリギリまで努力した。
さて、搭乗客やキャビン・アテンダントの方であるが、これまた設定高度まで落下すると、自動でパラシュートの傘が開いた。
卵型脱出カプセルの方も、側面4箇所から小さ目のパラシュートの傘が開いた。
そして、何処からともなく近寄ってきたドローン達に拾われ、安全な場所まで運ばれて行った。死傷者数はゼロであった。
この機体落下事故のニュースは、全世界を駆け巡った。墜落の事実も然ることながら、その脱出の事実の方が脚光を浴びた。
スカイ・アライアンス加盟各社とワン・グローブ加盟各社は、この安全設備を、LCC、つまり、ロー・コスト・キャリアの価格破壊に対抗するための有力な武器として考えていた。
座席の背凭れを兼ねたパラシュートと卵型脱出カプセルは、工業デザインから何まで航空機メーカーとの共同特許で抑えていた。
だから、航空機メーカーは同じ装備をLCC各社に提供することはできるが、巨額の特許使用料を2つの団体に支払う必要があった。それは、航空料金を加盟各社並みの水準にまで値上げしないと捻出できないくらいに、巨額であった。
また、2つの団体はドローンについても策を巡らせていた。いつ発生するか分からない墜落事故のためだけに、世界中にドローンを配備するのは、経済的にペイしない。
だから、2つの団体は世界各国の空港に荷役用としてリースしたのだ。そうすれば、事故の無い時でもドローンを遊ばせることが無い。
2つの団体としても、毎月、一定のリース料が転がり込んでくる。このリース料がドローンを配備する巨額の初期投資の見返りであった。
通常ならば、こういうビジネスは商社やリース会社が展開するのだが、2つの団体は自ら展開した。LCC各社に対抗するためである。
LCCは各空港でLCC専用のターミナルを使うことが多い。そのターミナルでドローンが稼働することは無かったが、それに関しては痛くも痒くも無い。問題は、LCCの機体が事故を起こした時の対応だった。
そのLCCの機体が脱出装置を装備していれば・・・・・・という前提付きだが、ドローン達は人道的観点から必ず救援に向かう。だが、事故の片が付いたら、2つの団体は法外なドローン使用料をLCCに請求する。そうしないとLCCの価格破壊が収まらないからだ。
こうして、JAT927便の事故を契機として、利用者は、高い料金だけれどもイザとなった場合に安心な加盟会社を選ぶか、安い料金だけれども事故が起きたら諦めざるをえないLCCを選ぶか、選択を迫られるようになった。
勿論、飛行機事故の発生する確率は著しく低い。でも、雪崩を打ったようにLCCへシフトしていた利用客の増加は頭打ちとなった。経済的に余裕が有るならば、好き好んで自分の生命を危険に晒す者などいないのだ。
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