第37話 今日も 3
いつでもどうぞ、というようにナムルを摘むタイちゃんの前に私も腰を降ろし、缶ビールに一度口をつけてから話を始めた。
「篠田先輩なんだけどね」
「ああ、会社で人気のある、壁バンの人だっけ?」
「そうそう。けど、それ橋本さんね」
壁バンの持つイメージの強さを改めて感じながら、つい先日エレベーターに乗り込んで行った二人の様子をタイちゃんに話した。
「それ、壁バンされてんじゃなくて。普通に仲良く腕組んでただけじゃないの?」
「やっぱり、そうかな」
「そうかなって、気づいてんじゃん」
タイちゃんがクツクツと笑う。
「うん。なんて言うか。そうだろうな、とは思ったんだけど。万が一ってこともある気がしてね。だって、橋本さんてば、私のときメッチャ恐かったから」
あの瞬間を思い出せば、血の気が引いていく。
「その二人。付き合ってるんじゃないの?」
タイちゃんがそういうと、やっぱりそうなんだと思ってしまう。けれど、社内で二人のそういう話は聞いたことがない。それに、気になることがあるんだ。
「うーん。そう言われると、そんな気もする。ただ、瀬戸君がね。篠田先輩には、女関係であまりよくない噂があるから、気をつけろって言うのよ。だったら、橋本さんは大丈夫かな、と思ったりもして」
半分ほど残った缶ビールを持ち上げ、中を覗きこむように片方の目を閉じる。缶の中にゆらゆら見える金色の波は、暗闇の中で揺れながら時々部屋の明かりが反射して存在感を示しているみたいだった。
「恋敵の心配してるんだ」
言ってタイちゃんが肩を少しだけ揺らして笑う。
「だって。いくら恐い橋本さんだからって、傷つくようなことにでもなったらかわいそうじゃない」
恋に傷つくって、いくら橋本さんが強い女の人だからといっても、やっぱりショックでしょ。
「葵さんらしいね」
タイちゃんが穏やかに微笑んだ。その優しい笑みに、どういうわけか私は安心感を覚える。タイちゃんのくせに、タイちゃんらしからぬ、なんていうか、見守るような優しさが不思議とみえてくるんだ。
もし橋本さんが傷ついたとしたら、是非この笑みを橋本さんにも届けてあげたいって思うくらいの優しい笑みだ。
「それにね。瀬戸君てば、篠田先輩の事は、やめておけ。なんて言うんだよ。よくない噂があるし、私には手に負えないんだって。そんな風に言うって、先輩ってばどんだけ酷い男なのっ? て話じゃない」
「よくない噂ねぇ」
「大体、そんなこと言うために、わざわざ会議室にまで引っ張り込んでくれちゃってさ。心配してくれるのはありがたいけど、篠田先輩に限って、そんなはずないと思うんだよね」
「え……。会議室って、……二人だけってこと?」
「そうそう。人の腕掴んで。そんなことなくても、逃げ出さないのに」
不満を顔に出して頬を膨らませていると、どうしてだか目の前のタイちゃんの顔が複雑に歪んでいた。
「タイちゃん?」
声をかけると、ハッとしたように再び缶ビールに口をつけグビグビ。
「まー、あの瀬戸君の言うことだから、何処まで信じるかって話なんだけど」
「なんで?」
口元を僅かに拭ったタイちゃんが問い返す。
「だって。瀬戸君だよっ。私のこと虐めるのを生きがいにしているような瀬戸君が、わざわざ親切心でそんな話をしてくると思う?」
勢い込んで前のめりになり、向かい側のタイちゃんへとグッと近づいた。
タイちゃんは、勢いのまま近づいてきた私から逃げるでもなく目を見て苦笑いしているから、ちょっと冷静さを取り戻してもう一度ちゃんと椅子に座りなおす。
「で、思ったの。きっと、私が篠田先輩に可愛がられているのが気に入らなくて、根も葉もない噂話を吹き込んできたんじゃないかって」
人差し指をピンと立ててタイちゃんへと訴えかければ、うーん。なんて唸る始末。そうしてひと言。
「根も葉もないか」
タイちゃんは含んだような物言いをする。なんだか、納得していないような感じだ。
あ、そろそろ肉じゃががいいころあいかも。
立ち上がり、火にかけていた鍋を覗き込む。本当は火を止めて少し置きたいところだけれど、今日は勘弁してあげよう。
「食べる?」
オタマ片手に訊ねると、「食う食うっ」なんてタイちゃんが張り切って箸を持つ。食の前では、なんと素直なのか。
「はい。どうぞ」
テーブルに置かれた肉じゃがに、タイちゃんの目がキラキラと輝く。
タイちゃんは、食べ物を目の前にした時が一番いい顔してるよね。
嬉しそうな顔を見ていたら、思わず笑みが漏れた。
「何笑ってんの?」
「んー。美味しそうに食べるなぁって思って」
「葵さんの肉じゃが、うまいよ」
「それは、よかった」
篠田先輩の黒い噂話など、肉じゃがを前にしてしまえばどうでもいいらしく。タイちゃんは、あちっ。なんて言いながらはふはふして頬張っている。
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