第30話 知らなかった 3

 ショートケーキを食べていた手を止めたお母さんは、気持ちを落ち着けるみたいに一度紅茶を口にし、ふうっと小さく息を漏らしたのを機に話を進める。

「タイちゃん、お祖母ちゃんと二人きりなのよ。お父さんとお母さんは、小学生の時に事故で他界しちゃってね。タイちゃん、その時の保険金でお祖母ちゃんとずっと二人で暮らしていたんだけれど、そのお祖母ちゃんもぼけちゃってね。それで、高校生のタイちゃんが面倒をみられるわけもなくて、介護施設に入ってもらったの。だから、タイちゃんはいつもおうちで一人きりだったのよ。時々、親戚の方が様子を見に来てはいたみたいなんだけれど。それだって、いつもそばにいられるわけじゃないしね」

 お母さんは、その頃のことを思い出しているのか、なんとも複雑な表情を浮かべている。

 私は初めて聞かされた話に、一瞬誰のことを言っているんだろうと、心が拒絶するみたいにそんなことを思った。

 タイちゃんのお家のことなんて、考えてみれば今までこれっぽっちも考えたことなどなかった。自分の家のことを上げてしまえば、両親がいて弟がいて、それが当たり前で。だからタイちゃんに兄弟がいないのは知っていたけれど、両親はいるものだとばかり思って疑いもしなかった。

 なのに、タイちゃんには両親がいなくて、お祖母ちゃんとずっと二人暮らしで、そのお祖母ちゃんだって介護施設に入ってしまってずっと一人だったなんて、そんなことこれっぽっちも知らなくて、私は今聞かされた事に驚くばかりだった。

 いつも明るくて、ふざけたことしか言わなくて、勝手にうちの実家に上がりこんでくる図太い神経をしているタイちゃんのお家が、まさかそんなことになっているなんて思いもしなかったんだ。

「ずっと一人で家にいるのは寂しいだろうし。それに高校生の男の子よ。そりゃあ、うちに来なさいって、思うわよ」

 そうか。だから、タイちゃんはいつもうちに居たんだね。昔、お母さんがうちに住んじゃえばいいなんて、本気で言ってたのはそういうことだったんだ。それを私ってば、断固反対なんていって……。

 今までしてきた発言が、タイちゃんをずっと傷つけてきたんじゃないかと考えれば、心がズキズキとしだす。けれど、自分の胸が痛むのは違うって。痛いのはタイちゃんの方なんだからって、私はそのズキズキを抑え込んだ。

「その親戚のところへは、行かなかったの?」

「一緒に、とは言われていたみたいなんだけれど。そこのおうち、小さい子もいて大変だから迷惑になりたくないって」

「タイちゃんが?」

 お母さんは、コクリと頷く。

「タイちゃんは、とても心根が優しい子だから」

 シミジミと呟くお母さんの瞳は、少し揺らいでいる。

 タイちゃんの癖に、何いい子ぶってんのよっ。うちにくるみたいに図太くいけばいいのにっ。何言われたって、お構いなしにガンガンいけばいいのにっ。

 こんな風に思うのは、とっても悔しかったからなのかもしれない。私の前ではふてぶてしいのに、周囲に気を遣っていい子になって、ずっと色んなことを一人で抱えて我慢してきたんだと思えば、なんだかとっても私の方が悔しくなってきた。

「涼太は、知ってるの?」

「そりゃあね。同級生だし、相談もするだろうから知ってるでしょ」

 なによ、それ。なんなのよ、それ。私だけ知らずにいたの?

 タイちゃんの両親が事故でいないことも。お祖母ちゃんとずっと二人きりで過ごしてきたことも。そのお祖母ちゃんが痴呆になっちゃって、ずっと一人でいたことも。

 悔しいじゃん。悔しいよ。何で何も言ってくれなかったの? あんなに毎日顔をつきあわせて、憎まれ口だって言ってきた相手に、どうして何も話してくれないのよ。

 しかも、知らないのをいいことに、私ってばタイちゃんに散々な態度とって来ちゃったじゃない。何やってんのよ、私っ。

 後悔が物凄いスピードで私の心をかき乱す。自分のしてきた酷い態度に、自分で自分を殴り飛ばしたくなってきた。悔しくて、悲しくて、視界が歪む。

「自分が嫌になってきた……」

 グズリと洟をすすると、お母さんはすぐ近くにあるティッシュの箱をさり気なくそばに置いて訊ねる。

「あら。どうして?」

 なんでもないことみたいにサラリと訊くから、実は本当にたいしたことではないのかもしれないと錯覚しそうなくらいだ。けれど、それはやっぱり軽く受け流せるようなことではなくて、悔しさと悲しさが入り混じった雫がじわりと瞳を囲うように溢れ始める。ティッシュを一枚引き抜き、目元に当てて涙を拭う。

 こんなにも私が後悔しているというのに、目の前にいるお母さんは相変わらずのようすで、なんでもないというようなきょとんとした顔を向けたままだ。

「だって。あれだけ毎日顔を合わせてきて。今だってしょっちゅう会うのに。何にも知らずに、何にも気づかずに来たんだよ。人んちに上がり込んで図々しいなんてこともいっぱい言っちゃったじゃん。タイちゃんに私、酷いことたくさん言ってきた。知らないからって済ませられることじゃないよ」

 自分の失態に今更気づかされて、激しく落ち込んでいく。私が落ち込んだからと言って、今までタイちゃんを傷つけてきた言葉がなかったことにはならないけれど、心の沈み具合は簡単には上がりっこない。

「だからよ」

 落ち込む私を見て、お母さんは優しい表情をした。

「タイちゃんは、葵にそんな風に思って欲しくなかったんじゃないかしら」

 どういうこと?

 グズリと洟を鳴らした私は、ティッシュで零れ出す涙を再びおさえ、お母さんの言葉に疑問を向けて次の言葉を待った。

「タイちゃんは、自分の家のこと抜きで、葵と接していたかったんじゃないのかな」

 なに、それ。意味わかんないし。

 取り返しのつかない言動をしてきたことは、どうやっても覆らない。寂しい思いをしてきたはずのタイちゃんに、酷いことしか言ってこなかった自分がどうしようもなく嫌でたまらない。

 大変な思いをしてきたタイちゃんに、私なんてこを……。

 寂しい思いをしているタイちゃんに、さっさと帰りなよ、なんてことだって、当たり前に言ってきた。誰もいない暗い家に帰ることがどんなに寂しいことか。自分がタイちゃんだったら、そんなこと言われて絶えられるわけがない。

 腹が立って、泣きたくなって、悔しくなって。どうしようもなく、胸が苦しくなったはず。

 なのに。なのに、私……。

 落ち込んでいる私のカップに、お母さんが紅茶を注ぎ足す。

「葵が落ち込んでも仕方ないでしょ。そんな風にしているくらいなら、いつもと変わらずタイちゃんが元気でいられるように、冗談でも言って上げなさい。葵と話している時のタイちゃん、いつも凄く楽しそうだったわよ。そろそろ帰ってくる頃だし」

「うん……。え? 帰ってくるって?」

 落ち込んだり疑問に思ったり、悔しくて悲しくてと感情を忙しくしていると、「ただいまー」と元気な声が玄関先から聞こえてきた。

「お帰りなさい。葵がケーキ買って来てくれたわよー」

「ラッキー」

 ラッキーって。え? タイちゃん?

 首にタオルを巻き木材を抱えたタイちゃんが、お父さんと一緒に帰宅した。

「葵さん、きてたんだね」

 タイちゃんの突然の登場に、泣き顔を見られた苦難くてさっと俯きケーキの箱に手を伸ばす。

「来てたんだねって。ここ私の実家。はい、ケーキ。早い者勝ちだからね」

俯き視線を合わせられないまま憎まれ口を叩いて箱を差し出すと、ふわりと何かが頭の上にかぶせられた。

 ん? タオル?

 視界が白くなり、僅かに顔を上げると、タイちゃんの声が聞こえる。

「ケーキ、うんまそー」

嬉しそうなタイちゃんの声が聞こえる。

 もしかして、泣いていること気づかれた?

 そんな風に思っても訊ねられるはずもなく、さり気なく汗臭いタオルで涙を拭う。

「一人一個だからね」

 当たり前のことを念押ししたら、当然のように「えぇーー」なんて言っているタイちゃん。

「えぇー、じゃないし」

 直ぐに言い返すと、ケタケタと声を上げて笑っている。

 そっか、そうだね。こんなんでいいんだよね。だって、タイちゃんてば凄く笑顔だもん。

 タイちゃんは、笑っているからタイちゃんなんだよね。落ち込んでるタイちゃんなんて、想像できないもの。

 結局、あんなに切ないタイちゃんの身の上話を聞いても、タイちゃんはタイちゃんでしかなくて、いつも通り明るくて、ふざけてて、ちょっと図々しくて、私の家族にとても優しい。

 それが、タイちゃんだ。

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