06-06 朝靄      

 朝靄けぶる京口けいこうの川港に、いく人かを載せた小舟が浮かぶ。川べりにゃ、寄奴きど穆之ぼくし何無忌かむき王謐おういつのオッサン。船に乗るんなァ劉毅りゅうき司馬休之しばきゅうしどの、それと司馬休之どののご子息、司馬楚之しばそし

 穆之が一歩、進み出る。

「司馬休之様、広陵こうりょうでは孟昶もうちょう殿に連絡をつけてあります。また寿春じゅしゅんでは魏詠之ぎえいし殿も力になってくれるでしょう。どうか道中、お健やかに」

 ゆっくりと頷かれる、司馬休之どの。貴公子たる威厳ァ以前にも増してお付きになられたが、にしたって目の下のくまがやべェ。

 それもそうだ、建康けんこう孫恩そんおんら撃退のための指揮を取られたと思や、そのまま桓玄かんげんの侵攻にぶち当たっちまった。気の休まる暇なんざ、まるっきりなかったんだろう。

「世話を掛けたな、劉穆之どの。なに、外地に出れば、少しは休めようとも」

 たァ言え、そのお言葉ァしっかりとしていらっしゃる。改めてこの方が、人の上に立つべくお育ちになってこられたんだ、ってのを感じる。

「口惜しいな」

 寄奴ァ司馬休之どのに向けて、言う。

「司馬休之様の武勇伝、たっぷり聞かせてもらうつもりだったんだが」

「なに、時間はあろうさ。この国より奸臣の排除されたる暁にはな」

「楽しみにしてますわ」

 それから、劉毅のほうを向く。

「のんびり回ってこいよ、その間にお前の子飼いどもも取り込んどいてやるからよ」

「それは困ったな。毛徳祖もうとくそ趙蔡ちょうさいには重々注意してもらわねば」

 まるで困ってるふうでもなく、劉毅ァしれっと返してきた。

 まァ、要は何だかんだで合ってたんだよな。あいつらの馬ってやつがよ。

 しばし見合うと、互いににやりと笑う。

 ここで、ようやくオッサンが口を開いた。

「劉裕殿、何無忌殿の力をお借りし、北府はなんとしてでも守り抜きます。司馬休之様は、今やこのしん国の柱石。時が至りますまで、どうかご辛抱くださいますよう」

 オッサンァ思いつめた顔になってた。

 そりゃそうだ、このころ王珣おうしゅんァ病に倒れ、間もなく死ぬか死なねェか、ってところ。息子の王弘おうこうがあとを継ぐことにゃなるが、にしたってようやっと二十歳になったとこだ。琅邪ろうや王氏っつう大名籍を背負うにゃ、王弘じゃまだまだ貫目が軽すぎる。

 だから、その代わりにオッサンが琅邪王氏を代表して宮中に出仕することになった。

 ちなみに桓玄からァ、チクと刺されたっていう。「司馬休之殿にもよろしくお伝えいただきたい」ってな。

 オッサンのふるまい一つで、下手すりゃ芋づる式にありとあらゆる反桓玄の芽が釣り出されることだってありうるわけだ。その面が強張っちまうのも、無理のねェこった。

 だからだろう。

 司馬休之どのァオッサンに、穏やかに笑い掛ける。

「仰々しいな、王謐。ここから最も苦難の道を歩むのは卿であろう。卿こそ、息災でおれよ」

 オッサンァぐっと言葉をつまらせると、深々と拱手した。

 あんまり、長々と別れを惜しんでもいられねェ。小舟ン中の最年少、司馬楚之が船頭に指示を飛ばす。ぎい、と岸辺を離れる船ァ、すぐに朝もやン中に溶けていく。

「うまく、逃れられると良いのだが」

 ぽつりと、何無忌が漏らした。

「なあに、ついてんのが劉毅だ。それに、聞きゃ楚之のやつもそれなりって言うじゃねえか。どうにかなんだろ、なぁ、オッサ……んっ!?」

 振り向きゃ、オッサンァ涙、どこじゃねェ。よだれも、鼻水も垂れ流しになっちまってた。

「おいおい、あんたんちのガキ、きゅうが見たらどう思うよ」

「う、っうるさい! 士大夫たるもの、別れの悲しみは大いに示すべきなのだ!」

「そういう事にしといてやるよ。なぁに、ちゃんと慰めてやっからよ、そんかし酒代はオッサン持ちな?」

「……そなた、ただ飲みたいだけであろう」

「ご名答」

 にやりとする寄奴、呆れ返るオッサン。

 何無忌ァ苦笑し、穆之ァため息。

 四人が港をあとにする頃にゃ、朝もやァすっかり晴れ上がってた。


 大将軍桓玄サマがじきじきに京口に足をお運びになるってことで、北府ァバタバタになってた。

「大将軍は活気を好まれるお方! 粗相は許されぬが、動きは鋭く、閧の声は最大で、を心がけよ! 西府に負けぬだけの武が、この北府にあることを示すのだ!」

 高台で号令を掛けるんなァ、桓脩かんしゅう。桓玄の大将軍就任に伴い、西府の奴らのうち、桓謙かんけんが西府の、桓脩が北府の長になった。

 なにぶん、元々の頭が刈り取られたあとの就任だ。北府兵が桓脩に向ける目ァ、当然剣呑なもんだった。

 それが、どうだ。

 桓脩の号令に、北府兵どもァ見事に従ってる。

「劉裕よ、感謝するぞ。そなたの尽力なくば、こうまで彼らが応じてはくれなんだであろう」

「従うって決めたんなぁ、あいつらですよ」

 高揚した桓脩に対して、寄奴ァややそっけねェ。

 二人が立ってるんなァ、数万からの北府兵がうごめくさまを見渡せる、高台の上。諸葛長民しょかつちょうみんが、檀道済だんどうさいが。王元徳おうげんとく仲徳ちゅうとくが。響き渡るドラの音と共に、全部でひとつの生き物みてェな動きをしてみせる。

 寄奴の一歩後ろにゃ、虞丘進ぐきゅうしん蒯恩かいおんがいる。何通かの知らせが虞丘進のとこに届くと、二、三の指示を虞丘進がとばす。

 ややあって、ゆるみのあった箇所の動きが引き締められる。

「それもこれも、そなたゆえであろう。私では、このますらお達を御し切れぬ。そなたが旧怨きゅうおんを噛み潰し、社禝しゃしょくの安寧を至上と見出してくれたからこそ、京口府の精鋭は、今なおもってその牙を砥いでおれるのだ」

 ムツカシイ言葉遣いにさぶいぼ立たしそうにゃなるが、言われたことそのものにゃ、悪い気ァしねェ。少なくとも桓脩の言葉にゃ北府軍と、寄奴を軽く見る気ゃねェ。

 桓脩と寄奴、二人の前に、ずらっと北府兵が居並ぶ。

 隊列の先頭にゃ、何無忌のツラもある。表向きにゃ、劉牢之りゅうろうし将軍の甥っ子ってことになってる何無忌だ。いちどァ連座で殺されかけもしたらしい。そいつァなんとか免れたが、降格までァ逃れきれなかった。

 少々何無忌を見た後、顎をしゃくる。

「劉毅の野郎をアゴで使えねえんな、ちっと癪ですが」

 寄奴がそう漏らすと、桓脩ァ大笑いした。

「やつも、機を見るに敏のようだな。下手に留まりおれば、死が待つだけであったろう。もっとも、逃れたところで何ができることやら」

「どうなんでしょうね」

 きっと爪牙を研いでると思いますぜ、あんたらの喉笛を、きっちり食い敗れるように。

 内心で、寄奴ァ呟いた。


 建武けんぶ将軍。

 そいつが寄奴に与えられた、新たな肩書きだ。ついでに言や、寄奴を引き立てて下すった孫無終そんぶしゅう将軍が劉牢之将軍とともに殺されて、空いた席でもある。

 大勢の兵らを前に、だが、寄奴の心ァ重く沈む。

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