第三章 戦う少女
第三章-1
第三章 戦う少女
紅色の空は消え去り、天を覆うのは月と星。
雲一つとして流れない夜空は、時間の移ろいすら忘れてしまいそうなほどに静まり返っていた。
最終下校を告げるチャイムが校内に鳴り響いたのはもう幾時間も前となり、生徒会室から望む街並みには多くの灯りがともり、眼下に広がるグラウンドは昼間とは打って変わって闇が居座っているかのように、暗くぼやけていた。
当初の目的であった〝万屋〟を見つけたのにも関わらず、こんな更けた時間になっても綾香は生徒会室の中にいる。
悠莉の救助を依頼するという目的を果たした綾香にとっては、必要以上に長居する理由はなかったのだが、刹に残るように頼まれ、気が付けば夜になっていた。
手元の時計で時刻を改めてみると、もう十時を回っており、学校内からは完全に人の気配が消え去っていた。
暗くなるまでは残って欲しいと言われていたので、綾香は自宅に友達の家に泊まると連絡を入れ、夜遅くになっても大丈夫な準備を済ませてはいたが、これ程遅くなるとは思っていなかった。
時間を気にする必要がないとはいえ、あとどれだけの時間をここで過ごさなければならないのか、その不明瞭な待機時間に綾香は不安を抱き始めていた。
幾ら豪華で過ごしやすい環境が整えられていたとしても、この異質ともいえる生徒会室に居座り続けるのは居心地がいいとは言えなかった。
愛美と言う仲の良い友達が一緒にいるから退屈こそしてはいないが、刹という奇妙な存在が近くにいるのは心が休まらない。
それに加えて、会話をし続けているのが綾香と愛美だけという妙な静けさが居心地の悪さに拍車をかけている。もう、この部屋に居続けて随分と経つが、刹は最初に綾香への説明を終えてから一言も発せず、深琴は本を読み耽っている。
異様に張りつめている刹と深琴の間に流れる空気を綾香は感じ続け困惑しているが、それを知ってか、知った上で敢えて無視し続けているのか、綾香を待たせている張本人はパソコンを見て居たり、卓上で何か作業をしている。
もしかしたら作業をすることに夢中になって、私のことを忘れているのではないか、と綾香は考え始めていたが、刹は時折時計を気にしているようで、その心配はなさそうだった。
そんな停滞しているかのような時間が一時間流れた。
話し相手として愛美がいるとは言え、流石に長時間この場にいるので退屈してきていたが、何よりもトイレに行きたかった。
かれこれ四、五時間この場にいるのだから当然だが、トイレに行きたい、と異性である刹に宣言する気恥ずかしさと一瞬葛藤したが、限界を突破してしまった際の未来と比較すれば些細な問題に過ぎない、と結論付け一度息を整えてから綾香は告げる。
「あの、雨宮先輩。ちょっとお手洗いに行きたいんですけど……」
人が四人もいるとは思えないほどに静かな室内では、小さな声であっても十分に響いた。
すると、刹は今まで下げていた視線を上げ、綾香は数時間振りにあのあからさまに作った微笑みを真正面から捉えた。
「ああ、そうだね。そろそろいい頃合いだし行こうか」
結構な決心と共に放った言葉だったが、刹は何一つとして気にも留めず立ち上がり、それに合わせて本を読んでいた深琴も栞を挟んで椅子から腰を浮かす。
「それじゃあ行こう。あやちん」
愛美も綾香の手を引き動き出す。
「あっ、うん」
これまで時ですら静止しているのではないか、と言うほどに動きのなかった生徒会室内が急に慌ただしく動き始め、驚きもしたが、それよりもトイレに行ける安堵が勝った。
「そうだ篠宮さん。念の為にこれを持っておいてくれないかな」
そう言いながら刹が差し出してきた物は、大雑把に人の形に切り取られた一枚の紙片で、そこにはお墓なんかで見る梵字のような、見慣れない文字のような記号が記されていた。
「これは〝ヒトガタ〟と言ってね、使い方によっては呪いの道具なんかにも使用されるものなのだけれど、今回は篠宮さんを守る為のお守りのような役目を持たせてあるんだ。使わないに越したことはないのだけれど、この一件が片付くまでの間はなるべく身に着けていて欲しいんだ」
「わかりました」
最初、呪いという言葉が出てきてゾッとした綾香だったが、刹がここまで念入りに頼むということは、大切な物なんだと思い、ブレザーの胸ポケットに仕舞っておく。
そして、こんな念押しがあった所為で一つの疑問も湧きだしていた。
「あの、もしかしてこのお守りがないと危ないようなことをするんですか?」
刹の言っていた〝開かずの部屋〟みたいな現象が他の場所にも存在していて、今からそのような場所に向かうのか、と想像すると背筋が凍りそうだった。
「さっきも言ったけれど、それはあくまでも保険だからね。これでも僕は慎重で神経質な性格だから、事前にできるだけ不安の残る要素を排除しておきたいだけだよ。それを絶対に使うとは限らないから、過度に不安がらないで欲しいな」
不安に思うなと言われても、未知のものに対しての不安は簡単には追い払えそうにない。
「それに、今から行こうとしている場所はそれほど危険性は高く無いと予想しているから、そんなに緊張しなくていいよ」
危険性は高くない。その言葉を言われ、これから向かう先には何か得たいの知れないものへと巻き込まれる可能性に綾香は一瞬たじろいだ。
そんな綾香の不安を感じ取ったのか、隣にいる愛美は安心させるために、繋いでいた手をしっかりと握り直し、微笑みかける。
不安や恐怖は簡単には消えない、それでも私は独りではないと知らせる温もりをかんじながら、綾香は尋ねる。
「それで、一体どこに行くんですか?」
「どこって、それはさっき篠宮さんがいっていた場所だよ」
薄笑いを浮かべながらあっけらかんと刹は答えた。
「もしかして、トイレ……ですか?」
自分が行くといった場所はそこしかなく、他の場所など思い浮かばなかった。
「そう、その通りだよ。そこで逢坂さんに起きた事象について調べようと思ってね」
こんな夜も更けた時間に学校のトイレに行くのは本当に嫌だけれど、悠莉を助けることに繋がるのなら、臆するわけにはいかなかった。
「そうだ、この際だから僕たちが事象と呼んでいたモノ、正確な呼び名は〝
「……はい」
突然の刹からの申し出ではあったが、刹が無駄なことの為に時間を割くような人間には思えない綾香はそれに応じる。
「虚ろにして潜む影。これが〝虚影〟を一言で言い表した言葉なんだ。確かにそこに在るのだけれど、実在しているのかどうかは不確かで、それでいて形を持って密に闇に跋扈している。
簡単に言ってしまえば、視線を感じて振り返ってみたけれども、そこには誰一人としていない。けれど、何かが近くにいるような感覚。そんな不可解な物が〝虚影〟と呼ばれているんだ」
刹の言おうとしている所はなんとなくわかるが、綾香はピントのずれた写真を眺めている時のような、はっきりと姿の見えないそれに首を傾げる。
「こればかりは体験してみないと実感が湧かないから仕方がないね。更に噛み砕いた言い方をするなら、心霊現象と言った所だね」
「……霊ですか?」
「そう、幽霊などを指し示す言葉だね。最初僕は〝虚影〟を簡単に説明するために霊的事象と呼称したけれども、この言い表し方は間違いでなければ正解でもないんだ。白でもなければ黒でもない、灰色の曖昧な回答なんだ。例えるなら〝霊〟と〝魂〟違いと言った所かな。篠宮さんはこの二つの違いは何だと思うかい?」
いつの間にかに訊く側から訊ねられる側へと変わってしまった、と綾香は思いつつ、自分なりの答えを出してみた。
「霊は私たちと同じ人の姿をしていて、脚が無くて「うらめしや」って人を恨んでいる存在で、魂は人の思念や思いの塊だと思いました」
「うん、悪くない回答だね」
きっと褒められているのだろうが、刹の奇妙な微笑みの前では、自分が彼の想定通りの発言をして満足させただけなのではないか、と綾香は訝しんだ。
「これには僕なりの解釈も多分に含まれているけれども、〝霊〟も〝魂〟も根源的部分においては同じ存在なんだ。篠宮さんの喩えに合わせるなら、人間の執着心とでも言えばいいのかな。怨みを残すほどの執着、思念を残すほどの執念。これらがその二つに根差しているモノだろうね」
執着や執念、そんなのが根底にあるのは厭だなと綾香は思ったが、刹の説明には何故だか納得できてしまった。
この世に強い未練を残し、死しても尚それへの固執を止められないがために、残した怨みを依り代にして、苦しみながら執着し続ける。
そんなのは只々悲しいだけだな、と思いながら綾香は刹の言葉に耳を傾ける。
「でもね、僕がそれらの根底にあるものは他のモノだと思っているんだ。それはね、〝水〟だよ」
どんな単語が出てくるのかと思えば、それはあまりにもありふれた存在だった所為で拍子抜けしつつも、綾香は訊き返す。
「水……ですか?」
これのどこが〝霊〟と〝魂〟関係するのだろう、と綾香は首を傾げる。
「そう、僕たちが日頃から口にしているあの〝水〟だよ。なぜ〝水〟が関わってると思ったんか、これを解説するには漢字を見てもらった方が手っ取り早いね」
そういいながら刹はホワイトボードの方へと歩みを進め、文字をすらすらと綴る。
「まず〝霊〟についてだけれど、〝霊〟という漢字は元々〝
それで、今回注目して欲しいのが、普段使われなくなった古い方の〝靈〟だ。
この文字を分解して改めて見ると、雨の下に三つ並んだ口、そして
つまり〝
日本には妖怪や幽霊、お化けなどと言った異形の逸話が残っているね。これらがどう関係してくるのか、この中でも一つ違う印象を受ける妖怪に焦点を当てて語るけれど、妖怪と言うのは元々は神様だったんだ。けれども、神様としての権能や威厳が弱く、神様として認められなかったモノが妖怪と呼ばれるようになったんだ」
改めて考えてみれば幽霊とお化けの違い、妖怪なんてモノの存在なんて、非現実的だから意識してこなかったな、と綾香は思った。
「そして次の〝魂〟だけれども、これは〝
そういわれて綾香は、昔読み聞かされたことのある日本昔話などで出てくる妖怪などを思い出してみたが、どれもこれも人の形をしていると気づいた。
鬼も河童も雪女も、どれもこれも死んだ人間の成れの果てだ、と言われてしまえばそうともとれると思ってしまった。
「そして、〝靈〟と〝魂〟の根底にある存在が〝水〟だと僕は言ったけれど、どう繋がっているかはわかってもらえたかな?
雨を降らせる雲は、定められた形を持たない水蒸気の集合体で、雲から滴り落ちた雫は雨粒となり、地上の巫女達の元へと降りしきる。つまりこの二つの存在は〝水〟によって繋がっているんだ。他には人知の外にある存在に関わる文字という共通点もあるけれども、僕は〝水〟の方が重要だと考えているんだ。よく水場には霊が集まりやすいなんて言われているしね」
刹による国語の授業のようなもにようやく一区切りがつき、これがどのように〝万屋〟へと繋がるのだろうか、と綾香の中に疑問が浮かび上がる。
「そして、ここからが肝心な部分になるのだけれど、僕たちが標的として定めているのが〝魂〟の方なんだ。先ほどの話でイメージしやすくなっているといいのだけれど、〝霊〟はあくまでも〝魂〟という雲から零れ落ちた一部分でしかないんだ。そんな欠片である〝霊〟を幾ら相手にしていてもキリがないから、その大本の方である〝魂〟を叩こうとしているんだ。けれど、その過程でどうしても〝霊〟と関わりを持ってしまうから、それに対応する手段として、霊視なんかも必要となってくるんだ」
「でも、私はお化けや幽霊なんて見たことはないですよ?」
必要とされている条件を自身は満たしていないと綾香は告げたが、刹は「心配いらないよ」と常の微笑みを浮かべながら、なんてことのないように続ける。
「僕たちに関われた以上、篠宮さんの能力が開花するのは時間の問題だろうからね」
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