第10話 たのしいひととき

 日が沈む丁度その頃、佳菜子と別れたゆりこは軽い夕食をスーパーで買い、アパートに着いた。すぐに洗濯物を取り込み、もう出かける用はないので洗面所で化粧を落とし、夕食の準備を始める。買ったのはサラダと惣菜、焼き魚。テレビはあまり見ないが、休みの日は夕食を摂りながらニュースとドラマを見るのが習慣になっている。だが、今日もケンジがやって来る前にお風呂に入っておきたいので、さっさと準備して食べ始めた。ご飯を半分ほど食べかけたところで、リモコンでテレビの電源を入れ、ニュースにチャンネルを替える。そこには、内戦が続く国で幼い子供や女性が難民となって隣国に逃れている事が報道されていた。

「ひどいなぁ…」

 多くの人がそうであるように、ゆりこもテレビや新聞で紛争のニュースを目にする度、ちょっとした憤りと共にどうにかならないのか、そう考えたりした。そして次のニュースは政治。増えていく医療費にどう対処するのか、もうずっと前からから同じことを堂々巡り議論している。

「ごちそうさまでした」

 夕食を食べ終えると食器を洗い始める。ケンジのことが浮かんだりした。ゆりこにとって、彼氏と言える相手はこれで二人目。ケンジが実在すれば、ではあるが。最初の彼とは大学時代から社会人になった最初の頃まで、2年ほど付き合った。彼は就職した会社からの派遣で遠く離れてしまい、まさか疎遠になって結局別れた。クリスマスを前にした冬の頃、そんなこともふと思い出しながら洗い物を終えた。

「よし、と」

 バスタオルを持って風呂場に。

「何だか忙しいぞー」

「夜って、何時に来るのぉー?」

 独り言を残響させながら、いつものようにお風呂に入り、頭と身体にバスタオルを巻いて風呂場を出た。パジャマはさっき取り込んだのがお気に入りなので、まだ畳んでないものをパンパンはたき、そのまま着る。

「ふうっ」

 ここでビールを一杯。

「くうっ。最高です」

 あとは彼を待つだけだ。キッチンのテーブルに腰をおろし、ビールを口にしながらしばらく時計のハトを見つめていた。

「他のでも出来るのかな?」

 できればこの間のように、ベッドに寝転がって接続したほうが楽チンだ。ゆりこはビールをもうひと口飲み、試してみることにした。

 ベッドに転がってみる。目の前には天井の板目の模様、それしかない。

「何でも同じかな?」

 では、それでやってみる。板目の一点を見つめ、獲物を捕えるかのような集中!。するとすぐに辺りが霞み、ハトと同じような状態が作り出せた。

「いいのかな? もしかして、何でもイケるかも」

 と、今度は部屋の隅。床にペタンと座って壁に持たれる、ここはテレビを見るのにお気に入りの場所。窓のカーテンを見つめて同じように集中。イケる。ここならクッションを抱えて楽な姿勢で接続できる。

「うん、いいぞー。さあ、いつでも来なさい」

 ゆりこはキッチンに戻ってケンジを待つ。と、早速。

「サユリ」

「えへへ。来た来た」

 ゆりこはビールをくいっと飲むと小走りでテレビの壁に座り、カーテンを見つめて応答した。

「ケンジ」

 会った途端、ケンジはまっしぐらにゆりこの唇を目指し、口づけた。本当は見えてるのかな? そう思えるほど、ゆりこの身体を的確に探り当てるケンジ。

「応答が早いね。待ってたの?」

「そう。今度はね、ハトじゃなくてカーテンでやってみたのよ。うまくいっちゃった」

「はは。それじゃあだいぶ上達したんだね。すごいよ。君は天才かも」

「おだてたって何も出ないからね」

「本当さあ。すぐに身につくものじゃあないんだから」

「へへっ? 以外と簡単でした」

 この世界では、どうやら匂いがない。不思議と相手が出す吐息は感じるが、それは息を吐いたことが相手に伝わるからだろうか。彼に会う前、ゆりこが平気でビールを飲めたのは、匂いがないのに気付いていたからだ。

「サユリ」

「ん?」

 ケンジが再びくちづける。彼は濃厚なキスを好まないのか、ゆりこの唇を自らのそれで愛撫し、指でなぞり、目蓋にキスした。

「わたしの身体は今、床に座っているのよ」

「この間はキッチンだった。いつでも料理ができるように」

「もう!。違うわ」

 ふふっと笑って今度はゆりこから彼の唇にキスした。もっとゆっくり彼を感じていたい。

「ねえ、二人で座るって、出来るのかしら?」

 この時点で二人は抱き合っていたが、それ以上の感覚はない。"二人で抱き合いながら座る"、というのをゆりこは提案したことになる。

「どうだろう? やってみようか」

 いちにのさんっで、合わせて腰を下ろしてみた。ゆりこの背中は記憶にある壁を感じ、それをケンジも同じように受け取った。

「うん、いいぞ。いててっ!、君はいつもここに座ってるの?」

「そう。あれ?、ごめんなさい。そんなに居心地悪いかしら?」

「いや、背中に何か当たってるみたいだ」

 そう、ケンジの座ったあたりには、確か電気コンセントがあった。自分のアパートなので、隅々まで知っているゆりこから彼に伝わったようだ。

「ごめんね!。もうちょっとこっちに寄ってみて」

「ああ、うん、ははは。ここに何かあるんだね」

 壁に寄りかかって抱き合う二人は、笑いながら何度もキスを交わし、飽きる事なく指を絡め合い、時が止まるように思えた。


 次の日、ゆりこは作業の合間を見つけ、清水に電話を掛けた。清水は相変わらずにこやかに応対し、次の面談を了承した。

「その後、気分はどうですか? 声が聞こえて悩んだりしていませんか?」

「声はその後も聞こえていますが、その…悩んではいません」

「え? そうですか…気分が優れないということも…」

「はい、大丈夫です」

 清水は、あまりにゆりこがサッパリしたように会話することが返って不思議に思えているようだ。

「分かりました。では、早めにお話ししましょう。私も平日の昼間は難しいので夜でも構いません。いつがよろしいですか?」

「ええっと…佳菜子もご一緒したいと…」

「勿論、いいですよ。その方がゆりこさんも心強いでしょう」

「ありがとございます。佳菜子と相談したいのですが?」

「はい。では…お昼でも構いませんので、もう一度お電話を頂けますか?」

「はい、分かりました」

「では、よろしくお願いします」

 エレベータ室で電話の後、すぐに自席に戻り仕事の続きを終わらせると、あっという間にお昼になった。今日は朝から小雨模様。こんな日は社員食堂の隅で弁当を食べるのが通例になっている。

「先生に電話したんだけど」

「お、そうなの」

 社食の窓際に座り、二人で弁当を広げながら、ゆりこは早々と電話のことを告げる。お昼の間に清水が返事を待っている。

「それでね、早めに会いましょうって言われたんだけど、あんたと相談してもう一度電話することになったの。平日は夜のほうがいいんだって」

「それじゃあ、水曜日は? 強制ノー残業デーになったし」

「うん、あたしもそう思って」

「あたしもいいよ。そうしようか」

「ありがと。あんたにも世話になっちゃって」

「なにを言いますか。お互い様よ」

 すぐに清水に電話を掛け、佳菜子と相談した内容を告げた。そこでも彼が店を予約してくれるというので、ゆりこはそれに甘えることにした。

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